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[54954] 臭いことよ、汚いことよ、醜いことよ、おぞましいことよRe:[54953] 華麗なるハカハラかハラカラかしらんが、臭気が臭い立つね いかに「ヒッカケ」て「広告」しようが、それは隠しようもなく、露わなのである、兜太の「女陰あらわ」のごとく・・Re:[54952] 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえRe:[54951] さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/10(Mon) 09:01  

にきおくらANNEX−Ω 訪問者数:12126896(今日:175/昨日:709)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/10(Mon) 07:48 大安(丙申)スポーツの日 旧暦 9/15 月齢 14.2満月(6時)

日継日嗣柩尿意尿意眠り継ぐで昨日より眠り続けて・・目覚めて一昨日昨日の沈殿した澱を掬う


福柿

だんごがうりきれの団子やのまえでピナレロプリンスで減った腹の養生に考えあぐねていると品の良いご婦人がママ茶利で現れて、我と婦人と同時に福柿を指さし・・

あら?

残った2パック、2個入り、3個入り、1パックづつがケースにあって・・

昼めしかわりで年も取ったから2個入りでいいよ

ありがとう、ぢゃあ、わたしは3個入りを・・

これ、中身はあんこ?

白餡に干し柿を刻んだもので、美味しいわよ

この姿の美しさ、お茶うけにも・・茶会の

そうなの、いつもお茶会で・・

ぢゃあ、3個では足んないでしょ

いえ、きょうは家族ようですから・・よかった

よかった

あれは一昨日の昼で、その福柿を後生大事に背中のバックにつめて帰って

福柿断食、二日間眠りコケタその途中で目覚めた昨日の朝

昨日の朝 NHKいつもの「宗教の時間」出演者、かの島薗進に加えて若松英輔ほか、テーマは「旧統一教会」についての討論会第1回

佞人というものは、社会にも組織にも、その法においても、それを批判し墓石、破壊し無化しようという姿勢がない。


それは俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには政治や生き方そのものおいても、おもねり、忖度、ごますり、すりより・・

> んたく、反吐を催す、飲み込んで吞み込んでも・・
>
> 加えて魔境の預言者即若松英輔君曰く


この佞人の性は魔境の預言者即若松英輔君の性にもいえる

>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。
> 預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない。
> ・・・
> 預言者が切り開いた世界は、水平軸ではなくて、垂直軸です。預言者の言葉を、私たちは水平的ではなく垂直的に理解していかなくてはならない。人の利益のためではなく、キリスト教的にいえば「神の栄光」にその意味を読み解いていく必要がある。預言は神の言葉でなければならないのに、人の言葉に変わることがある。ここに大きな注意点が必要です。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 統一教会文鮮明崇拝と神一重

この統一教会文鮮明崇拝と神一重の若松英輔がシャーシャーとNHKいつもの「宗教の時間」テーマは「旧統一教会」についての討論会第1回において曰く「一番重要なのは人間なのです」と・・

開いた口が塞がらんね

このこの預言者めかして「預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない」と宣った若松英輔はいったいどの口を、どの脳みそを、どの身口意をもって「一番重要なのは人間なのです」といえるのであらうか?

ま、預言者にしても、評論家にしても、随筆家にしても、神父、牧師、宗教家にしても、思想家にしても、そんなもんなんであらうね

出演者は牧師が二人、僧侶が一人、宗教学者が二人、カトリック系「批評家・随筆家」が一人、そこでカトリックの犯した罪を反省して今のカトリックが云々という議論の流れのところで、カトリックの若松英輔へ発言が振られてカトリックをあれだけ主張している若松英輔が「批評家・随筆家」の肩書で出演して、カトリックのカの字も言わずに、「一番重要なのは人間なのです」と・・

「一番重要なのは人間なのです」と本当に思っていて、そういう人間が「「預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない」などといったい云えるのであらうか?

云えるんですね、それが、身口意は分裂しておればこそ・・

その場、その場、で世間の流れに身を委ねてご都合主義の自己分裂さえ覚さず、隠さず、シャーシャーと羊のしょんべんのごとくしゃべくりまくる

臭いことよ、汚いことよ、醜いことよ、おぞましいことよ

おなじ風がこのこの俳壇の風景にも感じられる

非常口に緑の男いつも逃げ



華麗な墓原女陰あらわに村眠り



> > わほこむよANNEX−Ω   訪問者数:12124684(今日:158/昨日:2026)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/08(Sat) 06:03先負(甲午) 旧暦 9/13 寒露 月齢 12.2 十三夜
>
> あ、そうそう
>
> > 陸主宰中村和弘のことば
> > 「創刊より「俳句のなかに私という人間を生かす」ということが『陸』(りく)の理念である。この言葉は、もともとは人間探求派と呼称された加藤楸邨を源としているが、その底には”人間いかに生くべきか”という自問が込められている。
> > これは今日の世においては愚問かもしれぬ。佳い作品さえ作っていれば、という風潮がある。それゆえ逆に尊いのである。」
> >
> > との由であるが”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない
> >
> > 畢竟、俳句というものも、芭蕉より発したその元は・・
>
>
> から発して・・
>
> > 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉
> >
> > 芭蕉は俳句には気鋒も重要な要素といっておったが、この句頭の「狂句」は気鋒としてよく効いている
> >
> > 而して、のちにこの頭の「狂句」を除いたとか・・
> >
> > こがらしの身は竹斎に似たる哉
> >
> > 弱くなるねえ、自余りの「狂句」があってこその句であって、「似たる哉」が直喩であるだけに「表現」としての弱体化は否めず
> >
> > とはいえ、「竹斎」の一語、藪医者の固有名詞という背景の事情を知らぬでも、「竹斎」という一語の語感からなにか感得するものがある
> >
> > 竹という成長も早いが枯れるのも早いもの、その斎、つまり「ものいみ」「いつき」との組み合わせ、そこまで味わうのは深読みのあじわいであらうか
> >
> > 「こがらしの身」は「竹斎に似たる哉」とおどける詠者
> >
> > そこには確たる詠者が現前としてゐる
> >
> > 云ってみればかの道元の「有時経歴」の「我」がゐる、その詠者の「我」に読者の我が共感できるか?
> >  
> > 野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉
> >
> > 「有時経歴」の「我」をもって云えば、その覚悟、過去現在のみならず、その未来までもが現成する
> >
> > 気鋒
> >
> > 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼
> >
> > 機鋒がある
> >
> > 而して「露人ワシコフ」とはなにものであらうか?「竹斎」とはなにものであらうか?という愚問にも似て、なにものであらうとも、一句は成り立つのはないか
> >
> > 「露人」は人を露出している、さらに「ワシコフ」にはワシたる儂がいる
> >
> > 露西亜、西欧と亜細亜に露出しているロシア
> >
> > 「叫びて石榴打ち落す」のはなぜ?
> >
> > なぜもなく「叫びて石榴打ち落す」、そこの味わい、露人の性を露出した味わい
> >
> > 身削がれし鰻の骨の泳ぐ板
> >
> > おさかなくんの映像での即詠にして、露骨にやれば・・
> >
> > 身削がれし鰻露骨に泳ぐ板
> >
> > 露骨にすぎる
> >
> > 身口意、知情意
> >
> > 分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化
> >
> > 身口意は仏教的三業にしてやや行為に傾く、知情意は基教的カントの謂いにしてやや精神に傾く
> >
> > 而しての共通するところは「意」、行為発動未然の意志・態度
> >
> > 意匠と表現、不易流行
> >
> > 我の存否
> >
> > 我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化
> >
> > 共感、感動とは如何なるものか
> >
> > 一句は詠者の現成なれば、そのまるごとの一句に読者は一体どう反応するのか?
> >
> > ニコチン1mgが12℃の昨日の朝より切れ、今朝5mgを3本喫って、四肢重く、脳のアセチルコリン受容体が活性化され・・
> >
> > > いとのとろANNEX−Ω   訪問者数:12122103(今日:188/昨日:1777)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 07:29 先勝(壬辰) 旧暦 9/11 月齢 10.2 意図の吐露
> > >
> > > 懊悩の諸手を挙げて寒昴
> > >
> > > 春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
> > >
> > > 去年今年貫く棒の如きもの  虚子
> > >
> > > 大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨
> > >
> > > 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子
> >
> > 此処までの句には詠者の我が現前として一句の計、景、意匠表現の中にゐる、存在する
> >
> > 而して・・
> >
> > > 湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』 
> > > http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-53da.html
> > >        9 兜太百句を読む「湾曲し」
> > > 2022年09月16日 11:34
> > >
> > >   金子兜太百句を読む 池田澄子  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』                       金子 これはまあね、極め付けだ。まあ前衛俳句なんて言われるのはこういう句からです。これと「華麗な墓原」と。ちょうど神戸から ...
> >
> > 華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太
>
> この句のレトリックの裏側も丸見えだね
>
> 墓原はハカハラであって、ハラカラは容易に連想できる
>
> 華麗なハラカラ女陰あらわに村眠り
>
> となればハラカラから「女陰あらわ」までは一直線
>
> そこでちょっとひねって「村眠り」とくるのは、「華麗なる一族」が流行していたころのいやみであらうがね
>
> これらの句、爆心地のマラソンにも、華麗な墓原女陰あらわにも、全然”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない
>
> この”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない句にも「俳句のなかに私という人間を生かす」ということでは、兜太の臭く、汚く、おぞましい性は生かされている
>
> > これらの兜太の句にはいったいどこに詠者たる兜太の我はいるのだらうか?
> >
> > 詠者は一句の景のまったく外側としか言いようがない
> >
> > 「湾曲し火傷し爆心地」を「マラソン」しているのは兜太か?だれか?被爆者か?被爆者の霊か?それを弔う生き残った現代人か?
> >
> > だうも弔いの風も感じられない、全く一句の景色の外から第三者の観察眼をもってして叙景しておる
> >
> > 「湾曲し火傷し」た人々や街や「爆心地」へのシンパシーもなく、いわばヘテロパシー、それを冷厳な眼といえばいえるであらうが、共感はしない
> >
> > ここにあるのは・・
> >
> > 華麗な墓原女陰あらわに村眠り
> >
> > と同様に「表現」の技巧ばかりであって、目立つ言葉の配合をもって、いわば身口意の「口」ばっかりで「身」の行為が叙景されており、その「意」においての詠者の態度は見下げたものだ
> >
> > 知情意でいえば、「知」ばかりが露わであって、「情」がなく、「意」においては軽蔑にさえあたいする
> >
> > 臭い、醜い、おぞましい
> >
> > > おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太
> > >
> > > ママ〜、おおかみに螢が一つ付いていたよ
> > > 狼の霊も魂もぬきとって、狼が兜太によって展開された「おおかみ」の表現、
> >
> > 一句の景色において「我」不在な句に比して、この「おおかみ」において兜太は我を主張しておる
> >
> > それが見えておるからこそ、大石雄鬼らの佞人どもが兜太のこの我たる「おおかみ」をおがみたてまつるわけだ
> >
> > 霊も魂も抜けた剥製、張りぼてを、ね
> >
> > 而して、この思考、志向、嗜好、歯垢が現俳協に拡がり、腐敗臭が世に蔓延る
> >
> > その風が、臭い、醜い、おぞましい
> >
> > > 山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子
> >
> > この句においては臭く、醜く、おぞましくもない我はいるが、それをそれを道元の「有時経歴」の「我」として読むには我が少々弱いかもしれない、見ようによっては凡慨の域を出得ない
> >
> > > 人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子
> >
> > これは「町の辻」が効いている、十字架
> >
> > 而して詠者が「人形を射つ」でもなく「流燈」しているでもなく「町」なんだから、第三者的詠みであって、その「町の辻」に佇つ詠者に存在感がある
> > >
> > > 犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子
> > >
> > > 非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子
> >
> > これらおいては我は希薄であって、第三者的眼ばかりが在る、ゆえに共感のしようもない
> >
> >
> > > 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘
> > >
> > > 蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘
> > >
> > > 生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘
> >
> > これらおいても詠者の我は希薄であって、目立つ言葉「農奴」「原罪」「煩悩」ばかりが広告の効果は発揮しているが、これらの抽象観念を具象において破壊、あるいは具現化していることは評価し得ても「農奴」「原罪」「煩悩」において深みがなく、いわばこれらの言葉は大岡信曰くの「ヒッカケ」であって、ゆえに共感のしようもなく
> >
> > 身口意でいえば、身の行為はなく、口ばかりで、意においては広告的なところが目立つ
> >
> > 知情意でいえば、知はなく、情もなく、意においてはやはり広告的なところが目立つ
> >
> > ゆえにその風が、臭い、醜い、おぞましいといわれる所以でもあらう
>
> これらの”人間いかに生くべきか”という自問など全然は込められていない句にもこの”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない句にも「俳句のなかに私という人間を生かす」ということでは、いわずもがなに人間が生きている
>
> どうやろうとも「俳句のなかに」さへ「私という人間は「生か」されなくとも、生きざるを得ないのだ
>
> その「俳句の中にも生きざるを得ない人間」の”人間いかに生くべきか”という当為ではなくて”人間どう生きているのか”さへ露わにに現れてしまう
>
>
> いかに「ヒッカケ」て「広告」しようが、それは隠しようもなく、露わなのである、兜太の「女陰あらわ」のごとく・・
>
>
>
> > > 下半身省略されて案山子佇つ  大石雄鬼
> > >
> > > 案山子立つ下半身以下省略す
> >
> > 某甲の記憶の中では「案山子立つ下半身以下省略す」であったが、元句は「下半身省略されて案山子佇つ」だったのね
> >
> > この二つの「表現」の差異に期せずして詠みの「態度」[意」が露わである
> >
> > 大石雄鬼においては「意」の意志の欠如があらわである
> >
> >
> > > http://furansudo.ocnk.net/product/1853
> > >
> > > ■週間俳句で小野裕三さんが書評を書かれています。
> > > 『透明な身体』
> > >
> > > ◆精選俳句叢書「月」シリーズ
> > > 夏痩せてメリーゴーランドと沈む
> > > 「夏痩せ」の句が出れば大石さんの句に間違いない。夏痩せの自分を愛しみ、楽しみ、遊ぶ。大石さんの夏痩せの体はまだ未知の、俳句の種の詰まった抽出がいっぱいありそうだ。
> > > (栞より:こしのゆみこ)
> >
> > いうまでもなく、これらの句においても詠者大石雄鬼は「意」の意志の欠如があらわである、のみならず、そこに現れた我における感慨、いわば詠者の楽しみ方が、じつに幼稚である、オタクである、メルヘンである
> >
> >
> > もっとも、俳句なるもんも、360度如何なる方向へいこうともそれは趣味の問題であって、佳い句とは、中村和弘的には広告的に有効、大石雄鬼的には幼稚、漫画、オタク、メルヘン的に有効とする風もあるんであらう
> >
> >
> > > ◆自選十五句より
> > > 舟虫の化石にならぬため走る
> >
> > 詠者は「舟虫」ではなからう、見立て句
> >
> > いちおうはオモシロイのであるが、「猫の頭の中の地図」を詠んだ詠者に猫でもないのに「猫の頭の中の地図」がわかるのか?といった三橋敏雄を思い出す
> >
> > > 螢狩してきし足を抱いて寝る
> >
> > つまらぬはないがこの我においては、もうちょっと成長しろ、まともな感慨をもてといいたい
> >
> > いつまで幼稚に淫しているのだ?
> >
> >
> > もっともこの幼稚さにはまるむきも多いのであらう、ゆるきゃらの時代なれば・・以下同様なれば省略
> >
> > > 象の頭に小石の詰まる天の川
> > > 菜の花をシャドーボクサー横切れり
> > > 木下闇からだを拭けば赤くなり
> > > 胸に綿あつまつてゐる夏布団
> > > クーラーのしたで潜水艦つくる
> > > 下半身省略されて案山子佇つ
> > > 獅子舞の心臓ふたつもて怒る
> > > 磯巾着小石あつめて眠りゐる
> > >
> > > *
> > > [おおいしゆうき(1958〜)「陸」編集長 「豆の木」参加]
> > > 序句:中村和弘
> > > 栞:こしのゆみこ
> > > 装丁:君嶋真理子
> > > 四六判並製小口折表紙グラシン巻き
> > > 204頁
> > > 2012.09.25刊行
> > >
> > > さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか?
> >
> > こうしてみてみると、一心同体、中村和弘と大石雄鬼は句風がにているから云々は、どうも違うようだ
> >
> > 中村和弘はむしろ金子兜太の句風に近く、内容がないブラフでも、その目立つ言葉によって広告的効果出す
> >
> > それに対して大石雄鬼の句風は、現代ゆるきゃらの流行と大衆の迎合趣味を反映して、本来の俳句の面目たるところの、不易や気鋒や、我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化などのありようからは、遠ざかる一方だね
> >
> > 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえ
> >
> > 若さ、馬鹿さが、売りなんです
>
> 華麗なるハカハラかハラカラかしらんが、臭気が臭い立つね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54953] 華麗なるハカハラかハラカラかしらんが、臭気が臭い立つね いかに「ヒッカケ」て「広告」しようが、それは隠しようもなく、露わなのである、兜太の「女陰あらわ」のごとく・・Re:[54952] 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえRe:[54951] さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/08(Sat) 11:24  

> わほこむよANNEX−Ω   訪問者数:12124684(今日:158/昨日:2026)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/08(Sat) 06:03先負(甲午) 旧暦 9/13 寒露 月齢 12.2 十三夜

あ、そうそう

> 陸主宰中村和弘のことば
> 「創刊より「俳句のなかに私という人間を生かす」ということが『陸』(りく)の理念である。この言葉は、もともとは人間探求派と呼称された加藤楸邨を源としているが、その底には”人間いかに生くべきか”という自問が込められている。
> これは今日の世においては愚問かもしれぬ。佳い作品さえ作っていれば、という風潮がある。それゆえ逆に尊いのである。
>
> との由であるが”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない
>
> 畢竟、俳句というものも、芭蕉より発したその元は・・


から発して・・

> 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉
>
> 芭蕉は俳句には気鋒も重要な要素といっておったが、この句頭の「狂句」は気鋒としてよく効いている
>
> 而して、のちにこの頭の「狂句」を除いたとか・・
>
> こがらしの身は竹斎に似たる哉
>
> 弱くなるねえ、自余りの「狂句」があってこその句であって、「似たる哉」が直喩であるだけに「表現」としての弱体化は否めず
>
> とはいえ、「竹斎」の一語、藪医者の固有名詞という背景の事情を知らぬでも、「竹斎」という一語の語感からなにか感得するものがある
>
> 竹という成長も早いが枯れるのも早いもの、その斎、つまり「ものいみ」「いつき」との組み合わせ、そこまで味わうのは深読みのあじわいであらうか
>
> 「こがらしの身」は「竹斎に似たる哉」とおどける詠者
>
> そこには確たる詠者が現前としてゐる
>
> 云ってみればかの道元の「有時経歴」の「我」がゐる、その詠者の「我」に読者の我が共感できるか?
>  
> 野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉
>
> 「有時経歴」の「我」をもって云えば、その覚悟、過去現在のみならず、その未来までもが現成する
>
> 気鋒
>
> 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼
>
> 機鋒がある
>
> 而して「露人ワシコフ」とはなにものであらうか?「竹斎」とはなにものであらうか?という愚問にも似て、なにものであらうとも、一句は成り立つのはないか
>
> 「露人」は人を露出している、さらに「ワシコフ」にはワシたる儂がいる
>
> 露西亜、西欧と亜細亜に露出しているロシア
>
> 「叫びて石榴打ち落す」のはなぜ?
>
> なぜもなく「叫びて石榴打ち落す」、そこの味わい、露人の性を露出した味わい
>
> 身削がれし鰻の骨の泳ぐ板
>
> おさかなくんの映像での即詠にして、露骨にやれば・・
>
> 身削がれし鰻露骨に泳ぐ板
>
> 露骨にすぎる
>
> 身口意、知情意
>
> 分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化
>
> 身口意は仏教的三業にしてやや行為に傾く、知情意は基教的カントの謂いにしてやや精神に傾く
>
> 而しての共通するところは「意」、行為発動未然の意志・態度
>
> 意匠と表現、不易流行
>
> 我の存否
>
> 我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化
>
> 共感、感動とは如何なるものか
>
> 一句は詠者の現成なれば、そのまるごとの一句に読者は一体どう反応するのか?
>
> ニコチン1mgが12℃の昨日の朝より切れ、今朝5mgを3本喫って、四肢重く、脳のアセチルコリン受容体が活性化され・・
>
> > いとのとろANNEX−Ω   訪問者数:12122103(今日:188/昨日:1777)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 07:29 先勝(壬辰) 旧暦 9/11 月齢 10.2 意図の吐露
> >
> > 懊悩の諸手を挙げて寒昴
> >
> > 春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
> >
> > 去年今年貫く棒の如きもの  虚子
> >
> > 大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨
> >
> > 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子
>
> 此処までの句には詠者の我が現前として一句の計、景、意匠表現の中にゐる、存在する
>
> 而して・・
>
> > 湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』 
> > http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-53da.html
> >        9 兜太百句を読む「湾曲し」
> > 2022年09月16日 11:34
> >
> >   金子兜太百句を読む 池田澄子  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』                       金子 これはまあね、極め付けだ。まあ前衛俳句なんて言われるのはこういう句からです。これと「華麗な墓原」と。ちょうど神戸から ...
>
> 華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太

この句のレトリックの裏側も丸見えだね

墓原はハカハラであって、ハラカラは容易に連想できる

華麗なハラカラ女陰あらわに村眠り

となればハラカラから「女陰あらわ」までは一直線

そこでちょっとひねって「村眠り」とくるのは、「華麗なる一族」が流行していたころのいやみであらうがね

これらの句、爆心地のマラソンにも、華麗な墓原女陰あらわにも、全然”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない

この”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない句にも「俳句のなかに私という人間を生かす」ということでは、兜太の臭く、汚く、おぞましい性は生かされている

> これらの兜太の句にはいったいどこに詠者たる兜太の我はいるのだらうか?
>
> 詠者は一句の景のまったく外側としか言いようがない
>
> 「湾曲し火傷し爆心地」を「マラソン」しているのは兜太か?だれか?被爆者か?被爆者の霊か?それを弔う生き残った現代人か?
>
> だうも弔いの風も感じられない、全く一句の景色の外から第三者の観察眼をもってして叙景しておる
>
> 「湾曲し火傷し」た人々や街や「爆心地」へのシンパシーもなく、いわばヘテロパシー、それを冷厳な眼といえばいえるであらうが、共感はしない
>
> ここにあるのは・・
>
> 華麗な墓原女陰あらわに村眠り
>
> と同様に「表現」の技巧ばかりであって、目立つ言葉の配合をもって、いわば身口意の「口」ばっかりで「身」の行為が叙景されており、その「意」においての詠者の態度は見下げたものだ
>
> 知情意でいえば、「知」ばかりが露わであって、「情」がなく、「意」においては軽蔑にさえあたいする
>
> 臭い、醜い、おぞましい
>
> > おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太
> >
> > ママ〜、おおかみに螢が一つ付いていたよ
> > 狼の霊も魂もぬきとって、狼が兜太によって展開された「おおかみ」の表現、
>
> 一句の景色において「我」不在な句に比して、この「おおかみ」において兜太は我を主張しておる
>
> それが見えておるからこそ、大石雄鬼らの佞人どもが兜太のこの我たる「おおかみ」をおがみたてまつるわけだ
>
> 霊も魂も抜けた剥製、張りぼてを、ね
>
> 而して、この思考、志向、嗜好、歯垢が現俳協に拡がり、腐敗臭が世に蔓延る
>
> その風が、臭い、醜い、おぞましい
>
> > 山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子
>
> この句においては臭く、醜く、おぞましくもない我はいるが、それをそれを道元の「有時経歴」の「我」として読むには我が少々弱いかもしれない、見ようによっては凡慨の域を出得ない
>
> > 人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子
>
> これは「町の辻」が効いている、十字架
>
> 而して詠者が「人形を射つ」でもなく「流燈」しているでもなく「町」なんだから、第三者的詠みであって、その「町の辻」に佇つ詠者に存在感がある
> >
> > 犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子
> >
> > 非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子
>
> これらおいては我は希薄であって、第三者的眼ばかりが在る、ゆえに共感のしようもない
>
>
> > 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘
> >
> > 蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘
> >
> > 生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘
>
> これらおいても詠者の我は希薄であって、目立つ言葉「農奴」「原罪」「煩悩」ばかりが広告の効果は発揮しているが、これらの抽象観念を具象において破壊、あるいは具現化していることは評価し得ても「農奴」「原罪」「煩悩」において深みがなく、いわばこれらの言葉は大岡信曰くの「ヒッカケ」であって、ゆえに共感のしようもなく
>
> 身口意でいえば、身の行為はなく、口ばかりで、意においては広告的なところが目立つ
>
> 知情意でいえば、知はなく、情もなく、意においてはやはり広告的なところが目立つ
>
> ゆえにその風が、臭い、醜い、おぞましいといわれる所以でもあらう

これらの”人間いかに生くべきか”という自問など全然は込められていない句にもこの”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない句にも「俳句のなかに私という人間を生かす」ということでは、いわずもがなに人間が生きている

どうやろうとも「俳句のなかに」さへ「私という人間は「生か」されなくとも、生きざるを得ないのだ

その「俳句の中にも生きざるを得ない人間」の”人間いかに生くべきか”という当為ではなくて”人間どう生きているのか”さへ露わにに現れてしまう


いかに「ヒッカケ」て「広告」しようが、それは隠しようもなく、露わなのである、兜太の「女陰あらわ」のごとく・・



> > 下半身省略されて案山子佇つ  大石雄鬼
> >
> > 案山子立つ下半身以下省略す
>
> 某甲の記憶の中では「案山子立つ下半身以下省略す」であったが、元句は「下半身省略されて案山子佇つ」だったのね
>
> この二つの「表現」の差異に期せずして詠みの「態度」[意」が露わである
>
> 大石雄鬼においては「意」の意志の欠如があらわである
>
>
> > http://furansudo.ocnk.net/product/1853
> >
> > ■週間俳句で小野裕三さんが書評を書かれています。
> > 『透明な身体』
> >
> > ◆精選俳句叢書「月」シリーズ
> > 夏痩せてメリーゴーランドと沈む
> > 「夏痩せ」の句が出れば大石さんの句に間違いない。夏痩せの自分を愛しみ、楽しみ、遊ぶ。大石さんの夏痩せの体はまだ未知の、俳句の種の詰まった抽出がいっぱいありそうだ。
> > (栞より:こしのゆみこ)
>
> いうまでもなく、これらの句においても詠者大石雄鬼は「意」の意志の欠如があらわである、のみならず、そこに現れた我における感慨、いわば詠者の楽しみ方が、じつに幼稚である、オタクである、メルヘンである
>
>
> もっとも、俳句なるもんも、360度如何なる方向へいこうともそれは趣味の問題であって、佳い句とは、中村和弘的には広告的に有効、大石雄鬼的には幼稚、漫画、オタク、メルヘン的に有効とする風もあるんであらう
>
>
> > ◆自選十五句より
> > 舟虫の化石にならぬため走る
>
> 詠者は「舟虫」ではなからう、見立て句
>
> いちおうはオモシロイのであるが、「猫の頭の中の地図」を詠んだ詠者に猫でもないのに「猫の頭の中の地図」がわかるのか?といった三橋敏雄を思い出す
>
> > 螢狩してきし足を抱いて寝る
>
> つまらぬはないがこの我においては、もうちょっと成長しろ、まともな感慨をもてといいたい
>
> いつまで幼稚に淫しているのだ?
>
>
> もっともこの幼稚さにはまるむきも多いのであらう、ゆるきゃらの時代なれば・・以下同様なれば省略
>
> > 象の頭に小石の詰まる天の川
> > 菜の花をシャドーボクサー横切れり
> > 木下闇からだを拭けば赤くなり
> > 胸に綿あつまつてゐる夏布団
> > クーラーのしたで潜水艦つくる
> > 下半身省略されて案山子佇つ
> > 獅子舞の心臓ふたつもて怒る
> > 磯巾着小石あつめて眠りゐる
> >
> > *
> > [おおいしゆうき(1958〜)「陸」編集長 「豆の木」参加]
> > 序句:中村和弘
> > 栞:こしのゆみこ
> > 装丁:君嶋真理子
> > 四六判並製小口折表紙グラシン巻き
> > 204頁
> > 2012.09.25刊行
> >
> > さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか?
>
> こうしてみてみると、一心同体、中村和弘と大石雄鬼は句風がにているから云々は、どうも違うようだ
>
> 中村和弘はむしろ金子兜太の句風に近く、内容がないブラフでも、その目立つ言葉によって広告的効果出す
>
> それに対して大石雄鬼の句風は、現代ゆるきゃらの流行と大衆の迎合趣味を反映して、本来の俳句の面目たるところの、不易や気鋒や、我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化などのありようからは、遠ざかる一方だね
>
> 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえ
>
> 若さ、馬鹿さが、売りなんです

華麗なるハカハラかハラカラかしらんが、臭気が臭い立つね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54952] 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえRe:[54951] さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/08(Sat) 09:43  

わほこむよANNEX−Ω   訪問者数:12124684(今日:158/昨日:2026)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 08:16 先負(甲午) 旧暦 9/13 寒露 月齢 12.2 十三夜

狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉

芭蕉は俳句には気鋒も重要な要素といっておったが、この句頭の「狂句」は気鋒としてよく効いている

而して、のちにこの頭の「狂句」を除いたとか・・

こがらしの身は竹斎に似たる哉

弱くなるねえ、自余りの「狂句」があってこその句であって、「似たる哉」が直喩であるだけに「表現」としての弱体化は否めず

とはいえ、「竹斎」の一語、藪医者の固有名詞という背景の事情を知らぬでも、「竹斎」という一語の語感からなにか感得するものがある

竹という成長も早いが枯れるのも早いもの、その斎、つまり「ものいみ」「いつき」との組み合わせ、そこまで味わうのは深読みのあじわいであらうか

「こがらしの身」は「竹斎に似たる哉」とおどける詠者

そこには確たる詠者が現前としてゐる

云ってみればかの道元の「有時経歴」の「我」がゐる、その詠者の「我」に読者の我が共感できるか?
 
野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉

「有時経歴」の「我」をもって云えば、その覚悟、過去現在のみならず、その未来までもが現成する

気鋒

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼

機鋒がある

而して「露人ワシコフ」とはなにものであらうか?「竹斎」とはなにものであらうか?という愚問にも似て、なにものであらうとも、一句は成り立つのはないか

「露人」は人を露出している、さらに「ワシコフ」にはワシたる儂がいる

露西亜、西欧と亜細亜に露出しているロシア

「叫びて石榴打ち落す」のはなぜ?

なぜもなく「叫びて石榴打ち落す」、そこの味わい、露人の性を露出した味わい

身削がれし鰻の骨の泳ぐ板

おさかなくんの映像での即詠にして、露骨にやれば・・

身削がれし鰻露骨に泳ぐ板

露骨にすぎる

身口意、知情意

分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化

身口意は仏教的三業にしてやや行為に傾く、知情意は基教的カントの謂いにしてやや精神に傾く

而しての共通するところは「意」、行為発動未然の意志・態度

意匠と表現、不易流行

我の存否

我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化

共感、感動とは如何なるものか

一句は詠者の現成なれば、そのまるごとの一句に読者は一体どう反応するのか?

ニコチン1mgが12℃の昨日の朝より切れ、今朝5mgを3本喫って、四肢重く、脳のアセチルコリン受容体が活性化され・・

> いとのとろANNEX−Ω   訪問者数:12122103(今日:188/昨日:1777)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 07:29 先勝(壬辰) 旧暦 9/11 月齢 10.2 意図の吐露
>
> 懊悩の諸手を挙げて寒昴
>
> 春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
>
> 去年今年貫く棒の如きもの  虚子
>
> 大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨
>
> 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子

此処までの句には詠者の我が現前として一句の計、景、意匠表現の中にゐる、存在する

而して・・

> 湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』 
> http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-53da.html
>        9 兜太百句を読む「湾曲し」
> 2022年09月16日 11:34
>
>   金子兜太百句を読む 池田澄子  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』                       金子 これはまあね、極め付けだ。まあ前衛俳句なんて言われるのはこういう句からです。これと「華麗な墓原」と。ちょうど神戸から ...

華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太

これらの兜太の句にはいったいどこに詠者たる兜太の我はいるのだらうか?

詠者は一句の景のまったく外側としか言いようがない

「湾曲し火傷し爆心地」を「マラソン」しているのは兜太か?だれか?被爆者か?被爆者の霊か?それを弔う生き残った現代人か?

だうも弔いの風も感じられない、全く一句の景色の外から第三者の観察眼をもってして叙景しておる

「湾曲し火傷し」た人々や街や「爆心地」へのシンパシーもなく、いわばヘテロパシー、それを冷厳な眼といえばいえるであらうが、共感はしない

ここにあるのは・・

華麗な墓原女陰あらわに村眠り

と同様に「表現」の技巧ばかりであって、目立つ言葉の配合をもって、いわば身口意の「口」ばっかりで「身」の行為が叙景されており、その「意」においての詠者の態度は見下げたものだ

知情意でいえば、「知」ばかりが露わであって、「情」がなく、「意」においては軽蔑にさえあたいする

臭い、醜い、おぞましい

> おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太
>
> ママ〜、おおかみに螢が一つ付いていたよ
> 狼の霊も魂もぬきとって、狼が兜太によって展開された「おおかみ」の表現、

一句の景色において「我」不在な句に比して、この「おおかみ」において兜太は我を主張しておる

それが見えておるからこそ、大石雄鬼らの佞人どもが兜太のこの我たる「おおかみ」をおがみたてまつるわけだ

霊も魂の抜けた剥製、張りぼてを、ね

而して、この思考、志向、嗜好、歯垢が現俳協に拡がり、腐敗臭が世に蔓延る

その風が、臭い、醜い、おぞましい

> 山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子

この句においては臭く、醜く、おぞましくもない我はいるが、それをそれを道元の「有時経歴」の「我」として読むには我が少々弱いかもしれない、見ようによっては凡慨の域を出得ない

> 人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子

これは「町の辻」が効いている、十字架

而して詠者が「人形を射つ」でもなく「流燈」しているでもなく「町」なんだから、第三者的詠みであって、その「町の辻」に佇つ詠者に存在感がある
>
> 犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子
>
> 非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子

これらおいては我は希薄であって、第三者的眼ばかりが在る、ゆえに共感のしようもない


> 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘
>
> 蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘
>
> 生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘

これらおいても詠者の我は希薄であって、目立つ言葉「農奴」「原罪」「煩悩」ばかりが広告の効果は発揮しているが、これらの抽象観念を具象において破壊、あるいは具現化していることは評価し得ても「農奴」「原罪」「煩悩」において深みがなく、いわばこれらの言葉は大岡信曰くの「ヒッカケ」であって、ゆえに共感のしようもなく

身口意でいえば、身の行為はなく、口ばかりで、意においては広告的なところが目立つ

知情意でいえば、知はなく、情もなく、意においてはやはり広告的なところが目立つ

ゆえにその風が、臭い、醜い、おぞましいといわれる所以でもあらう

> 下半身省略されて案山子佇つ  大石雄鬼
>
> 案山子立つ下半身以下省略す

某甲の記憶の中では「案山子立つ下半身以下省略す」であったが、元句は「下半身省略されて案山子佇つ」だったのね

この二つの「表現」の差異に期せずして詠みの「態度」[意」が露わである

大石雄鬼においては「意」の意志の欠如があらわである


> http://furansudo.ocnk.net/product/1853
>
> ■週間俳句で小野裕三さんが書評を書かれています。
> 『透明な身体』
>
> ◆精選俳句叢書「月」シリーズ
> 夏痩せてメリーゴーランドと沈む
> 「夏痩せ」の句が出れば大石さんの句に間違いない。夏痩せの自分を愛しみ、楽しみ、遊ぶ。大石さんの夏痩せの体はまだ未知の、俳句の種の詰まった抽出がいっぱいありそうだ。
> (栞より:こしのゆみこ)

いうまでもなく、これらの句においても詠者大石雄鬼は「意」の意志の欠如があらわである、のみならず、そこに現れた我における感慨、いわば詠者の楽しみ方が、じつに幼稚である、オタクである、メルヘンである


もっとも、俳句なるもんも、360度如何なる方向へいこうともそれは趣味の問題であって、佳い句とは、中村和弘的には広告的に有効、大石雄鬼的には幼稚、漫画、オタク、メルヘン的に有効とする風もあるんであらう


> ◆自選十五句より
> 舟虫の化石にならぬため走る

詠者は「舟虫」ではなからう、見立て句

いちおうはオモシロイのであるが、「猫の頭の中の地図」を詠んだ詠者に猫でもないのに「猫の頭の中の地図」がわかるのか?といった三橋敏雄を思い出す

> 螢狩してきし足を抱いて寝る

つまらぬはないがこの我においては、もうちょっと成長しろ、まともな感慨をもてといいたい

いつまで幼稚に淫しているのだ?


もっともこの幼稚さにはまるむきも多いのであらう、ゆるきゃらの時代なれば・・以下同様なれば省略

> 象の頭に小石の詰まる天の川
> 菜の花をシャドーボクサー横切れり
> 木下闇からだを拭けば赤くなり
> 胸に綿あつまつてゐる夏布団
> クーラーのしたで潜水艦つくる
> 下半身省略されて案山子佇つ
> 獅子舞の心臓ふたつもて怒る
> 磯巾着小石あつめて眠りゐる
>
> *
> [おおいしゆうき(1958〜)「陸」編集長 「豆の木」参加]
> 序句:中村和弘
> 栞:こしのゆみこ
> 装丁:君嶋真理子
> 四六判並製小口折表紙グラシン巻き
> 204頁
> 2012.09.25刊行
>
> さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか?

こうしてみてみると、一心同体、中村和弘と大石雄鬼は句風がにているから云々は、どうも違うようだ

中村和弘はむしろ金子兜太の句風に近く、内容がないブラフでも、その目立つ言葉によって広告的効果出す

それに対して大石雄鬼の句風は、現代ゆるきゃらの流行と大衆の迎合趣味を反映して、本来の俳句の面目たるところの、不易や気鋒や、我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化などのありようからは、遠ざかる一方だね

俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえ

若さ、馬鹿さが、売りなんです

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54951] さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 08:16  

いとのとろANNEX−Ω   訪問者数:12122103(今日:188/昨日:1777)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 07:29 先勝(壬辰) 旧暦 9/11 月齢 10.2 意図の吐露

懊悩の諸手を挙げて寒昴

春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子

去年今年貫く棒の如きもの  虚子

大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨

学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子

湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』 
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-53da.html
       9 兜太百句を読む「湾曲し」
2022年09月16日 11:34

  金子兜太百句を読む 池田澄子  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』                       金子 これはまあね、極め付けだ。まあ前衛俳句なんて言われるのはこういう句からです。これと「華麗な墓原」と。ちょうど神戸から ...

おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太

ママ〜、おおかみに螢が一つ付いていたよ
狼の霊も魂もぬきとって、狼が兜太によって展開された「おおかみ」の表現、


山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子

人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子

犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子

非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子


実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘

蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘

生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘

下半身省略されて案山子佇つ  大石雄鬼

案山子立つ下半身以下省略す

http://furansudo.ocnk.net/product/1853

■週間俳句で小野裕三さんが書評を書かれています。
『透明な身体』

◆精選俳句叢書「月」シリーズ
夏痩せてメリーゴーランドと沈む
「夏痩せ」の句が出れば大石さんの句に間違いない。夏痩せの自分を愛しみ、楽しみ、遊ぶ。大石さんの夏痩せの体はまだ未知の、俳句の種の詰まった抽出がいっぱいありそうだ。
(栞より:こしのゆみこ)


◆自選十五句より
舟虫の化石にならぬため走る
螢狩してきし足を抱いて寝る
象の頭に小石の詰まる天の川
菜の花をシャドーボクサー横切れり
木下闇からだを拭けば赤くなり
胸に綿あつまつてゐる夏布団
クーラーのしたで潜水艦つくる
下半身省略されて案山子佇つ
獅子舞の心臓ふたつもて怒る
磯巾着小石あつめて眠りゐる


[おおいしゆうき(1958〜)「陸」編集長 「豆の木」参加]
序句:中村和弘
栞:こしのゆみこ
装丁:君嶋真理子
四六判並製小口折表紙グラシン巻き
204頁
2012.09.25刊行

さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか?

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54950] ろくでもない風体即大石雄鬼君だが、これはその醸す形姿のみならず一句の一言の一行為の臭気の際立つ幽鬼めいたもんを、現俳協の筆頭幹事につけ、事業部長となしちょるがゆえに、現俳協のデータベースも煩悩詰まる生ゴミになり果てるんぢゃわいの。煩悩詰まる生ゴミも捨てたもんではないが、ようは ”人間いかに生くべきか”における使いようであるジャーナリストの広告屋の「表現」Re:[54949] ”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない生ゴミの煩悩散らす群れ鴉Re:[54947] 俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには、政治や生き方そのものおいても、おもねり、忖度、ごますり、すりより・・Re:[54946] 全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒Re:[54945] 眩暈、過呼吸、反吐・・ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/29(Thu) 15:14  

ててうおいANNEX−Ω   訪問者数:12112793(今日:328/昨日:2655)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/29(Thu) 10:44 赤口(乙酉)旧暦 9/4月齢 3.2

”人間いかに生くべきか”にはある志向性がある

人格的陶冶もあれば苦娑婆での位階を求める嗜好もある

「有時・経歴」の中心の「我」においてその志向にして嗜好は前後左右上下、まるで天球宇宙のやうに四方八方へ触手を伸ばす

人間も人権<人格<風格と苦娑婆の核が拡がって、ついには地水火風空の空にさへ至る

風は西欧の神の伝統においては神の息吹であり

神を前提にせぬ東洋においても「百骸九竅の中に物有り。かりに名付けて風羅坊といふ」天籟

而して、この風も「風羅坊」の風体、そこから肉を抜き取り風骨、骨もぬきとり風勢、趣味としての風情もある

さて、”人間いかに生くべきか”?



> もたぬをてANNEX−Ω 訪問者数:12100378(今日:199/昨日:724)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/21(Wed) 07:58 先負(丁丑) 旧暦 8/26 月齢 24.8 持たぬを手
>
> 持たぬを手とならば・・
>
> 入れものが無い両手で受ける 放哉
>
> 鉄鉢の中へも霰 山頭火

これらには「志向」性も「嗜好」性も希薄であって「する」ことよりやはり「ある」ことに重点があり「どうしようもないわたし」ではあるが、そういう「どうしようもないわたし」を選び取った、あるいは選び取らされた「経歴」は感知できる

正直である



> とここまでで寝てしまった。脳みそ身体のニコチン抜きに二日間、今朝起きてやや軽くなった身体でそじ坊の不味いかつ丼と冷やし山菜とろろそばセット\1140円也のあと帰りしなのVie de Franceでいくつか見繕い、それこそ「入れものが無い両手で受ける」モチモチゴマアンドーナツ\140+プレミアムアンドーナツ\180+パン・オ・レザン\200を素手で受け、背面ポケットにつっこみ、

正直といえば、パン・オ・レザンは\200ではなく\220である


> てくてくと「どうしようもないわたしが歩いてゐる」山頭火の淫酒酒乱ならねど、またニコチンに侵された四肢をもっててくてく・・
>
> 悪舌を収めて入歯浮ける胡麻
>
> 秋天の地獄へ食はせ愚痴の数々
>
> だうも、現俳協のデータベースを眺めておっても、作品も句評も、また、それらへの感想も愚痴ばかりで、まことに不味くかつ丼もドーナツも入れものが無い両手で受ける反吐になりそう

さて、”人間いかに生くべきか”?煩悩詰まる生ゴミにもどろう、彼我の愚痴のオンパレード

> > えをりうしANNEX−Ω   訪問者数:12093349(今日:1276/昨日:1526)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/16(Fri) 09:27 仏滅(壬申) 旧暦 8/21 月齢 19.8
>
> > Honesty / Billy Joel  Unplugged cover by Ai Ninomiya
> > http://www.youtube.com/watch?v=Cq4hpkbkE84
> >
> > HonestyとPrettyFacesとPrettyLies
> >
> >
> > > > ゆおくるおANNEX−Ω   訪問者数:12056990(今日:2069/昨日:450)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 13:42 仏滅(甲辰) 旧暦 7/22 月齢 21.4 下弦
> > > >
> > > Desperado / Eagles Unplugged cover by Ai Ninomiya
> > > http://www.youtube.com/watch?v=Y2gIAfeFWUQ
> > >
> > > > 井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー
> > > > http://www.youtube.com/watch?v=WCSeiSOaHxY
> > > >
> > > > 鳩一羽人間一人木下闇
> > > >
> > > > 産土の神社の泉も涸れて久しく涸溝が暗渠の彷徨者専用歩道ととなり延々と河岸段丘を幾つか越えて多摩川まで・・子供ころはザリガニを捕ったハケの湧き水に発する小川の暗渠の道蓋にはめったやたらと干乾びて転がる蚯蚓と
> > >
> > > 産土の暗渠の上を枯れ蚯蚓
> > >
> > > > 人家の裏から茫茫と暗渠道上へかかる木々花々
> > > >
> > > > 炎天下地名人名樹木名
> > > >
> > > > 名を知って、

名を以て存在となす

思い出す、思うことは大切だね、良かれ悪しかれ、光と闇、人生の自然の彫琢

> > > > ああ、こんなところもあった、あんな人もいた、走馬灯のごとくゆっくり歩く眼前に展開する暗渠道、都営や公団の住宅の一郭の樹木にはよく名札がかかっていて、姿のよいやまももの一本を楽しみに同じコースを歩き歩き、最初は4000歩も歩けば股関節の違和感、切株めかしたコンクリ台座へ股を開いてよく伸ばし歩行再開、旅重ねれば、1万、2万、3万歩も

> > > > ああ、逝った、行った、あの木は山法師
> >
> > 山法師といえば田川飛旅子を思い出す
>
> 山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子
>
> 道元の「経歴」、重畳たる山々を分け入って、永平寺に赴く道元、高野山へ分け入る空海、比叡山へ分け入る最澄、さらには千日回峰の阿闍梨ら、その祖の役小角らの趣味がややなくもない
>
> 分け入っても分け入っても青い山 山頭火

人間(じんかん)到る処青山有り

青山墓地

人間(じんかん)到る処墓場有り、ゴミ捨場あり

> 奥の院で入定した空海の髭も濃くなっているであらうか

ここ20数年ぶりに「田川飛旅子読本」角川書店編 平成7年=1995年を読み返した

飛旅子は正直だね、嘘がない、つくりこまない、一句は他人に読ませる、賞をとるとか、人気を博すというよりも、一句を詠むことによって詩文を、まずそれを読む自分をなぐさめる

まあ、いってみれば自己救済

底が眼目であって、兜太のごとき、大岡信がごとき、ヤラセではない

これはまことに”人間いかに生くべきか”の重大な局面にして人間の「本来の面目」であらうがね

> 身削がれし鰻の骨の泳ぐ板
>
> 生命力は強いね、でもこれでは救われない
>
> いまNHKのおさかなくんの番組でやっていた
>
> 変な被り物をしてキーキー声で、あんなもんが享ける時代で、そっこらじゅうぬいぐるみのメルヘンだらけで、ゆえにメルヘン俳句か、レベルが落ちたもんだ

そういう飛旅子のもとで学んでいったいこの大石雄鬼君、とても雄鬼とはいえぬ幽鬼の風体にして

案山子立つ下半身以下省略す 大石雄鬼

だったかな、よく覚えておらんが・・カーブミラーと焼き芋屋とか、覚えるにも莫迦莫迦しい「だぶだぶのズボン」とか、自己を韜晦して幽鬼のごとくからみつき、ごまかし、排除をこととなす大石雄鬼君

山本千代子氏も追われたか辞めたかしらんが、「あの雄鬼というのはろくなもんぢゃないね」という電話が最後の電話であった

またしても排除の論理木の実落つ  加藤山査子

この句を当時、陸の定例句会でとったが、山査子氏は風格があった、いつも美人を引き連れ京王百貨店の社長という個人情報をはなれても、句風にも風格があった

親木より排除されたとはいわんでも親木より落とされた木の実は地に落ちてまた芽を出し、新たな木になる気にさせる、現代の娑婆世間の佞人どもに排除され踏み付けられてもまた復活する、そんな趣味がある

それにしても、そんなろくでもない風体即大石雄鬼君だが、これはその醸す形姿のみならず一句の一言の一行為の臭気の際立つ幽鬼めいたもんを、現俳協の筆頭幹事につけ、事業部長となしちょるがゆえに、現俳協のデータベースも煩悩詰まる生ゴミになり果てるんぢゃわいの

まあ、思い出す、思うことは大切だね、良かれ悪しかれ、光と闇、人生の自然の彫琢にして経歴


> おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/745/
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

見ようによっては、云いようによっては、幼稚で作為にみちみちているという意見もあるでしょうが、作者は現俳協の会長センセイなれば・・云々


なぜ、「おおかみ」なのか

なぜ、「巨大な存在感」なのか

>  この現実から切り離されたような一コマは、絵本の一ページのようでもある。

これも新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできるメルヘン鑑賞ですね、まことにごもっともです

> この不思議な感覚は、螢が夏の季語、狼が冬の季語、という俳句の決まりごとが影響しているかもしれない。もちろん絶滅したニホンオオカミと現存する螢との組み合わせが不思議さを醸しだしているが、俳句をつくる者に刷り込まれてしまった狼は冬のものという決まりごとと、夏の象徴である螢との同時の存在がこの俳句に不思議な印象を与えている。それは、宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」の四季の花が同時に咲いているシーンの異様さに似ている。(ちなみにこの映画では、一つ一つの花の名がわかるように描かれており、その結果各季節の花が同時に咲く不自然さからそこが異界であることがわかる演出になっている。)

これも新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできるメルヘンの深みに達した鑑賞ですね、まことにごもっともです

>  金子兜太は多くの狼の句を作っているが、これほどストレートで、これほど難解で、これほど心に残ってしまうものは、この句を置いてないであろう。この句の裏にある憂いている兜太の根幹の部分を感じたい一句である。

「この句の裏にある憂いている兜太の根幹の部分」とは、なんなんでしょう?

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

狼の霊も魂もぬきとって、狼が兜太によって展開された「おおかみ」の表現、大石雄鬼君はまんまと引っ掛かっている、いやさ、意図的にひっかけられているのか

ママ〜、おおかみに螢が一つ付いていたよ

あら、可愛いいわね、とは、かつてここに存在した村井しゅうさんか

ぢゃあ、おーいお茶にでも投稿しましょ

すっかす、こんなやらせの駄句なんぞ、おーいお茶でもとらんべ、お茶が濁る

あの虫唾の走る大岡信曰く、「表現における近代」岩波1983年 283頁

「多かれ少なかれ、人に見せたり、読ませたりする「表現」というものには、その享受者をヒッカケてやろうという意思が混濁する」

ジャーナリスト詩人大岡信ならではの言いぐさで、大岡の「折々のうた」もまたヒッカケであることを自ら吐露している、朝日新聞の広告の片棒担ぎでさんざん読者の駄句を掲載して、読者にすりよりごますり発行部数増大に貢献して、文化勲章が呵々大笑ぢゃったが、ソレに勲章をあげた河合隼雄がまた創価学会にすりより文化庁長官なんだから、まあ、光と影の彫琢にも臭気が鼻を突き、反吐を催す

> 道元の「経歴」
> [54851] 高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人。Re:[54846] いくら日常言語的な経歴があろうが経歴(きょうりゃく)の貧弱なもんは美味しくもないし栄養にもならぬ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/12(Sat) 21:41

> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

> 「有時」を刻々に「経歴」せしめる中心軸としての「我」は、
>
> 生滅流転の世界に生きる経験的、現象的主体でなければならない
>
> と同時に、また、
>
> 万象「同時炳現」の非時間的マンダラを、寂然不動の相において観察する形而上的主体でもなければならない。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 分け入っても分け入ってもゴミの山は飛ばして・・

また好んで煩悩詰まる生ゴミの山に分け入って


> > > 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘

農奴、これ・・なべて文明国の社会に内在した毒であって、土地に、社会に拘束された人間の苦

> > 蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘
> >
> > 蛸壺と原罪の配合、おもしろいですね、南天と農奴のように・・
> >
> > 此の原罪は農奴に通じる、狭い概念の「原罪」を破壊したしたところの苦である
> >
> > 蛸壺に蛸が入って凍てていても不思議はないが、それと人間の蛸壺

> > そのタコツボから抜けられぬ人間の思想
>
> 人間の思想のみならず、そこから抜けられぬ人間そのもの
>
> 俳句も結社も協会も教会も政党も奸僚もみなタコツボ化しておる
>
> > 聖書の妄想の「原罪」などというものを脱却した苦の大本にして仏教的生老病死への視野の拡大
>
> 生老病死はなぬも仏教に限らぬ、人間存在の大本
>
>
> > しかし、実南天/農奴、蛸壺/原罪、狭溢なる概念を破壊して、してその先は?
> >
> > 苦の救いがあるか
> >
> > ありません。
>
> > 狭い概念を脱却できたところまでは、それはそれなりに人間の幅も広がろうというものですが、だからといって苦からの脱却までにはいたりません
> >
> > なぜだらうか?
> >
> > 一句にとらえられた形式、景色、配合があまりに他化的、詠む姿勢が第三者的なのですね
> >
> > 一句に動きがない、動詞がない、粘りがない、意志がない、第三者の観察眼なのです
>
> 山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子
>
> この「有時」「経歴」の中心に、「我」を置く「我」を軸とした詠みに比して、中村和弘氏によって往々引き合いに出される句
>
> 人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子
>
> 犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子
>
> 非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子
>
> これらもみな第三者の観察眼なのですね
>
> なにかこう生の大本へ食い込んでくるものがない
>
> もっとも、眺める、見る、のは、この国のことばでいえば目合ひ(まぐわい)であるからして、一句の景と目合ひて交感しているのかもしれない

実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘

蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘


一句の、一評の、一貌の、景は人格の計にして、現成するものであれば・・中村和弘氏は自らにおいて農奴を、原罪を感じて凍てておるのであらか?

だうも、そういう感じもしない

飛旅子の句においては第3者的観察眼とはいえ、その巷の不条理と不気味さを詠んだものなればその不条理と不気味さの最中に我を置いている、とくに「町の辻」においては、死と霊の交錯する十字架すら思わしめる交感がある

> 交感しても感動がない

ことさらに農奴だ原罪だと、目立つ言葉を配して、一句を目立つ、佳い句となすのは、いわば、広告の手法である

広告においては、まんず ”人間いかに生くべきか”を問うこともなからう

広告においては、まんず いかに人目について買ってもらえるかが、眼目

まあ、松本仁志を広告に起用するリクルートのようなもんだ、醜悪さが売りで目立てばよいちうさもしさ

買ってもらった結果が陸の主宰で、現俳協の会長で「ある」

しかあれば、恥を知れば、長広告の・・

> 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘 評者:堀之内長一
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

中村和弘句集『東海』(2012年)より。中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。
 唐突である。ぎくりとする。農民や百姓とは訳が違う。農奴なのである。農奴解放という言葉もある。日本に農奴制はなかった。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★


> これらは句評ではなく詠者へのすりよりごますり忖度崇拝だね

「中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。」一体全体句評なのであらうか?

バカバカしくて話にもならぬ、こんなものを現俳協のデータベースに掲げておくことすら、恥ずかしくてできぬことであらうがね、ましてや、原罪に凍てておれば・・


> 先の丸山真男の言葉でいえば「である」ことと「する」こと
>
> 「である」ことに安住して「する」ことがなおざりではないだらうか
>
> 陸主宰のことば
> 「創刊より「俳句のなかに私という人間を生かす」ということが『陸』(りく)の理念である。この言葉は、もともとは人間探求派と呼称された加藤楸邨を源としているが、その底には”人間いかに生くべきか”という自問が込められている。
> これは今日の世においては愚問かもしれぬ。佳い作品さえ作っていれば、という風潮がある。それゆえ逆に尊いのである。
>
> との由であるが”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない
>
> 畢竟、俳句というものも、芭蕉より発したその元は・・
>
> ふる池やかわず飛び込む水の音 芭蕉
>
> 佛頂和尚と方丈に対座しているときに芭蕉の口から飛び出した「かわず飛び込む水の音」
>
> その頭に「ふる池や」とつけて一句になったともいわれるこの句にはやはり生の禅味がある
>
> 時々刻々刹那刹那に古池が「かわず飛び込む水の音」で新しく蘇る、そこの機微
>
> > かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄
> >
> > http://miho.opera-noel.net/archives/480
> >
> > 『まぼろしの鱶』 解釈は次のようであろうか。 第一句集の最初に置かれた句である。「天金の書」とは、洋書の製本で、上方の小口だけに …
> >
> > とか、これも無知蒙昧な鑑賞があるが、この句の深読みは、やはり毒消しで、その毒消しは、効いている
> >
> > かもめは悪食の鳥であって、それを呼ぶ詠者のいう「天金の書」とは、その典型をいえば、聖書である

自らを聖となすものにはろくなもんがおらん

かといって聖なるものがみな煩悩詰まる生ゴミの臭気を発するかといえば、そうでもなく、つかいようによってはまた煩悩詰まる生ゴミが香華を発し聖に化すこともある

> > 最近のTV映像では、統一教会文鮮明の聖書、聖言集
> >
> > まさに毒の最たるもんであって、その毒を、あたかも聖言として鵜呑みにする佞人ども
> >
> > その天金の書をひらくたびそこにある毒を悪食のかもめがきて食ってくれ
> >
> > 鵜呑みの佞人の意の理、祈りとはまた別の風景が現成しますね
>
> 生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘
>
> 生ゴミの煩悩散らす群れ鴉

生ゴミの煩悩詰めて東国の地べたを徘徊した親鸞

生ゴミの煩悩ゆえに霊性に覚めた

その親鸞を聖人と聖化した真宗教団は娑婆での世俗的地位は向上したものの、霊性においては堕落の一途を辿った

差別戒名の多い事、天皇皇族の序列に買官行為で連なるその俗悪さ、それが観えるもんの嘲笑も無礙に大伽藍を整備し、己が貴賓皇族ようの専用火葬炉さえ持つに至った、京都火葬場

かように真宗一つとってもその「経歴」は天地の涯を彷徨する


煩悩詰まる生ゴミも捨てたもんではないが、ようは ”人間いかに生くべきか”における使いようである

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54949] ”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない生ゴミの煩悩散らす群れ鴉Re:[54947] 俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには、政治や生き方そのものおいても、おもねり、忖度、ごますり、すりより・・Re:[54946] 全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒Re:[54945] 眩暈、過呼吸、反吐・・ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/23(Fri) 22:05  

もたぬをてANNEX−Ω 訪問者数:12100378(今日:199/昨日:724)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/21(Wed) 07:58 先負(丁丑) 旧暦 8/26 月齢 24.8 持たぬを手

持たぬを手とならば・・

入れものが無い両手で受ける 放哉

鉄鉢の中へも霰 山頭火

とここまでで寝てしまった。脳みそ身体のニコチン抜きに二日間、今朝起きてやや軽くなった身体でそじ坊の不味いかつ丼と冷やし山菜とろろそばセット\1140円也のあと帰りしなのVie de Franceでいくつか見繕い、それこそ「入れものが無い両手で受ける」モチモチゴマアンドーナツ\140+プレミアムアンドーナツ\180+パン・オ・レザン\200を素手で受け、背面ポケットにつっこみ、てくてくと「どうしようもないわたしが歩いてゐる」山頭火の淫酒酒乱ならねど、またニコチンに侵された四肢をもっててくてく・・

悪舌を収めて入歯浮ける胡麻

秋天の地獄へ食はせ愚痴の数々

だうも、現俳協のデータベースを眺めておっても、作品も句評も、また、それらへの感想も愚痴ばかりで、まことに不味くかつ丼もドーナツも入れものが無い両手で受ける反吐になりそう



> えをりうしANNEX−Ω   訪問者数:12093349(今日:1276/昨日:1526)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/16(Fri) 09:27 仏滅(壬申) 旧暦 8/21 月齢 19.8

> Honesty / Billy Joel  Unplugged cover by Ai Ninomiya
> http://www.youtube.com/watch?v=Cq4hpkbkE84
>
> HonestyとPrettyFacesとPrettyLies
>
>
> > > ゆおくるおANNEX−Ω   訪問者数:12056990(今日:2069/昨日:450)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 13:42 仏滅(甲辰) 旧暦 7/22 月齢 21.4 下弦
> > >
> > Desperado / Eagles Unplugged cover by Ai Ninomiya
> > http://www.youtube.com/watch?v=Y2gIAfeFWUQ
> >
> > > 井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー
> > > http://www.youtube.com/watch?v=WCSeiSOaHxY
> > >
> > > 鳩一羽人間一人木下闇
> > >
> > > 産土の神社の泉も涸れて久しく涸溝が暗渠の彷徨者専用歩道ととなり延々と河岸段丘を幾つか越えて多摩川まで・・子供ころはザリガニを捕ったハケの湧き水に発する小川の暗渠の道蓋にはめったやたらと干乾びて転がる蚯蚓と
> >
> > 産土の暗渠の上を枯れ蚯蚓
> >
> > > 人家の裏から茫茫と暗渠道上へかかる木々花々
> > >
> > > 炎天下地名人名樹木名
> > >
> > > 名を知って、ああ、こんなところもあった、あんな人もいた、走馬灯のごとくゆっくり歩く眼前に展開する暗渠道、都営や公団の住宅の一郭の樹木にはよく名札がかかっていて、姿のよいやまももの一本を楽しみに同じコースを歩き歩き、最初は4000歩も歩けば股関節の違和感、切株めかしたコンクリ台座へ股を開いてよく伸ばし歩行再開、旅重ねれば、1万、2万、3万歩も
> > >
> > > ああ、逝った、行った、あの木は山法師
>
> 山法師といえば田川飛旅子を思い出す

山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子

道元の「経歴」、重畳たる山々を分け入って、永平寺に赴く道元、高野山へ分け入る空海、比叡山へ分け入る最澄、さらには千日回峰の阿闍梨ら、その祖の役小角らの趣味がややなくもない

分け入っても分け入っても青い山 山頭火

奥の院で入定した空海の髭も濃くなっているであらうか

身削がれし鰻の骨の泳ぐ板

生命力は強いね、でもこれでは救われない

いまNHKのおさかなくんの番組でやっていた

変な被り物をしてキーキー声で、あんなもんが享ける時代で、そっこらじゅうぬいぐるみのメルヘンだらけで、ゆえにメルヘン俳句か、レベルが落ちたもんだ

道元の「経歴」

[54851] 高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人。Re:[54846] いくら日常言語的な経歴があろうが経歴(きょうりゃく)の貧弱なもんは美味しくもないし栄養にもならぬ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/12(Sat) 21:41

井筒の「経歴」にして道元の「経歴」と「有時」

> 華厳的な一即多、多即一の一個の宝珠の「きょうりゃく」に映り込む過去現在東西南北自他万象が燦然と輝を放つ
>
> これは井筒の「コスモスとアンチコスモス」U創造不断の章、文庫本の200ページ目前後の記述に詳しい

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人。

山と山との間に時間的先後はない。

この山頂に辿りつくまでの日々、昨日はあの山を越えた、今日はこの山を越えている。

昨日の山は先、今日の山は後。

しかし、ひときわ高く聳え立つ山の頂から全景を鳥瞰するこの人にとっては、山々の日付けはなくなっている。

あともさきもない。

全ての山が彼から――彼の「我」から――等距離にある。

非時間的「同時開顕」の茫洋たる空間だ。

・・・・・

道元の説く「有時」にも、まさにこういう二面がある。

「飛去」的側面と不「飛去」的側面と。

互いに矛盾するこの二面を一に合わせたところに、「有時」の「経歴」を道元は見る。

根源的非時間的マンダラの、経験的存在次元における時間的展開としての、それが「有時」のあり方なのである。


根源的非時間マンダラが、そのすべてを挙げて、刻々に時間フィールドとして、現成していく。

根源的非時間マンダラの中心点は「空」だった。

これに対して

非時間マンダラの現象的展開形態としての時間フィールドの中心点は「我」。

これら二つの中心点相互のあいだには緊密な照応関係がある。

と言うより、

二つは、それぞれの機能次元を異にするだけで、本源的には一つのものである。

非時間マンダラの中心点が、そのまま時間的展開の次元において、「我」として働くのだ。


道元が、「わが有時」という表現を使っていることに、深い意味を読み取らなくてはならない。

「有時」「経歴」の中心に、「我」を置く。

ここに至って、道元の「創造不断」的時間論は、思想的独創性の深みを窮めるのである。


この「我」はどういうわれであるのか、については、古来、注釈者ののあいだに諸説がある。

大我、宇宙的われ、「本来の面目」のことだという人もあれば、経験的意識主体としての個我であると言う人もある。

だが、実は、それほど問題にする必要のないことなのではあるまいか、と私は思う。

もし「有時」が、上来説明してきたような内容をもつものであるならば、その「有時」を刻々に「経歴」せしめる中心軸としての「我」は、

生滅流転の世界に生きる経験的、現象的主体でなければならない

と同時に、また、

万象「同時炳現」の非時間的マンダラを、寂然不動の相において観察する形而上的主体でもなければならない。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

分け入っても分け入ってもゴミの山は飛ばして・・


> > 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘

> 蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘
>
> 蛸壺と原罪の配合、おもしろいですね、南天と農奴のように・・
>
> 此の原罪は農奴に通じる、狭い概念の「原罪」を破壊したしたところの苦である
>
> 蛸壺に蛸が入って凍てていても不思議はないが、それと人間の蛸壺
>
> むっかしの丸山真男の「日本の思想」、ササラ型とタコツボ型の思想のありかたすら思い出さしめられる

この丸山真男のササラ型の考え方のフレームもササラの根元がヘーゲルだとかキリスト教だとか、西欧文化を鵜呑み偏重の不徹底で大いに異議あり

ササラの根元、全ての大本は「聖」ではなく「生」であらうね。生老病死の生であってここからすべての、俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには政治や生き方そのものおいても、そのササラ化、分化がはじまる

タコツボ化についてはなぬも我が国「日本の思想」のみならず世の古今東西においてその傾向は顕著であり、とくにキリスト教国においては「原罪」にかこつけた搾取、ローマ教皇になした業はいまどきのキリスト教統一妖怪、ああ、教会家庭連合の比ではないあくどい搾取、十字軍、魔女狩り、異端審問、宗教戦争、などなど、まさに「神の原罪」だわの

[54920] 人間への強制的罪の押し付けは、創世記にはじまるが、その押し付けられた罪を嬉々として受容すべく人々を教育、躾をしつづけた救世主教の罪はまことに絶大だね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/21(Sat) 10:06

Chet Baker - Let’s Get Lost
http://www.youtube.com/watch?v=SKMKglJ8CZw

塩野七生「神々の代理人」中公文庫M5-2 昭和50年=1975年

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

善良な人々に、犯した罪の数々をあばきたて、彼らを地獄の恐怖につき落とすのは、キリスト教の最も得意とするやり方である。地獄への恐怖をかきたてながら、一方では天国へ行ける可能性をちらつかせるのも止めないのだから、ますます効果的というわけだ。

・・・・教会の戒律では、あらゆることが罪になったから、普通の人でも、その犯した罪を数えていくと三百年ぐらいの苦行を覚悟しなけらばならない。一生でも贖うことは不可能である。・・

教会は代償を認めた。苦行に相当する代償金を教会に収めれば、贖罪は認められるのである。これには、不動産による代償も可能であった。すなわち教会は信者の恐怖を利用して、その富と権力の不滅の源泉を確保したことになる。

・・・・

「自らの財布で支払えない者は、その肉体で支払うべきである」

・・・・

異教徒に対する聖戦に従軍した者には、贖罪が認められることになった。

・・・異教徒を殺せば、一切の罪は許されるのである。

金や土地で代償を果たすにはそれも十分は持たず、かといって自分の身体が笞で打たれるのも苦痛出汁というわけで、天国に行くことに絶望を感じていた善良な人々も、これには異存がなかった。まして、神がそれを望んでおられるのである。多くの人々は、その顔にことごとく罪を許された喜びに輝き、その心は異教徒と対決する勇気を感じていたのである。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

これは、十字軍の宗教的な熱狂を叙する序章であるが、その熱狂、狂信は後世まで連綿と無残な歴史につづく

この人間への強制的罪の押し付けは、創世記にはじまるが、その押し付けられた罪を嬉々として受容すべく人々を教育、躾をしつづけた救世主教の罪はまことに絶大だね


その延長線上に文鮮明のキリスト教統一教会などがあることは明白である


> そのタコツボから抜けられぬ人間の思想

人間の思想のみならず、そこから抜けられぬ人間そのもの

俳句も結社も協会も教会も政党も奸僚もみなタコツボ化しておる

> 聖書の妄想の「原罪」などというものを脱却した苦の大本にして仏教的生老病死への視野の拡大

生老病死はなぬも仏教に限らぬ、人間存在の大本


> しかし、実南天/農奴、蛸壺/原罪、狭溢なる概念を破壊して、してその先は?
>
> 苦の救いがあるか
>
> ありません。

> 狭い概念を脱却できたところまでは、それはそれなりに人間の幅も広がろうというものですが、だからといって苦からの脱却までにはいたりません
>
> なぜだらうか?
>
> 一句にとらえられた形式、景色、配合があまりに他化的、詠む姿勢が第三者的なのですね
>
> 一句に動きがない、動詞がない、粘りがない、意志がない、第三者の観察眼なのです

山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子

この「有時」「経歴」の中心に、「我」を置く「我」を軸とした詠みに比して、中村和弘氏によって往々引き合いに出される句

人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子

犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子

非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子

これらもみな第三者の観察眼なのですね

なにかこう生の大本へ食い込んでくるものがない

もっとも、眺める、見る、のは、この国のことばでいえば目合ひ(まぐわい)であるからして、一句の景と目合ひて交感しているのかもしれない

交感しても感動がない

先の丸山真男の言葉でいえば「である」ことと「する」こと

「である」ことに安住して「する」ことがなおざりではないだらうか

陸主宰のことば
「創刊より「俳句のなかに私という人間を生かす」ということが『陸』(りく)の理念である。この言葉は、もともとは人間探求派と呼称された加藤楸邨を源としているが、その底には”人間いかに生くべきか”という自問が込められている。
これは今日の世においては愚問かもしれぬ。佳い作品さえ作っていれば、という風潮がある。それゆえ逆に尊いのである。

との由であるが”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない

畢竟、俳句というものも、芭蕉より発したその元は・・

ふる池やかわず飛び込む水の音 芭蕉

佛頂和尚と方丈に対座しているときに芭蕉の口から飛び出した「かわず飛び込む水の音」

その頭に「ふる池や」とつけて一句になったともいわれるこの句にはやはり生の禅味がある

時々刻々刹那刹那に古池が「かわず飛び込む水の音」で新しく蘇る、そこの機微

> かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄
>
> http://miho.opera-noel.net/archives/480
>
> 『まぼろしの鱶』 解釈は次のようであろうか。 第一句集の最初に置かれた句である。「天金の書」とは、洋書の製本で、上方の小口だけに …
>
> とか、これも無知蒙昧な鑑賞があるが、この句の深読みは、やはり毒消しで、その毒消しは、効いている
>
> かもめは悪食の鳥であって、それを呼ぶ詠者のいう「天金の書」とは、その典型をいえば、聖書である
>
> 最近のTV映像では、統一教会文鮮明の聖書、聖言集
>
> まさに毒の最たるもんであって、その毒を、あたかも聖言として鵜呑みにする佞人ども
>
> その天金の書をひらくたびそこにある毒を悪食のかもめがきて食ってくれ
>
> 鵜呑みの佞人の意の理、祈りとはまた別の風景が現成しますね

生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘

生ゴミの煩悩散らす群れ鴉

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54948] PHILIPP PLEIN コピー 投稿者:HXQIU 投稿日:2022/09/17(Sat) 18:20  

前代未聞の超激辛なレビューに、ミラノメンズが大騒ぎした。http://www.hxqiu.com/?brand-119.html PHILIPP PLEIN コピー これは、「ヴォーグ ランウェイ」に寄稿するルーク・レイッチ(Luke Leitch)が、「フィリップ プレイン(PHILIPP PLEIN)」の悪趣味なコレクションと、予定時刻から大幅に遅れたショーに対して怒りをあらわにしたレビューだ。

 記事によると、ルークは会場に到着してからショーが終わるまで実に92分もかかり、うち30分は大混雑の外で延々と待たされたと告白。https://hxqiugarage.exblog.jp/ 以下、一部を抜粋すると、「やっぱり今回も30分以上会場の外で待たされ、https://www.hxqiu.com/ ブランド コピー 激安 ようやく中に入ることができると、そこには『×××(言ったり、書いたりすると一発アウトの、あの言葉)』を繰り返す男性。開演時間になってもショーは始まらず、代わりにスクリーンが降りてきて、https://www.ginzaweb.com 全く好きになれない音楽をひたすらリピート。予定外に出てきてしまった2人のモデル以外、会場に到着してから75分間は、ひたすら待ちぼうけだ。


[54947] 俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには、政治や生き方そのものおいても、おもねり、忖度、ごますり、すりより・・Re:[54946] 全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒Re:[54945] 眩暈、過呼吸、反吐・・ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/16(Fri) 11:38  

えをりうしANNEX−Ω   訪問者数:12093349(今日:1276/昨日:1526)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/16(Fri) 09:27 仏滅(壬申) 旧暦 8/21 月齢 19.8

Ai Ninomiya歌唱力が秀逸ですね

Honesty / Billy Joel  Unplugged cover by Ai Ninomiya
http://www.youtube.com/watch?v=Cq4hpkbkE84

さてHonestyとPrettyFacesとPrettyLies


> > ゆおくるおANNEX−Ω   訪問者数:12056990(今日:2069/昨日:450)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 13:42 仏滅(甲辰) 旧暦 7/22 月齢 21.4 下弦
> >
> Desperado / Eagles Unplugged cover by Ai Ninomiya
> http://www.youtube.com/watch?v=Y2gIAfeFWUQ
>
> > 井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー
> > http://www.youtube.com/watch?v=WCSeiSOaHxY
> >
> > 鳩一羽人間一人木下闇
> >
> > 産土の神社の泉も涸れて久しく涸溝が暗渠の彷徨者専用歩道ととなり延々と河岸段丘を幾つか越えて多摩川まで・・子供ころはザリガニを捕ったハケの湧き水に発する小川の暗渠の道蓋にはめったやたらと干乾びて転がる蚯蚓と
>
> 産土の暗渠の上を枯れ蚯蚓
>
> > 人家の裏から茫茫と暗渠道上へかかる木々花々
> >
> > 炎天下地名人名樹木名
> >
> > 名を知って、ああ、こんなところもあった、あんな人もいた、走馬灯のごとくゆっくり歩く眼前に展開する暗渠道、都営や公団の住宅の一郭の樹木にはよく名札がかかっていて、姿のよいやまももの一本を楽しみに同じコースを歩き歩き、最初は4000歩も歩けば股関節の違和感、切株めかしたコンクリ台座へ股を開いてよく伸ばし歩行再開、旅重ねれば、1万、2万、3万歩も
> >
> > ああ、逝った、行った、あの木は山法師

山法師といえば田川飛旅子を思い出す

外来種のハナミズキといえば、プラザ仙川の寿司屋の女将の歌唱力ハナミズキを思い出す

排気ガスに強い街路樹の花みずきの木々が眼下の歩道を並し、灼熱で葉が萎れても強い

> > 極楽鳥ような、タンポポすみれのやうな、大樹のような人間もおった
> >
> > いちいちの名で思い出しても、名なんぞなくて面影だけでも、近くも遠くもみんなそれぞれによく、ぽつんポツンと浮かんでは消える、足元には涸びた蚯蚓
> >
> > さて、眩暈、過呼吸、反吐・・

HonestyとならばPrettyFacesとPrettyLiesへ反吐を催す

反吐は吐いて他者批判をなせばそのブーメランが自分を傷つけDesperado

まことに歌というものもよくできている

> 天高し催す反吐を飲み込んで

しばらく老人性鬱様態がつづく、つくづく自分がいやになるときがある

無位にして無畏こそよけれ去年今年

という句を現俳協の忘年苦界に出して三橋ほか数人にはとられはしたものの、多分、いやさ自分でも、あまりに観念的な詠みだな、と・・

観念的よみであらうとも、現俳協もそうであるが、よのなべての傾向、無位ならざる有位こそはよけれという、さもしい娑婆の傾向、して戦々恐々と己が、あるいは他者あるいは師の地位に畏おののき、あるいはすりよりごますり、PrettyFacesとPrettyLies、さらにはSympathizeする

Sympathizeするには俳句でいえば一句の外のもろもろの個人情報が不可欠で、大方の世の句評や俳人列伝なども、一句の背景にある個人情報をもって一句を解している

罪を憎んで人を憎まず

病を憎んで人を憎まず

とはいえ、

罪を罰するに罪だけをとりだして罰することあたわずして罪人を罰する

病を罰するに病だけをとりだして罰することあたわずして病人を隔離排除する

同様に俳句の一句、あるいは、哲学の一個の観念、概念、あるいは、宗教の神聖にして神性、悪魔性にしても、さうなのであらうか

罰して、隔離排除する、その逆もまた真なりで、PrettyFacesとPrettyLiesでもってSympathizeする

> おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/745/

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

「ぶっきらぼう」で「野太い」ごもっともです

見ようによっては、云いようによっては、幼稚で作為にみちみちているという意見もあるでしょうが、作者は現俳協の会長センセイなれば・・


> まさに金子兜太らしい金子兜太だからできる俳句。

兜太センセイの人となりに即して、まことにごもっともです

見ようによっては、云いようによっては、これはなにも兜太センセイでなくても、誰に対しても、駄句であっても、「誰々らしい誰々だからできる俳句」といえるわけで、いわれた誰々さんは褒められたのか、貶されたのか、?、となるところですが、兜太センセイほどのうぬぼれなれば、まずは貶されたとはおもいませんね、まことにごもっともです

> おおかみという巨大な存在感。

この「おおかみ」の表現、「巨大な存在感」をごもっともです、とはいいたいのですが、いいにくい、ですね

なぜ、「おおかみ」なのか

なぜ、「巨大な存在感」なのか

嗚呼、兜太センセイの「巨大な存在感」とひっかけているのですね、ごもっともです

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

大石雄鬼君においてはPrettyFacesとPrettyLiesとはいえなくも、Sympathizeしているのは見え見えですね

反吐の所以


> 加えてこんなのも・・
>
> 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘 評者:堀之内長一
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

中村和弘句集『東海』(2012年)より。中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。
 唐突である。ぎくりとする。農民や百姓とは訳が違う。農奴なのである。農奴解放という言葉もある。日本に農奴制はなかった。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

>
> にたようなもんだね、この両評者ども
>
> これらは句評ではなく詠者へのすりよりごますり忖度崇拝だね

「中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。」一体全体句評なのであらうか?

バカバカしくて話にもならぬ

加えて

「唐突である。ぎくりとする。農民や百姓とは訳が違う。農奴なのである。農奴解放という言葉もある。日本に農奴制はなかった。」

とは無学文盲の言といいたいくらい、文妄なのである

これらのやからは一句における、あるいは生き方における、概念破壊というものにまるで思いを巡らしていない

而して、現代俳句協会という組織、その会長という権威への概念破壊も、夢の又夢、盲人ならぬ妄人の類、あるは佞人なのである。(ねいじん)とは。意味や解説、類語。口先巧みにへつらう、心のよこしまな人。佞者。

農奴をどう定義しようが、そんなことが問題なのではない

日本、我が国、いやさ、世界中のどのであってする農業より文明の興ったところには農奴はあった

狭い概念世界の佞者なれば、概念と常識の世界の桎梏から解放され得ずして一句の鑑賞すらできない

農奴と実南天の配合、「唐突」でもなければ「ぎくり」ともしない

一口にいえば毒と毒消し、毒をもって毒を制す

南天といえばよく便所の傍に植えたものだ、南天の実そのものが毒であると同時に便所のもろもろの毒の抑制、呪術かまじないかはたまた科学的か、某甲の昔の屋敷にも南天が便所、これも風水で位置が決まっていたようなものだが、亡母が便所には南天を植えるものだと子供の某甲に言い聞かせたもの

加えてそころにして汲み取りの農夫はもうこなくなったが、バキュームカーの糞便を溜池にためて肥料となす風、昭和の百姓、江戸以前の農奴的な百姓の生きざまをおもえば「唐突」でもなければ「ぎくり」ともしない

農奴、これは羽仁五郎「明治維新」岩波新書 昭和31年なぞを読むまでもなく、なべて文明国の社会に内在した毒であって、土地に、社会に拘束された人間の苦

この農奴詠者には「原罪」の句もある

蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘

蛸壺と原罪の配合、おもしろいですね、南天と農奴のように・・

此の原罪は農奴に通じる、狭い概念の「原罪」を破壊したしたところの苦である

蛸壺に蛸が入るって凍てていても不思議はないが、それと人間の蛸壺

むっかしの丸山真男の「日本の思想」、ササラ型とタコツボ型の思想のありかたすら思い出さしめられる

そのタコツボから抜けられぬ人間の思想

聖書の妄想の「原罪」などというものを脱却した苦の大本にして仏教的生老病死への視野の拡大

しかし、実南天/農奴、蛸壺/原罪、狭溢なる概念を破壊して、してその先は?

苦の救いがあるか

ありません。狭い概念を脱却できたところまでは、それはそれなりに人間の幅も広がろうというものですが、だからといって苦からの脱却なでにはいたりません

なぜだらうか?

一句にとらえられた形式、景色、配合があまりに他化的、詠む姿勢が第三者的なのですね

一句に動きがない、動詞がない、粘りがない、意志がない、第三者の観察眼なのです

かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄

http://miho.opera-noel.net/archives/480

『まぼろしの鱶』 解釈は次のようであろうか。 第一句集の最初に置かれた句である。「天金の書」とは、洋書の製本で、上方の小口だけに …

とか、これも無知蒙昧な鑑賞があるが、この句の深読みは、やはり毒消しで、その毒消しは、効いている

かもめは悪食の鳥であって、それを呼ぶ詠者のいう「天金の書」とは、その典型をいえば、聖書である

最近のTV映像では、統一教会文鮮明の聖書、聖言集

まさに毒の最たるもんであって、その毒を、あたかも聖言として鵜呑みにする佞人ども

その天金の書をひらくたびそこにある毒を悪食のかもめがきて食ってくれ

鵜呑みの佞人の意の理、祈りとはまた別の風景が現成しますね

佞人というものは、社会にも組織にも、その法においても、それを批判し墓石、破壊し無化しようという姿勢がない。


それは俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには政治や生き方そのものおいても、おもねり、忖度、ごますり、すりより・・

> んたく、反吐を催す、飲み込んで吞み込んでも・・
>
> 加えて魔境の預言者即若松英輔君曰く


この佞人の性は魔境の預言者即若松英輔君の性にもいえる

>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。
> 預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない。
> ・・・
> 預言者が切り開いた世界は、水平軸ではなくて、垂直軸です。預言者の言葉を、私たちは水平的ではなく垂直的に理解していかなくてはならない。人の利益のためではなく、キリスト教的にいえば「神の栄光」にその意味を読み解いていく必要がある。預言は神の言葉でなければならないのに、人の言葉に変わることがある。ここに大きな注意点が必要です。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 統一教会文鮮明崇拝と神一重
>
> 安倍晋三崇拝国葬と神一重
>
> この一突き半には反吐を催す幾多の膿が噴出
>
> 膿のもとをたどれば闇の悪魔もみえてこようというもんだ
>
> 反吐呑んで真夏の闇の悪魔見え
>
> 最近のマスコミ浅学識者の論調で、あれとこれは切り離し別々に考えるべきだとかほざく向きが多い
>
> 冗談ぢゃねえわの
>
> 全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒
>
> そこを解明せんばいけん
>
> 畢竟、安倍の外交も政策も統一教会と祖父岸におんぶにだっこで、「輝かしい業績」?
>
> 呵々大笑
>
> 岸ももとをたどれば木子、すなわち、李にして、ルーツの戸籍は田布施町とか
>
> 田布施システムほか有象無象の説がネットに隠れておる
>
> 統一教会の特別応援を安倍が差配して当選した元産経新聞の編集長北村経夫も田布施
>
> 検索:安倍晋三と統一教会
>
> 検索:安倍晋三と田布施
>
> 検索:田布施出身代議士
>
> いろいろみえてくる。在日朝鮮人差別のデマだとかいって、かういう情報を一蹴してしまうのも問題であって、そもそも我が国の大半は渡来人であるからして、半島人差別を云々するはうが、差別主義者であらうがね。まゆにつばすべきもんは唾して読めばよろしい。
>
> 司馬遼太郎の「歴史と視点〜私の雑記帳」新潮文庫昭和55年にも「長州人の山の神」という田布施のある山口県熊毛半島にからむもろもろの明治の傑物の話があって興味深い。加えて「権力の神聖装飾」「人間が神になる話」とか、笑わせながら深刻な問題提起がある。こういう風な眼力をそなえた文士は最近はいないのか、みな単眼にして短眼の有象無象のジャーナリストか
>
> ひるがえって薩長連合の小泉のルーツも鹿児島の田布施で、2,3代前は堂々たる半島人を名宣っておった
>
> その小泉が安倍を連れて北朝鮮の金正日と会い拉致被害者交渉をしたのも縁あってのことだう、橋渡しをしたのも統一教会なれば・・
>
> さらにいえば、拉致被害者の続出した地帯というのも、半島移民の濃い地帯であって、この問題の根はまことに不覚、深く、あれはあれ、これはこれ、というような分裂脳みそでは解明でけんでせうな
>
> さらにくわえて、最近はマスコミから鳴りをひそめた「綿九〜わたきゅう〜ワタキュー」問題、安倍→小泉→安倍と裏金利権が受け継がれ、厚生労働省の闇、病人老人を食物にしている、ここらへんもあらためて、マスコミは鳴りを潜めるんぢゃのうて、怒鳴りあげて報道せんば、闇の解明にいたらんでしょうね
>
>
>
>
>
>

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54946] 全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒Re:[54945] 眩暈、過呼吸、反吐・・ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 18:23  

> ゆおくるおANNEX−Ω   訪問者数:12056990(今日:2069/昨日:450)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 13:42 仏滅(甲辰) 旧暦 7/22 月齢 21.4 下弦
>
Desperado / Eagles Unplugged cover by Ai Ninomiya
http://www.youtube.com/watch?v=Y2gIAfeFWUQ

> 井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー
> http://www.youtube.com/watch?v=WCSeiSOaHxY
>
> 鳩一羽人間一人木下闇
>
> 産土の神社の泉も涸れて久しく涸溝が暗渠の彷徨者専用歩道ととなり延々と河岸段丘を幾つか越えて多摩川まで・・子供ころはザリガニを捕ったハケの湧き水に発する小川の暗渠の道蓋にはめったやたらと干乾びて転がる蚯蚓と

産土の暗渠の上を枯れ蚯蚓

> 人家の裏から茫茫と暗渠道上へかかる木々花々
>
> 炎天下地名人名樹木名
>
> 名を知って、ああ、こんなところもあった、あんな人もいた、走馬灯のごとくゆっくり歩く眼前に展開する暗渠道、都営や公団の住宅の一郭の樹木にはよく名札がかかっていて、姿のよいやまももの一本を楽しみに同じコースを歩き歩き、最初は4000歩も歩けば股関節の違和感、切株めかしたコンクリ台座へ股を開いてよく伸ばし歩行再開、旅重ねれば、1万、2万、3万歩も
>
> ああ、逝った、行った、あの木は山法師
>
> 極楽鳥ような、タンポポすみれのやうな、大樹のような人間もおった
>
> いちいちの名で思い出しても、名なんぞなくて面影だけでも、近くも遠くもみんなそれぞれによく、ぽつんポツンと浮かんでは消える、足元には涸びた蚯蚓
>
> さて、眩暈、過呼吸、反吐・・

天高し催す反吐を飲み込んで

おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
http://gendaihaiku.gr.jp/column/745/

加えてこんなのも・・

実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘 評者:堀之内長一
http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/

にたようなもんだね、この両評者ども

これらは句評ではなく詠者へのすりよりごますり忖度崇拝だね

んたく、反吐を催す、飲み込んで吞み込んでも・・

加えて魔境の預言者即若松英輔君曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。
預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない。
・・・
預言者が切り開いた世界は、水平軸ではなくて、垂直軸です。預言者の言葉を、私たちは水平的ではなく垂直的に理解していかなくてはならない。人の利益のためではなく、キリスト教的にいえば「神の栄光」にその意味を読み解いていく必要がある。預言は神の言葉でなければならないのに、人の言葉に変わることがある。ここに大きな注意点が必要です。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

統一教会文鮮明崇拝と神一重

安倍晋三崇拝国葬と神一重

この一突き半には反吐を催す幾多の膿が噴出

膿のもとをたどれば闇の悪魔もみえてこようというもんだ

反吐呑んで真夏の闇の悪魔見え

最近のマスコミ浅学識者の論調で、あれとこれは切り離し別々に考えるべきだとかほざく向きが多い

冗談ぢゃねえわの

全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒

そこを解明せんばいけん

畢竟、安倍の外交も政策も統一教会と祖父岸におんぶにだっこで、「輝かしい業績」?

呵々大笑

岸ももとをたどれば木子、すなわち、李にして、ルーツの戸籍は田布施町とか

田布施システムほか有象無象の説がネットに隠れておる

統一教会の特別応援を安倍が差配して当選した元産経新聞の編集長北村経夫も田布施

検索:安倍晋三と統一教会

検索:安倍晋三と田布施

検索:田布施出身代議士

いろいろみえてくる。在日朝鮮人差別のデマだとかいって、かういう情報を一蹴してしまうのも問題であって、そもそも我が国の大半は渡来人であるからして、半島人差別を云々するはうが、差別主義者であらうがね。まゆにつばすべきもんは唾して読めばよろしい。

司馬遼太郎の「歴史と視点〜私の雑記帳」新潮文庫昭和55年にも「長州人の山の神」という田布施のある山口県熊毛半島にからむもろもろの明治の傑物の話があって興味深い。加えて「権力の神聖装飾」「人間が神になる話」とか、笑わせながら深刻な問題提起がある。こういう風な眼力をそなえた文士は最近はいないのか、みな単眼にして短眼の有象無象のジャーナリストか

ひるがえって薩長連合の小泉のルーツも鹿児島の田布施で、2,3代前は堂々たる半島人を名宣っておった

その小泉が安倍を連れて北朝鮮の金正日と会い拉致被害者交渉をしたのも縁あってのことだう、橋渡しをしたのも統一教会なれば・・

さらにいえば、拉致被害者の続出した地帯というのも、半島移民の濃い地帯であって、この問題の根はまことに不覚、深く、あれはあれ、これはこれ、というような分裂脳みそでは解明でけんでせうな

さらにくわえて、最近はマスコミから鳴りをひそめた「綿九〜わたきゅう〜ワタキュー」問題、安倍→小泉→安倍と裏金利権が受け継がれ、厚生労働省の闇、病人老人を食物にしている、ここらへんもあらためて、マスコミは鳴りを潜めるんぢゃのうて、怒鳴りあげて報道せんば、闇の解明にいたらんでしょうね





やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54945] 眩暈、過呼吸、反吐・・ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 14:29  

ゆおくるおANNEX−Ω   訪問者数:12056990(今日:2069/昨日:450)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 13:42 仏滅(甲辰) 旧暦 7/22 月齢 21.4 下弦

井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー
http://www.youtube.com/watch?v=WCSeiSOaHxY

鳩一羽人間一人木下闇

産土の神社の泉も涸れて久しく涸溝が暗渠の彷徨者専用歩道ととなり延々と河岸段丘を幾つか越えて多摩川まで・・子供ころはザリガニを捕ったハケの湧き水に発する小川の暗渠の道蓋にはめったやたらと干乾びて転がる蚯蚓と人家の裏から茫茫と暗渠道上へかかる木々花々

炎天下地名人名樹木名

名を知って、ああ、こんなところもあった、あんな人もいた、走馬灯のごとくゆっくり歩く眼前に展開する暗渠道、都営や公団の住宅の一郭の樹木にはよく名札がかかっていて、姿のよいやまももの一本を楽しみに同じコースを歩き歩き、最初は4000歩も歩けば股関節の違和感、切株めかしたコンクリ台座へ股を開いてよく伸ばし歩行再開、旅重ねれば、1万、2万、3万歩も

ああ、逝った、行った、あの木は山法師

極楽鳥ような、タンポポすみれのやうな、大樹のような人間もおった

いちいちの名で思い出しても、名なんぞなくて面影だけでも、近くも遠くもみんなそれぞれによく、ぽつんポツンと浮かんでは消える、足元には涸びた蚯蚓

さて、眩暈、過呼吸、反吐・・



やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54944] 2/2Re:[54943] 1/2不覚は本覚への門にして本覚は不覚への門 無粋なる原景を、原景の面影を残しつつ、無粋ならざるもの、新人賞作家大石雄鬼君らにメルヘン的感動を与えるまでに仕上げた兜太センセイの腕前も大したものですねRe:[54942] 超越的な権力統治構造国家結社は、人間社会の最も醜悪さを露呈している すっかす、その醜悪でもそこに縋らざるを得ない、果ては醜悪さこそ生きる価値だとする、盲目の奴隷とソレを駆使して恥じぬ奸僚どもが、ま、過去も今次もそっこらじゅうで増殖し、イザコザ、紛争、戦争を起こしている践祚王 眼を開かなきゃね 不覚者の群Re:[54941] ブーバーの汝には父母未生以前の面目がある Re:[54940] 「超越」「栄光」だとか「神秘」だとかは、まことにそこに達したと思えば気分もよろしい、「恩寵」に与かり「選民」になった気分でね すっかす、それがそもそもの差別の根にして、権力の源であることを自覚すれば、そうそう悪酔いもできんもんぢゃろがのRe:[54939] 頭にゴミが溜まらなくてよいRe:[54938] 主客未分Re:[54937] 而して 天上天下唯彼独尊 とはいえまい 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/07/02(Sat) 15:42  

> おえておみANNEX−Ω   訪問者数:11904503(今日:312/昨日:3965)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/07/02(Sat) 10:55 先負(丙辰) 旧暦 6/4 半夏生 月齢 3.0

> いかな駄句、駄論であらうが、その詠者、論者の諸般の事情に鑑みれば、御尤も、なぬごともごもっとも、ですね
>
> > おなじことが、俳句の世界の、狭い俳壇、協会でも、教会も多々行われておって、ゆえに俳句二世、ああ、二世ね、他人におんぶでだっこの二世、似せ俳句、二世思想、ゆえに、詩を、思想を尊ぶのではなくして、二世の師を尊び、高下駄を履かせて、自分も高下駄のでっちあげ「栄光」「でっちあげ「恩寵」に与かるのね
>
> なぬごともごもっとも、ですね
>
> 人は誰でも、でっち上げでも、「栄光」「恩寵」、利をもたらすものならば似非で洗うが、利美善、世に蔓延る創価学会的な価値観により、高下駄であらうが、ナイキであらうが、自分を引き上げてくれるもの、神であれ人であれ、「先生」ともちあげ「師」としてもちあげて、ごまをすれば我が利になるもので、それが賢い人生の生き方なのですね、ごもっともです
>
> > > 南無南無

> > 鷹匠と鷹のまなこに中りけり
> >
> > > > > のしたくそANNEX−Ω   訪問者数:11891393(今日:140/昨日:874) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/24(Fri) 06:15 赤口(戊申) 旧暦 5/26 月齢 24.6 熨した糞
>
> > 一句を為す作者、一句を解す鑑賞者、そこに作者や鑑賞者の世界観が如実に現れる
> >
> > 作者の意図せぬ鑑賞にもなりえて、一句は新しい命のもとに生きる、あるいは死ぬこともある
>
> これは駄句にも駄句としての厳しい鑑賞をなさずして、すりよりおもねり駄句を秀句となして己が「恩寵」「栄光」を期するむきもあって、典型は・・

まことにごもっともです、まるく、まるく・・


> おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/745/
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
>  ぶっきらぼうで野太い俳句。

「ぶっきらぼう」で「野太い」ごもっともです

見ようによっては、云いようによっては、幼稚で作為にみちみちているという意見もあるでしょうが、作者は現俳協の会長センセイなれば・・


> まさに金子兜太らしい金子兜太だからできる俳句。

兜太センセイの人となりに即して、まことにごもっともです

見ようによっては、云いようによっては、これはなにも兜太センセイでなくても、誰に対しても、駄句であっても、「誰々らしい誰々だからできる俳句」といえるわけで、いわれた誰々さんは褒められたのか、貶されたのか、?、となるところですが、兜太センセイほどのうぬぼれなれば、まずは貶されたとはおもいませんね、まことにごもっともです

> おおかみという巨大な存在感。

この「おおかみ」の表現、「巨大な存在感」をごもっともです、とはいいたいのですが、いいにくい、ですね

なぜ、「おおかみ」なのか

なぜ、「巨大な存在感」なのか

嗚呼、兜太センセイの「巨大な存在感」とひっかけているのですね、ごもっともです

「おおかみ」は狼とも大神とも表記しないで「おおかみ」なのはなぜでしょうか?

> そこにぽつんと螢がくっついている。

それ以前に「螢が一つ付いていた」と・・

蛍は「一つ」というのですか?

一匹となぜいわないのでしょう?

> 「付いていた」という言い方から

生きている蛍なら一匹とまっていたというのが素直な表現ですが、なぜ「螢が一つ付いていた」なんでしょう?

まるく、まるく

かつて某甲は、この句の解釈として・・


引用+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

[54894] 狛犬は高麗犬で、もともと高句麗の犬、みんな狼 それがよ、今ぢゃ、みんな、あのおとなしい狛犬になりさがってみちゃあおれん そんでよ、あの兜太の狼は狼めいて、なんの肉も霊もあらへん、たんだの狼の剥製、毛皮 そこへ蛍一匹ついていたところで、話にもならんわね、秩父の人々は可哀そうだ そこえいくってえと、やっぱ、八王子の三橋の狼には霊がみちみちているね、 満ち満ちて道々蜘蛛を葬る 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/11(Mon) 12:58

そんでよ、多賀神社のあれ見た?

さうだったかね、気が付かなった、そんなもんがあったかね

それがよ、狛犬は高麗犬で、もともと高句麗の犬、みんな狼

それがよ、今ぢゃ、みんな、あのおとなしい狛犬になりさがってみちゃあおれん

そんでよ、あの兜太の狼は狼めいて、なんの肉も霊もあらへん、たんだの狼の剥製、毛皮

そこへ蛍一匹ついていたところで、話にもならんわね、秩父の人々は可哀そうだ

そこえいくってえと、やっぱ、八王子の三橋の狼には霊がみちみちているね、

満ち満ちて道々

と小一時間たっぷり演説をぶって

これ、もっていきなよ、狼がたっぷり

「続々山がたり」斐太猪之介 文芸春秋 昭和47年=1972年 を恵まれた

引用閉じる+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

「あの兜太の狼は狼めいて、なんの肉も霊もあらへん、たんだの狼の剥製、毛皮」

嗚呼、狼ではなく、おおかみ、だったのですね

だったら、なおさら、この狼なら「おおかみ」表記を考えれば、狼めかした「おおかみ」

季重なりを回避したかったのか

でもね、「おおかみ」となれば当然、狼を連想するし、場合によっては大神も連想しますね、大石雄鬼君のいう通りです

「そこへ蛍一匹ついていたところで、話にもならんわね」

その話にならんところが、話になる、のが新人賞大石雄鬼君の真骨頂ですね、ごもっともです

そこでです、ごもっともと認めたうえで、この「おおかみ」にも狼にも大神にもこだわるのです、神さまは紙さまでもありますれば大紙、兜太センセイの大風呂敷かもしれませんね

紙の張りぼて「おおかみ」か、剥製の「おおかみ」か、そのどちらかでしょうね

> 、誰かが語りかけている印象があるが、それは兜太自身の声ではない。むしろ、この句を読んだ瞬間、誰かの声が自分の声になっている。自分が呟いている。まるで、今、見てきたかのように。

この感覚は新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできる鑑賞ですね、まことにごもっともです

ですが、某甲には、この「誰かの声が自分の声になっている。自分が呟いている。まるで、今、見てきたかのように。」は、まるでわかりません、某甲のいたらぬところで・・

> おおかみは日本では古来から「大神」。そして絶滅していった。一方、螢火は「たましい」。

仰せのこと、ごもっともです

> 螢もいまにも絶滅しそうである。

さうでしょうか?と疑問もありますが、まあ、すくなくはなっていますね

それにしても、この「蛍」は「たましい」ではない蛍なのですね

> 螢が助けを求めるように絶滅したおおかみにくっついている。

ここ、ここ、まるくなって尖らぬやうに制御しても、わかりにくいのですね

ああ、さうですか、蛍も絶滅しそうであるから、絶滅して大神となってしまった狼に助けを求めているのですね

おおかみさま、ほたるのわたしを絶滅させないでください

> そしておおかみは大神となり、たましいである螢を日本の外へ連れ出す、その直前の一瞬。

これも、新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできる難しい鑑賞ですね、

なんで「日本の外へ連れ出す」のでしょうか?そして、なんで「その直前の一瞬なんでしょうか?

しばらく朝から考える人として考えていますが、いまだにわかりません

狼は日本では絶滅していて、海外では生存している、だから、狼難民として海外に避難して蛍も絶滅寸前に狼の大神に海外へ難民として連れて行ってくれ・・とでもいうのでしょうか?

>  この現実から切り離されたような一コマは、絵本の一ページのようでもある。

これも新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできるメルヘン鑑賞ですね、まことにごもっともです


> この不思議な感覚は、螢が夏の季語、狼が冬の季語、という俳句の決まりごとが影響しているかもしれない。もちろん絶滅したニホンオオカミと現存する螢との組み合わせが不思議さを醸しだしているが、俳句をつくる者に刷り込まれてしまった狼は冬のものという決まりごとと、夏の象徴である螢との同時の存在がこの俳句に不思議な印象を与えている。それは、宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」の四季の花が同時に咲いているシーンの異様さに似ている。(ちなみにこの映画では、一つ一つの花の名がわかるように描かれており、その結果各季節の花が同時に咲く不自然さからそこが異界であることがわかる演出になっている。)

これも新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできるメルヘンの深みに達した鑑賞ですね、まことにごもっともです

>  金子兜太は多くの狼の句を作っているが、これほどストレートで、これほど難解で、これほど心に残ってしまうものは、この句を置いてないであろう。この句の裏にある憂いている兜太の根幹の部分を感じたい一句である。

「この句の裏にある憂いている兜太の根幹の部分」とは、なんなんでしょう?


狼が絶滅してしまった

蛍も接滅しそうである

深読みすれば、兜太センセイが征っていた日本軍が殲滅された南太平洋

そこへおおかみもほたるも逃げていく憂い?

まあ、「憂い」というものを出せというなら、某甲のこの句の憂いは・・


この蛍は「たましい」として、もとはこの「おおかみ」狼の剥製、絶滅した狼の大紙の張りぼて、そこへ、この蛍は「たましい」として入ろうとして、「付いていた」んではないでしょうか

でも、かなしいかな、いのちのなくなった「おおかみ」の剥製、張りぼてでは、蛍たる「たましい」は「おおかみ」の中には入れない

しかたなく「付いていた」憂い、「付」かれていた「おおかみ」の憂いであり、「付いていた」「蛍」の憂い

> ※金子兜太先生を偲び、2013年12月24日現代俳句データベースコラムから再掲載いたしました。
>
> 評者: 大石雄鬼
> 平成30年4月18日
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 中村和弘さんに尻尾のようにくっついている大石雄鬼君ならではの、浅学にしてごますりの「新人賞」なのかもしれぬ

浅学なりにメルヘンへの深い理解のある新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできる鑑賞ですね、まことにごもっともですは

もっとも、某甲の解するこの句の原景は・・

狼の剥製あるいは張りぼてにLEDランプが「一つ」「付いていた」

さういう無粋な原景を、原景の面影を残しつつ、無粋ならざるもの、新人賞作家大石雄鬼君らにメルヘン的感動を与えるまでに仕上げた兜太センセイの腕前も大したものですね


> こういう風景が句界の苦界には十万して充満している
>
> わが師を和菓子のように、追悼泣き女のごとく甘言を繰り返すもの、まったく反吐を催す
>
> だいたいが、あの結社というやりかた、それこそうむを言わさず位階をもうける一神教の構図すのまんまで、主宰がトップで、同人、会員と、以下序列、それに加えて賞、賞、賞、少々頭がおかしいのではないか?
>
> 仏法僧を敬う聖徳太子か、所得大使か?小使いだね
>
> それにしても、聖徳太子の仏法僧を敬へ、には一神教的垂直権力構造が感じられてならない
>
> もっかのキリスト教の神教会牧師神父、神は絶対であって、その神の掟を解釈するのは神父牧師の特権事項
>
> まさに現今の国家の構造そのものだね、立法、行政、司法、法に依って一体なにが守られるのか?
>
> 法を立てる立法府もその草案は行政官僚からくる
>
> その法の適用解釈も行政司法奸僚の思うがまんま
>
> これら奸僚どもが己が利権を肥やそうとして超法規的なことをやっても、その違法性は問われない
>
> ようは権力統治構造の禍
>
> 人間的にもっとも忌むべき恥ずべきことがらも、権力統治構造国家結社においては堂々とおこなわれ、この超越的な権力統治構造国家結社は、人間社会の最も醜悪さを露呈している
>
> すっかす、その醜悪でもそこに縋らざるを得ない、果ては醜悪さこそ生きる価値だとする、盲目の奴隷とソレを駆使して恥じぬ奸僚どもが、ま、過去も今次もそっこらじゅうで増殖し、イザコザ、紛争、戦争を起こしている践祚王
>
> 眼を開かなきゃね 不覚者の群

不覚は本覚への門にして本覚は不覚への門

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54943] 1/2不覚は本覚への門にして本覚は不覚への門 無粋なる原景を、原景の面影を残しつつ、無粋ならざるもの、新人賞作家大石雄鬼君らにメルヘン的感動を与えるまでに仕上げた兜太センセイの腕前も大したものですねRe:[54942] 超越的な権力統治構造国家結社は、人間社会の最も醜悪さを露呈している すっかす、その醜悪でもそこに縋らざるを得ない、果ては醜悪さこそ生きる価値だとする、盲目の奴隷とソレを駆使して恥じぬ奸僚どもが、ま、過去も今次もそっこらじゅうで増殖し、イザコザ、紛争、戦争を起こしている践祚王 眼を開かなきゃね 不覚者の群Re:[54941] ブーバーの汝には父母未生以前の面目がある Re:[54940] 「超越」「栄光」だとか「神秘」だとかは、まことにそこに達したと思えば気分もよろしい、「恩寵」に与かり「選民」になった気分でね すっかす、それがそもそもの差別の根にして、権力の源であることを自覚すれば、そうそう悪酔いもできんもんぢゃろがのRe:[54939] 頭にゴミが溜まらなくてよいRe:[54938] 主客未分Re:[54937] 而して 天上天下唯彼独尊 とはいえまい 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/07/02(Sat) 15:41  

おえておみANNEX−Ω   訪問者数:11904503(今日:312/昨日:3965)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/07/02(Sat) 10:55 先負(丙辰) 旧暦 6/4 半夏生 月齢 3.0

覚めてなほ夢うつつなり半夏生

最近は可も無し不可も無しの夢でうつつとの境界があいまいで・・

5時に目覚めてベランダで一服3本

百千鳥は遠く、梅雨入りに来た燕もどこかに姿を晦ましてしまった

眼下に婆さんがゆらゆらとこちら側の歩道を散歩、向こう側の歩道には真っ黒中年マラソン人

関東内陸40℃の猛暑連続なれば引きこもりで78kgを超えた体重の養生に1週間ぶりで走ってみようか、ダイキン情報で外気温29℃

もちものロードバイクのうちでは性能トップクラスのデローザネオプリレコード9sで乗り出し、まあまあ快調30km/h前後で抜かれることもなく、いつもの白衣観音6時半、混んでいるね、たばこの煙が濛々でトイレクリーニング婆さんを囲んで6,7人の6^70代の老人の群れのうち3^4人がたばこ

某甲それがしは某と書いてきたが、某甲と古禅語にあって、たしかに甲はかしなればこれが本当なのかもしれない

某甲はせめて運動中はたばこを控えようとおいてきたので、濛々の煙からやや離れてくつろぎ、帰路やや向かい風、さしたるもんでもない初心者乗りのお兄ちゃんに抜かされ、抜かされ、昔なら、やや踏み込めばググンと加速してなんちゅうこともなけれど、だうも昔の1/10ほどに距離数も落ちれば、加速もなく、まあ、老化の肉体、筋肉の劣化もおもえど、半年以上も手入れをしていない、自転車の数々、ギヤもチェーンも垢だらけが原因だらうと、劣化の原因を外だし、これは、なべて唯我独尊的な自己正当化で、都合の悪いことの原因は外だしにする、本当は自己劣化だという意識はあっても、認めたくない

帰宅して玄関前でミルクを飲んで3服し、TVをBS7でつけると一柳が学研の社長と対談で、昔の我々の世代は尖がっていたが、今はみんなまるくなってしまった、尖がるような社員教育が必要云々

さてさて、たしかに尖がってそっこら中でぶつかり騒動の連続で、嫌気がさして僧堂に出籠るか、とおもえど、そうもいかず、芭蕉ではないが・・・・

「百骸九竅の中に物有、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。 終に生涯のはかりごとゝなす。
ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中に  たゝかふて、是が為に身安からず。 しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋  に繋がる。
西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫 道する物は一なり。」

若いころは尖っておったが、いまはややまるくなって、風羅坊よろしくふらふらと抜かれるにまかせて、ぷかぷか

そうそうここのAnnexでも尖ってばっかおってはいかんで、すこすは円くなろうか、と・・幻獣餡、う〜む、幻住庵

炎天下わが家そのまま幻住庵

なぬも、まず頼む椎の木もなく、巷に救急車パトカーの騒音が溢れ

掻き廻す溽暑の朝や救急車

ちう棲処で隠棲、無為、ぐ〜たら、徒食の日々

隠遁して山中に住むのが幻住ではのうて、巷そのまま幻住庵なのね、娑婆幻の如し

おはようございますといえば、おはようございますとこたえる

東司へいったら、なんか風格のある坊さんがおって・・

そりゃ、老師やがな、ご案内しんぜよう

その案内された老師の方丈はなんという違いか、うちの幻住庵と

ゆめ幻のごとく自転車が連なり部品やジャージパンツが山となり、必須断捨離のものものにかこまれ、ゴミの一つとしての我のあり

断捨離前に断舎利になるのが落ちでせうね

それにしたって、数々ある自転車を眺めておれば、これも貪瞋痴の貪で滅多矢鱈と増殖し、瞋で尖がり競争狂騒、痴で己を棚に上げて劣化を自転車のソレらのせいにする

かつて快哉快哉とすっとばし、筋肉骨格靭帯も健調なれば、人馬一如、人車一如、我汝一如であったが、貪瞋痴も極まればすべてがソレに頽落してしまう悲しさ

せめては三角の眼を丸くして、尖ったこころも丸くして・・

> さかをよまANNEX−Ω   訪問者数:11899017(今日:237/昨日:2511)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/29(Wed) 09:17 赤口(癸丑) 旧暦 6/1 月齢 0. 新月 朔
> >
> > 朔月いいね
> >
> > 名月転倒して飴色の肌を舐む 10/06

これは某甲の句

> 何年が不明 上田都史著「近代俳人列伝」第2巻 永田書房 昭和62年=1987年 著者は八王子高尾在住で多分まつおかあたりのゾッキ本で入手したものであらう

この虚子の項の冒頭に某甲の筆跡ののたくった落書きがある

須らく、落書きは年月日を記入しておかんば、いけんわの

いつの時点の境位か


> 列伝とあるからやむをえぬが、一句の鑑賞ではなく、俳人の履歴なんぞの説明に終始しているが、なべて、俳人詩人のこの手の本は、作者の背景、履歴なんぞというさして一句の境涯を境位として鑑賞せずして、作者に関する事柄の説明に堕するもんが多い
>
> この傾向はかの超越救世主教布教宣教をこととする若松君の井筒読みなどにも共通するものであって、書かれている詠まれているそのものではなく、その作者の履歴や境涯をもって、なぬかね、「よりそう」?やなことばだね、一句の本質がかすんでしまう

若松君の世代もまるく、いわば八方美人

そういう世代はよく「よりそう」をつかうが、人間がまるくなったばかりでのうて、救世主教の教義、供犠でも、「よりそう」のね

君子豹変す

創造主の被造物として謙虚にうむを言わずに天主さまに跪け、価値なきものよ、と聖書教義供犠にいわれちょる人、その人がかくいいつのる

若松ばりの天主教者の、天主の権威を笠に着ていかに傲慢なことか!

引用++++++++++++++++++++++++++++++++++

[54904] 魔境の預言者即若松英輔君曰く、『預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。 預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない。 ・・・ 預言者が切り開いた世界は、水平軸ではなくて、垂直軸です。預言者の言葉を、私たちは水平的ではなく垂直的に理解していかなくてはならない。人の利益のためではなく、キリスト教的にいえば「神の栄光」にその意味を読み解いていく必要がある。』Re:[54903] 魔境に入って魔境ともおもわんば、悪魔に変身する Re:[54902] 雲消霧散するまえに、とりあえず、アップRe:[54901] 有難い、零 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/21(Thu) 11:18

やはり危険なのは若松発言、曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。
預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない。
・・・
預言者が切り開いた世界は、水平軸ではなくて、垂直軸です。預言者の言葉を、私たちは水平的ではなく垂直的に理解していかなくてはならない。人の利益のためではなく、キリスト教的にいえば「神の栄光」にその意味を読み解いていく必要がある。預言は神の言葉でなければならないのに、人の言葉に変わることがある。ここに大きな注意点が必要です。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

もう、完全にオットー的なもんに洗脳されきっている。

神はもともと人間がつくったものだ、というあたりまえの常識をどうしても靴替えして、若松君は神の靴で人間を蹴っ飛ばしたい風情だね

神は人間の妄想によってつくられたんだから、そこの神の言葉を人間が人間の世界、人間のロゴスで読み解くんのはあたりまえである

「預言は神の言葉でなければならない」と、「なければならない」と、また若松君が神の定言命令を発する

だのに、

「人の言葉に変わることがある。」ぢゃなくて、実相はいつも「人の
言葉」である。

引用閉じる+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ふんまに天主教狂信者、狂神学者、狂神父は傲慢だね、歴史的にも自分と意見を異にする無辜の民をも異端者として火炙り刑に処し、あるいは十字軍を組織して他国、他文化への侵略を繰り返し、宗教戦争で民の命を生活を破壊し、それでも「よりそう」と詭弁を弄する

嗚呼、尖ってしまった

丸く、マルク

まったくヤな言葉だが、よりそってみやう、まるくなって

> 若松が西田を論じるところでも、西田の家族的悲劇云々、そんなもんで思想の本質を誤魔化してはいけない


いかな駄句、駄論であらうが、その詠者、論者の諸般の事情に鑑みれば、御尤も、なぬごともごもっとも、ですね

> おなじことが、俳句の世界の、狭い俳壇、協会でも、教会も多々行われておって、ゆえに俳句二世、ああ、二世ね、他人におんぶでだっこの二世、似せ俳句、二世思想、ゆえに、詩を、思想を尊ぶのではなくして、二世の師を尊び、高下駄を履かせて、自分も高下駄のでっちあげ「栄光」「でっちあげ「恩寵」に与かるのね

なぬごともごもっとも、ですね

人は誰でも、でっち上げでも、「栄光」「恩寵」、利をもたらすものならば似非で洗うが、利美善、世に蔓延る創価学会的な価値観により、高下駄であらうが、ナイキであらうが、自分を引き上げてくれるもの、神であれ人であれ、「先生」ともちあげ「師」としてもちあげて、ごまをすれば我が利になるもので、それが賢い人生の生き方なのですね、ごもっともです

> > 南無南無

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54942] 超越的な権力統治構造国家結社は、人間社会の最も醜悪さを露呈している すっかす、その醜悪でもそこに縋らざるを得ない、果ては醜悪さこそ生きる価値だとする、盲目の奴隷とソレを駆使して恥じぬ奸僚どもが、ま、過去も今次もそっこらじゅうで増殖し、イザコザ、紛争、戦争を起こしている践祚王 眼を開かなきゃね 不覚者の群Re:[54941] ブーバーの汝には父母未生以前の面目がある Re:[54940] 「超越」「栄光」だとか「神秘」だとかは、まことにそこに達したと思えば気分もよろしい、「恩寵」に与かり「選民」になった気分でね すっかす、それがそもそもの差別の根にして、権力の源であることを自覚すれば、そうそう悪酔いもできんもんぢゃろがのRe:[54939] 頭にゴミが溜まらなくてよいRe:[54938] 主客未分Re:[54937] 而して 天上天下唯彼独尊 とはいえまい 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/29(Wed) 10:25  

さかをよまANNEX−Ω   訪問者数:11899017(今日:237/昨日:2511)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/29(Wed) 09:17 赤口(癸丑) 旧暦 6/1 月齢 0. 新月 朔
>
> 朔月いいね
>
> 名月転倒して飴色の肌を舐む 10/06

何年が不明 上田都史著「券代俳人列伝」第2巻 永田書房 昭和62年=1987年 著者は八王子高尾在住で多分まつおかあたりのゾッキ本で入手したものであらう

列伝とあるからやむをえぬが、一句の鑑賞ではなく、俳人の履歴なんぞの説明に終始しているが、なべて、俳人詩人のこの手の本は、作者の背景、履歴なんぞというさして一句の境涯を境位として鑑賞せずして、作者に関する事柄の説明に堕するもんが多い

この傾向はかの超越救世主教布教宣教をこととする若松君の井筒読みなどにも共通するものであって、書かれている詠まれているそのものではなく、その作者の履歴や境涯をもって、なぬかね、「よりそう}?やなことばだね、一句の本質がかすんでしまう

若松が西田を論じるところでも、西田の家族的悲劇云々、そんなもんで思想の本質を誤魔化してはいけない

おなじことが、俳句の世界の、狭い俳壇、協会でも、教会も多々行われておって、ゆえに俳句二世、ああ、二世ね、他人におんぶでだっこの二世、似せ俳句、二世思想、ゆえに、詩を、思想を尊ぶのではなくして、二世の師を尊び、高下駄を履かせて、自分も高下駄のでっちあげ「栄光」「でっちあげ「恩寵」に与かるのね

> 南無南無
>
> 鷹匠と鷹のまなこに中りけり
>
> > > > のしたくそANNEX−Ω   訪問者数:11891393(今日:140/昨日:874) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/24(Fri) 06:15 赤口(戊申) 旧暦 5/26 月齢 24.6 熨した糞
> >
> > 大鷲の爪あげて貌かきむしる (加藤楸邨)
> >
> > 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ (加藤楸邨)
> >
> > これも大鷲と楸邨の汝我一如
> >
> > 大鷲が貌を搔き毟るわけもなく、かきむしったのは学問のさびしさに堪へ炭をつぐ楸邨自身であらうがね
> >
> > 覚悟の一句
>
> この「学問」、どんな学問だかわからんが、やや学問臭く、学問と無縁の向きには共感せぬかもしらぬ
>
> これは、なぬも「学問」に限ったことではなく、人として全存在として解してもよからう
>
> 全存在というとまたかの超越思想の存在論に頽落してしまう嫌いもあるが、存在不安、ニヒリズム、学問にせい、ビジネスにせい、宗教にせい、俳句にせい、人間関係、共同体、組織にせい、そうもんにおける人の命のありやう、人生、まるごと全人的なありようと解せる
>
> 学問がもし真理を極める人事とすれば、真理のありよう、学問のあるようの疑義、以下同様にビジネス、宗教、俳句、人間関係、共同体、組織、はては国から国際関係のありようまでにおける命の不安、厳しさ
>
> 炭はつげば熾り、しばらくは暖かいが、ほどなく熾った炭も灰に化す、これはあらゆる人事や人事をとりまくことがらについていえる
>
> さういう不安や厳しさに堪えて炭をつげるうちはいい、場合によっては堪え得ぬ、継げぬこともありうる、そこのギリギリのところを堪える、そこを肩に力をいれずして静謐に炭をつぐ、人生万感に通じる
>
> > 長大な書を何度も読むのは疲れるが、句なら何度でも疲れぬ
>
> 長大な書とはいえ、その核はある、核以外はゴミとはいわんも、大方においてゴミも多々ある
>
> 一句を為す作者、一句を解す鑑賞者、そこに作者や鑑賞者の世界観が如実に現れる
>
> 作者の意図せぬ鑑賞にもなりえて、一句は新しい命のもとに生きる、あるいは死ぬこともある

これは駄句にも駄句としての厳しい鑑賞をなさずして、すりよりおもねり駄句を秀句となして己が「恩寵」「栄光」を期するむきもあって、典型は・・

おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
http://gendaihaiku.gr.jp/column/745/

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おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
 ぶっきらぼうで野太い俳句。まさに金子兜太らしい金子兜太だからできる俳句。おおかみという巨大な存在感。そこにぽつんと螢がくっついている。「付いていた」という言い方から、誰かが語りかけている印象があるが、それは兜太自身の声ではない。むしろ、この句を読んだ瞬間、誰かの声が自分の声になっている。自分が呟いている。まるで、今、見てきたかのように。
おおかみは日本では古来から「大神」。そして絶滅していった。一方、螢火は「たましい」。螢もいまにも絶滅しそうである。螢が助けを求めるように絶滅したおおかみにくっついている。そしておおかみは大神となり、たましいである螢を日本の外へ連れ出す、その直前の一瞬。
 この現実から切り離されたような一コマは、絵本の一ページのようでもある。この不思議な感覚は、螢が夏の季語、狼が冬の季語、という俳句の決まりごとが影響しているかもしれない。もちろん絶滅したニホンオオカミと現存する螢との組み合わせが不思議さを醸しだしているが、俳句をつくる者に刷り込まれてしまった狼は冬のものという決まりごとと、夏の象徴である螢との同時の存在がこの俳句に不思議な印象を与えている。それは、宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」の四季の花が同時に咲いているシーンの異様さに似ている。(ちなみにこの映画では、一つ一つの花の名がわかるように描かれており、その結果各季節の花が同時に咲く不自然さからそこが異界であることがわかる演出になっている。)
 金子兜太は多くの狼の句を作っているが、これほどストレートで、これほど難解で、これほど心に残ってしまうものは、この句を置いてないであろう。この句の裏にある憂いている兜太の根幹の部分を感じたい一句である。

※金子兜太先生を偲び、2013年12月24日現代俳句データベースコラムから再掲載いたしました。

評者: 大石雄鬼
平成30年4月18日

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中村和弘さんに尻尾のようにくっついている大石雄鬼君ならではの、浅学してごますりの「新人賞」なのかもしれぬ

こういう風景が句界の苦界には十万して充満している

わが師を和菓子のように、追悼泣き女のごとく甘言を繰り返すもの、まったく反吐を催す

だいたいが、あの結社というやりかた、それこそうむを言わさず位階をもうける一神教の構図すのまんまで、主宰がトップで、同人、会員と、以下序列、それに加えて賞、賞、賞、少々頭がおかしいのではないか?

仏法僧を敬う聖徳太子か、所得大使か?小使いだね

それにしても、聖徳太子の仏法僧を敬へ、には一神教的垂直権力構造が感じられてならない

もっかのキリスト教の神教会牧師神父、神は絶対であって、その神の掟を解釈するのは神父牧師の特権事項

まさに現今の国家の構造そのものだね、立法、行政、司法、法に依って一体なにが守られるのか?

法を立てる立法府もその草案は行政官僚からくる

その法の適用解釈も行政司法奸僚の思うがまんま

これら奸僚どもが己が利権を肥やそうとして超法規的なことをやっても、その違法性は問われない

ようは権力統治構造の禍

人間的にもっとも忌むべき恥ずべきことがらも、権力統治構造国家結社においては堂々とおこなわれ、この超越的な権力統治構造国家結社は、人間社会の最も醜悪さを露呈している

すっかす、その醜悪でもそこに縋らざるを得ない、果ては醜悪さこそ生きる価値だとする、盲目の奴隷とソレを駆使して恥じぬ奸僚どもが、ま、過去も今次もそっこらじゅうで増殖し、イザコザ、紛争、戦争を起こしている践祚王

眼を開かなきゃね 不覚者の群

> > 井筒もかの東洋哲学の共時的構造化の難題にむけて貌を搔き毟ったのかもしれぬ
>
> 難題、ヘブライ、ヘレニズム、古代ギリシャ、古代インド、中国、日本、などなどを原語で解する井筒なればこそ挑める難題であらうが、原語を解すれば解するほど、母語に培われた文化基盤と非母語の文化基盤の齟齬、その齟齬を言語表現としてどう克服するか
>
> はたまた、構造化という構造のありよう、よのなべての科学、思想、宗教にある幻想、妄想、仮説、実用
>
> 畢竟、試みるよりほかはない、決断において已むに已まれず突っ走る、突っ走り自己確認をする
>
> いくら体験や覚醒に裏打ちされているとはいえ、体験も覚醒もないもん、文化基盤が違えば言語以前の体験基盤も覚醒基盤も違う、そこをどう宣り超えるか、これは並大抵の苦労ではない
>
> 某も幾許かの海外体験からして、基盤の違いに大いに呻吟した難題
>
> >
> > 「意識と本質」を読み返すたびに、みえてくるのは論者井筒の苦悩
> >
> > 苦悩しながら、それがまた愉悦でもあり、あの詩的な思想表現の味わいが醸しだされている
>
>
> 苦悩即愉楽、古今東西の宗教的思想的詩的巨匠を自在に呼び出す交響詩
>
> むっかし、松永さんという豪傑の上司がおって、独りで会社を背負っているような気概の持ち主で、朝、出勤してくれば、女子社員のお尻を撫でて「おはよう」、ステーキが大好きで、若い部下にも食え、喰えと、300g400gのステーキをおごってくれて、気を込めて深夜の残業になればホテルオークラに泊まり、徹夜で部下にやらせたプロポーザルを翌朝でてきて目を通して
>
> おめえ、詩を書いていんぢゃねえぞお、ヤリナオシ!
>
> ま、この風は、なぬもビジネスプロポーザルばかりではなく、神学プロポーザル、哲学思想プロポーザルでもおなじことで、詩人の書いた思想や哲学、神学は、プロパーな思想家、哲学者、神学者からみれば、詩的幻想と片付けられることも、まま、あるなか、井筒においては、その東洋思想、東洋哲学の中に頻繁に詩があらわれる柔軟さ、これも魅力の一つであらう
>
> そういう詩の一つして、禅語や俳句が、ギリシャ、近代西欧の詩人論とともにとりあげられる
>
> 芭蕉の俳句にはかなりの思想的重量をさいて、不易マフィーヤと流行フウィーヤを表裏一体になった本情の光見えたるうちに言い留むべしという井筒芭蕉俳論
>
> 光は見えたるうちにうて、ということは、ひかりは永遠の「栄光」のようなものではなく、いわば普遍本質不易マフィーヤと個別本質流行フウィーヤの綾なすゆらぎ交差のなかでみえるとき、みえる人にみえるもの
>
> この普遍本質不易マフィーヤと個別本質流行フウィーヤ、その各々のありよう、ゆらぎ交差も、文化基盤の差異、個人の差異によってはその重心は大いに異なる
>
> 普遍本質不易マフィーヤを追求するマラルメの狂気
>
> 個別本質流行フウィーヤを追求するリルケの狂気
>
> 普遍本質不易マフィーヤと個別本質流行フウィーヤの綾なすゆらぎ交差の光を追求する芭蕉の風狂
>
> ペルシャイラン的思想基盤で、その西側、東側の詩人を論じる詩論、試論、実験
>
> 白眉はあのあの短文、クローデル、いまは返本して手元にない
>
> それにして、一期一会も詩になるが、この一期一会は、こういう思想構造的コンテクストではどこに位置するのであらうか
>
> 無常、侘び寂、本邦の従来の伝統型の型は、こういう思想構造的コンテクストではどこに位置するのであらうか
>
> ブーバーの我と汝の根源語で、幾許かの句の解釈を施したが、我と汝の根源語はこういう思想構造的コンテクストではどこに位置するのであらうか
>
> とか、いろいろに思いやれば興味はつきない
>
> ブーバーの我と汝の根源語の思想、これも思想とはいえ、詩的思想であって、むかしから大いに食える、食って食って、命の糧になっているが、一見、我と汝の分裂、二元的、あるはソレをいれて三元的なる印象もあるが、それがあっても、巷の凡俗なる二元論よりはよほど一元的であって、ブーバーの汝には父母未生以前の面目がある
>
> ブーバー自身もこういっている
>
> ブーバー著 野口啓祐訳「孤独と愛―我と汝の問題」創文社 1958年1967年17刷280円 良い本ですね
>
> これは梅田の旭屋で前所有者福西氏が昭和42年7月七夕の夜に、つまり1967年4月17刷の出版直後に購入し、後ろの扉にこういう歌が万年筆で記されている
>
> 夢ふけて笹が枝に結びし七夕の想いは今は涙にくゆりぬ 7月7日
>
> さてブーバー曰く
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> P33
> 第一の根源語<われーなんじ>も、<われ>と<なん事>の二要素に分解できるかもしれない。しかしこの根源語は、<われ>と<汝>という二要素が一つになって生じたものではない。それは本質的にいって、<われ>の生まれる以前から存在していたのである
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 我汝の汝は汝にとどまり得ずして、ソレに頽落してしまう
>
> ソレに頽落した汝を汝として取り戻そうとする、それこそ芭蕉の光みえたるうちに・・だね
>
> 一方で、そういう頽落する運命にある無常の汝に対して、永遠の汝をブーバーは立てる、そこがユダヤ教、一神教的思想、詩想基盤なのね
>
> さて、井筒ならずもの禅匠哲学者や宗教家も多々、芭蕉や俳句を論じているが、ながくなって、危機一髪、記事が雲消霧散で消え去るリスクも最近は多いので、ここらで一発
>
>
>
> > 苦悩は、神を立てることを前提にしない不立文字的な禅思想、老荘などを論じるにどうしても西欧哲学一神教的述語を用いずんば、国際的に理解されえない
> >
> > 故に、無理して「超越」だの「神秘」だのなんだのとの超越思想的述語をもって語る
> >
> > 故に、かの若松君のやうに、救世主教者はそこの超越思想的述語をもって鬼の首でもとったやうに己が救世主教者の超越思想の宣教に勤しむ
> >
> > 畢竟するに、井筒の論を汝としての応答として読むまんで、ソレとして利用せんとするさもしさが若松にしても斎藤蛙君にしても顕著
> >
> > 斎藤蛙君においては、井筒の論に難癖をつけてソレをジャンピングボードにして己が「現象学徒」の飛躍を目論むやうな魂胆がまるみえで、まことに喰えぬ
> >
> > 若松の宣教の道具に利用して、井筒の苦悩の述語の一面だけをもって、やれオットー、エリアーデ、カトリック、救世主虚王、超越、栄光、神秘の宣教も食えぬ
> >
> > そもそも、神秘主義は井筒の若いころの著作であって、まあ、ちょっと探求心の旺盛な頃の若者は誰しも「超越」だとか「神秘」に魅かれるものだ
> >
> > 某も若き頃、猛烈でもないが、「超越」だとか「神秘」だとかに魅されて幾許かの書も紐解いてその残骸がいまもそこら中にころがっている
> >
> > すっかす、まんず「神秘」ちうのんは神ちう前提しなければ神秘はありえぬ
> >
> > 「超越」はかの一神教的権力垂直構造の毒を前提にせんば超越はありえぬ
> >
> > 「超越」「栄光」だとか「神秘」だとかは、まことにそこに達したと思えば気分もよろしい、「恩寵」に与かり「選民」になった気分でね
> >
> > すっかす、それがそもそもの差別の根にして、権力の源であることを自覚すれば、そうそう悪酔いもできんもんぢゃろがの
> >
> > > 秋の暮大魚の骨を海が引く(西東三鬼)
> > >
> > > あたかも我が老骨が汝なる大地母神にして母なる海に曳かれる、我汝一如
> > >
> > > 大往生の一句
> > >
> > > 三鬼終焉の地の森戸海岸のこの句碑の除幕式に三橋敏雄ととも行った
> > >
> > > 絶滅のかの狼を連れ歩く( 三橋敏雄)
> > >
> > > 去年今年貫く棒の如きもの(虚子)
> > >
> > > 食えるね、ありがたい、老いてまた命の飛躍の契機になる、エラン・ビタール
> > >
> > > ベルグソンの「道徳と宗教の二源泉」は食えなかった
> > >
> > > 人間若いときは食えるが、老いては食えぬもんも多い
> > >
> > > その逆も多々あり
> > >
> > > 例えば、大拙、久松真一など
> > >
> > > 久松の晩年の「覚の宗教」はよいが、八木が「宗教」としてしまったところが、罰点。
> > >
> > > 久松自身は、覚を宗教とは認めていない
> > >
> > > ところが、救世主教者八木は、あくまで超越宗教にこだわるから、久松の意に反して「宗教」と・・
> > >
> > > 晩年の久松は、即非も、帰依も認めない、何々へという他化、即非のやうな分裂は認めない
> > >
> > > 無の極北
> > >
> > > 而して、無相の自己、を標榜するところが、まだ相を捨てきれていない
> > >
> > > 若いころの久松の「東洋的無」は、読む堪えない、
> > >
> > > 西田の感化か、他化した超越神思想に毒されておって、老いたる境位とまるで位相が違うのね
> > >
> > > まあ、くだくだした概念観念をつらねた哲学よりも、17文字で境位を詠んだ句のはうが、頭にゴミが溜まらなくてよい
> > >
> > > > 海を見ていた午後
> > > > http://www.youtube.com/watch?v=TSItLSHG0bQ&list=RDmF5Qq2YheTg&index=6
> > > >
> > > > この横浜のドルフィンにも若きころよくドライブでいったものだ
> > > >
> > > > 今は老いて多摩のドルフィン丘陵に棲息する
> > > >
> > > > > むけうりをANNEX−Ω   訪問者数:11890770(今日:391/昨日:1553)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/23(Thu) 11:43 大安(丁未) 旧暦 5/25 月齢 23.6
> > > > >
> > > > > 空海を自由自在に跳ぶイルカ
> > > >
> > > > 駄句ですねえ、俳句はものに即して詠むもんでしょ、自由自在なんてものではありません
> > > >
> > > > たすかに・・去年今年貫く棒の如きもの(虚子)にしてもプロティノスの一、一即多の一を棒の如きものとして詠んでいたね
> > > >
> > > > それに自由自在の文字なんて角ばっていてイルカの流線形とも合いません
> > > >
> > > > たすかに・・一句の文字のながれも音も肝心ですね、啼きながらあひる寄り来る夕まぐれ
> > > >
> > > > 空海もいわずもがな
> > > >
> > > > いるかだからね、ではこういうのはどうでしょ?
> > > >
> > > > Jumping Free Liberty with Dorphin
> > > >
> > > > > ヨットの横を跳び遊ぶイルカ、快哉快哉と風を波乱で海面を滑る我
> > > > >
> > > > > 我と汝
> > > > >
> > > > > マルチンブーバーの根源語
> > > > >
> > > > > 我汝一如
> > > > >
> > > > > やがてイルカは海原の彼方に去る
> > > > >
> > > > > 一如の汝は消えて、ソレに頽落してしまう
> > > > >
> > > > > またイルカが現れる
> > > > >
> > > > > ソレは汝の種子
> > > >
> > > > 井筒の論じるところの阿頼耶識を思い浮かべるね
> > > >
> > > > 思い浮かべてさらに思うに種子は阿頼耶識という意識にあるのではなくソレの側、いわば自然界にあるではなからうか
> > > >
> > > > その自然界のあれこれそれを対象化して分節するその機能そのものが阿頼耶識にあるのであって、阿頼耶識に種子があるというのは趣旨が違う?
> > > >
> > > > とはいえ、伝統的に唯識でもW.ジェームスでも意識に種子があるとしているから・・
> > > >
> > > > > 汝たるイルカ、ものの光見えたるうちに云い止むべし、仕留むべし、撃て
> > > > >
> > > > > イルカを撃って食えば海豚
> > > >
> > > > ソレに頽落すれば、捕獲の対象であり、食の対象、ソレは利用対象にすぎなくなる
> > > >
> > > > > 海豚の恵みを有難く戴く
> > > > >
> > > > > イヨマンテ
> > > >
> > > > でも、利用してもかうやって感謝し祀ればそれは汝に復活する
> > > >
> > > > > 熊もいるかもおんなじだ
> > > >
> > > > 狼も
> > > >
> > > > 絶滅のかの狼を連れ歩く( 三橋敏雄)
> > > >
> > > > 我汝一如ですね
> > > >
> > > > 連れ歩いてはいるものの、連れ歩かれてもいる、主客未分

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54941] ブーバーの汝には父母未生以前の面目がある Re:[54940] 「超越」「栄光」だとか「神秘」だとかは、まことにそこに達したと思えば気分もよろしい、「恩寵」に与かり「選民」になった気分でね すっかす、それがそもそもの差別の根にして、権力の源であることを自覚すれば、そうそう悪酔いもできんもんぢゃろがのRe:[54939] 頭にゴミが溜まらなくてよいRe:[54938] 主客未分Re:[54937] 而して 天上天下唯彼独尊 とはいえまい 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/29(Wed) 08:40  

ほきさほふ投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/24(Fri) 11:38 赤口(癸丑) 旧暦 6/1 月齢 0. 新月 朔

朔月いいね

名月転倒して飴色の肌を舐む

南無南無

鷹匠と鷹のまなこに中りけり

> > > のしたくそANNEX−Ω   訪問者数:11891393(今日:140/昨日:874) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/24(Fri) 06:15 赤口(戊申) 旧暦 5/26 月齢 24.6 熨した糞
>
> 大鷲の爪あげて貌かきむしる (加藤楸邨)
>
> 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ (加藤楸邨)
>
> これも大鷲と楸邨の汝我一如
>
> 大鷲が貌を搔き毟るわけもなく、かきむしったのは学問のさびしさに堪へ炭をつぐ楸邨自身であらうがね
>
> 覚悟の一句

この「学問」、どんな学問だかわからんが、やや学問臭く、学問と無縁の向きには共感せぬかもしらぬ

これは、なぬも「学問」に限ったことではなく、人として全存在として解してもよからう

全存在というとまたかの超越思想の存在論に頽落してしまう嫌いもあるが、存在不安、ニヒリズム、学問にせい、ビジネスにせい、宗教にせい、俳句にせい、人間関係、共同体、組織にせい、そうもんにおける人の命のありやう、人生、まるごと全人的なありようと解せる

学問がもし真理を極める人事とすれば、真理のありよう、学問のあるようの疑義、以下同様にビジネス、宗教、俳句、人間関係、共同体、組織、はては国から国際関係のありようまでにおける命の不安、厳しさ

炭はつげば熾り、しばらくは暖かいが、ほどなく熾った炭も灰に化す、これはあらゆる人事や人事をとりまくことがらについていえる

さういう不安や厳しさに堪えて炭をつげるうちはいい、場合によっては堪え得ぬ、継げぬこともありうる、そこのギリギリのところを堪える、そこを肩に力をいれずして静謐に炭をつぐ、人生万感に通じる

> 長大な書を何度も読むのは疲れるが、句なら何度でも疲れぬ

長大な書とはいえ、その核はある、核以外はゴミとはいわんも、大方においてゴミも多々ある

一句を為す作者、一句を解す鑑賞者、そこに作者や鑑賞者の世界観が如実に現れる

作者の意図せぬ鑑賞にもなりえて、一句は新しい命のもとに生きる、あるいは死ぬこともある

> 井筒もかの東洋哲学の共時的構造化の難題にむけて貌を搔き毟ったのかもしれぬ

難題、ヘブライ、ヘレニズム、古代ギリシャ、古代インド、中国、日本、などなどを原語で解する井筒なればこそ挑める難題であらうが、原語を解すれば解するほど、母語に培われた文化基盤と非母語の文化基盤の齟齬、その齟齬を言語表現としてどう克服するか

はたまた、構造化という構造のありよう、よのなべての科学、思想、宗教にある幻想、妄想、仮説、実用

畢竟、試みるよりほかはない、決断において已むに已まれず突っ走る、突っ走り自己確認をする

いくら体験や覚醒に裏打ちされているとはいえ、体験も覚醒もないもん、文化基盤が違えば言語以前の体験基盤も覚醒基盤も違う、そこをどう宣り超えるか、これは並大抵の苦労ではない

某も幾許かの海外体験からして、基盤の違いに大いに呻吟した難題

>
> 「意識と本質」を読み返すたびに、みえてくるのは論者井筒の苦悩
>
> 苦悩しながら、それがまた愉悦でもあり、あの詩的な思想表現の味わいが醸しだされている


苦悩即愉楽、古今東西の宗教的思想的詩的巨匠を自在に呼び出す交響詩

むっかし、松永さんという豪傑の上司がおって、独りで会社を背負っているような気概の持ち主で、朝、出勤してくれば、女子社員のお尻を撫でて「おはよう」、ステーキが大好きで、若い部下にも食え、喰えと、300g400gのステーキをおごってくれて、気を込めて深夜の残業になればホテルオークラに泊まり、徹夜で部下にやらせたプロポーザルを翌朝でてきて目を通して

おめえ、詩を書いていんぢゃねえぞお、ヤリナオシ!

ま、この風は、なぬもビジネスプロポーザルばかりではなく、神学プロポーザル、哲学思想プロポーザルでもおなじことで、詩人の書いた思想や哲学、神学は、プロパーな思想家、哲学者、神学者からみれば、詩的幻想と片付けられることも、まま、あるなか、井筒においては、その東洋思想、東洋哲学の中に頻繁に詩があらわれる柔軟さ、これも魅力の一つであらう

そういう詩の一つして、禅語や俳句が、ギリシャ、近代西欧の詩人論とともにとりあげられる

芭蕉の俳句にはかなりの思想的重量をさいて、不易マフィーヤと流行フウィーヤを表裏一体になった本情の光見えたるうちに言い留むべしという井筒芭蕉俳論

光は見えたるうちにうて、ということは、ひかりは永遠の「栄光」のようなものではなく、いわば普遍本質不易マフィーヤと個別本質流行フウィーヤの綾なすゆらぎ交差のなかでみえるとき、みえる人にみえるもの

この普遍本質不易マフィーヤと個別本質流行フウィーヤ、その各々のありよう、ゆらぎ交差も、文化基盤の差異、個人の差異によってはその重心は大いに異なる

普遍本質不易マフィーヤを追求するマラルメの狂気

個別本質流行フウィーヤを追求するリルケの狂気

普遍本質不易マフィーヤと個別本質流行フウィーヤの綾なすゆらぎ交差の光を追求する芭蕉の風狂

ペルシャイラン的思想基盤で、その西側、東側の詩人を論じる詩論、試論、実験

白眉はあのあの短文、クローデル、いまは返本して手元にない

それにして、一期一会も詩になるが、この一期一会は、こういう思想構造的コンテクストではどこに位置するのであらうか

無常、侘び寂、本邦の従来の伝統型の型は、こういう思想構造的コンテクストではどこに位置するのであらうか

ブーバーの我と汝の根源語で、幾許かの句の解釈を施したが、我と汝の根源語はこういう思想構造的コンテクストではどこに位置するのであらうか

とか、いろいろに思いやれば興味はつきない

ブーバーの我と汝の根源語の思想、これも思想とはいえ、詩的思想であって、むかしから大いに食える、食って食って、命の糧になっているが、一見、我と汝の分裂、二元的、あるはソレをいれて三元的なる印象もあるが、それがあっても、巷の凡俗なる二元論よりはよほど一元的であって、ブーバーの汝には父母未生以前の面目がある

ブーバー自身もこういっている

ブーバー著 野口啓祐訳「孤独と愛―我と汝の問題」創文社 1958年1967年17刷280円 良い本ですね

これは梅田の旭屋で前所有者福西氏が昭和42年7月七夕の夜に、つまり1967年4月17刷の出版直後に購入し、後ろの扉にこういう歌が万年筆で記されている

夢ふけて笹が枝に結びし七夕の想いは今は涙にくゆりぬ 7月7日

さてブーバー曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

P33
第一の根源語<われーなんじ>も、<われ>と<なん事>の二要素に分解できるかもしれない。しかしこの根源語は、<われ>と<汝>という二要素が一つになって生じたものではない。それは本質的にいって、<われ>の生まれる以前から存在していたのである

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

我汝の汝は汝にとどまり得ずして、ソレに頽落してしまう

ソレに頽落した汝を汝として取り戻そうとする、それこそ芭蕉の光みえたるうちに・・だね

一方で、そういう頽落する運命にある無常の汝に対して、永遠の汝をブーバーは立てる、そこがユダヤ教、一神教的思想、詩想基盤なのね

さて、井筒ならずもの禅匠哲学者や宗教家も多々、芭蕉や俳句を論じているが、ながくなって、危機一髪、記事が雲消霧散で消え去るリスクも最近は多いので、ここらで一発



> 苦悩は、神を立てることを前提にしない不立文字的な禅思想、老荘などを論じるにどうしても西欧哲学一神教的述語を用いずんば、国際的に理解されえない
>
> 故に、無理して「超越」だの「神秘」だのなんだのとの超越思想的述語をもって語る
>
> 故に、かの若松君のやうに、救世主教者はそこの超越思想的述語をもって鬼の首でもとったやうに己が救世主教者の超越思想の宣教に勤しむ
>
> 畢竟するに、井筒の論を汝としての応答として読むまんで、ソレとして利用せんとするさもしさが若松にしても斎藤蛙君にしても顕著
>
> 斎藤蛙君においては、井筒の論に難癖をつけてソレをジャンピングボードにして己が「現象学徒」の飛躍を目論むやうな魂胆がまるみえで、まことに喰えぬ
>
> 若松の宣教の道具に利用して、井筒の苦悩の述語の一面だけをもって、やれオットー、エリアーデ、カトリック、救世主虚王、超越、栄光、神秘の宣教も食えぬ
>
> そもそも、神秘主義は井筒の若いころの著作であって、まあ、ちょっと探求心の旺盛な頃の若者は誰しも「超越」だとか「神秘」に魅かれるものだ
>
> 某も若き頃、猛烈でもないが、「超越」だとか「神秘」だとかに魅されて幾許かの書も紐解いてその残骸がいまもそこら中にころがっている
>
> すっかす、まんず「神秘」ちうのんは神ちう前提しなければ神秘はありえぬ
>
> 「超越」はかの一神教的権力垂直構造の毒を前提にせんば超越はありえぬ
>
> 「超越」「栄光」だとか「神秘」だとかは、まことにそこに達したと思えば気分もよろしい、「恩寵」に与かり「選民」になった気分でね
>
> すっかす、それがそもそもの差別の根にして、権力の源であることを自覚すれば、そうそう悪酔いもできんもんぢゃろがの
>
> > 秋の暮大魚の骨を海が引く(西東三鬼)
> >
> > あたかも我が老骨が汝なる大地母神にして母なる海に曳かれる、我汝一如
> >
> > 大往生の一句
> >
> > 三鬼終焉の地の森戸海岸のこの句碑の除幕式に三橋敏雄ととも行った
> >
> > 絶滅のかの狼を連れ歩く( 三橋敏雄)
> >
> > 去年今年貫く棒の如きもの(虚子)
> >
> > 食えるね、ありがたい、老いてまた命の飛躍の契機になる、エラン・ビタール
> >
> > ベルグソンの「道徳と宗教の二源泉」は食えなかった
> >
> > 人間若いときは食えるが、老いては食えぬもんも多い
> >
> > その逆も多々あり
> >
> > 例えば、大拙、久松真一など
> >
> > 久松の晩年の「覚の宗教」はよいが、八木が「宗教」としてしまったところが、罰点。
> >
> > 久松自身は、覚を宗教とは認めていない
> >
> > ところが、救世主教者八木は、あくまで超越宗教にこだわるから、久松の意に反して「宗教」と・・
> >
> > 晩年の久松は、即非も、帰依も認めない、何々へという他化、即非のやうな分裂は認めない
> >
> > 無の極北
> >
> > 而して、無相の自己、を標榜するところが、まだ相を捨てきれていない
> >
> > 若いころの久松の「東洋的無」は、読む堪えない、
> >
> > 西田の感化か、他化した超越神思想に毒されておって、老いたる境位とまるで位相が違うのね
> >
> > まあ、くだくだした概念観念をつらねた哲学よりも、17文字で境位を詠んだ句のはうが、頭にゴミが溜まらなくてよい
> >
> > > 海を見ていた午後
> > > http://www.youtube.com/watch?v=TSItLSHG0bQ&list=RDmF5Qq2YheTg&index=6
> > >
> > > この横浜のドルフィンにも若きころよくドライブでいったものだ
> > >
> > > 今は老いて多摩のドルフィン丘陵に棲息する
> > >
> > > > むけうりをANNEX−Ω   訪問者数:11890770(今日:391/昨日:1553)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/23(Thu) 11:43 大安(丁未) 旧暦 5/25 月齢 23.6
> > > >
> > > > 空海を自由自在に跳ぶイルカ
> > >
> > > 駄句ですねえ、俳句はものに即して詠むもんでしょ、自由自在なんてものではありません
> > >
> > > たすかに・・去年今年貫く棒の如きもの(虚子)にしてもプロティノスの一、一即多の一を棒の如きものとして詠んでいたね
> > >
> > > それに自由自在の文字なんて角ばっていてイルカの流線形とも合いません
> > >
> > > たすかに・・一句の文字のながれも音も肝心ですね、啼きながらあひる寄り来る夕まぐれ
> > >
> > > 空海もいわずもがな
> > >
> > > いるかだからね、ではこういうのはどうでしょ?
> > >
> > > Jumping Free Liberty with Dorphin
> > >
> > > > ヨットの横を跳び遊ぶイルカ、快哉快哉と風を波乱で海面を滑る我
> > > >
> > > > 我と汝
> > > >
> > > > マルチンブーバーの根源語
> > > >
> > > > 我汝一如
> > > >
> > > > やがてイルカは海原の彼方に去る
> > > >
> > > > 一如の汝は消えて、ソレに頽落してしまう
> > > >
> > > > またイルカが現れる
> > > >
> > > > ソレは汝の種子
> > >
> > > 井筒の論じるところの阿頼耶識を思い浮かべるね
> > >
> > > 思い浮かべてさらに思うに種子は阿頼耶識という意識にあるのではなくソレの側、いわば自然界にあるではなからうか
> > >
> > > その自然界のあれこれそれを対象化して分節するその機能そのものが阿頼耶識にあるのであって、阿頼耶識に種子があるというのは趣旨が違う?
> > >
> > > とはいえ、伝統的に唯識でもW.ジェームスでも意識に種子があるとしているから・・
> > >
> > > > 汝たるイルカ、ものの光見えたるうちに云い止むべし、仕留むべし、撃て
> > > >
> > > > イルカを撃って食えば海豚
> > >
> > > ソレに頽落すれば、捕獲の対象であり、食の対象、ソレは利用対象にすぎなくなる
> > >
> > > > 海豚の恵みを有難く戴く
> > > >
> > > > イヨマンテ
> > >
> > > でも、利用してもかうやって感謝し祀ればそれは汝に復活する
> > >
> > > > 熊もいるかもおんなじだ
> > >
> > > 狼も
> > >
> > > 絶滅のかの狼を連れ歩く( 三橋敏雄)
> > >
> > > 我汝一如ですね
> > >
> > > 連れ歩いてはいるものの、連れ歩かれてもいる、主客未分

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54940] 「超越」「栄光」だとか「神秘」だとかは、まことにそこに達したと思えば気分もよろしい、「恩寵」に与かり「選民」になった気分でね すっかす、それがそもそもの差別の根にして、権力の源であることを自覚すれば、そうそう悪酔いもできんもんぢゃろがのRe:[54939] 頭にゴミが溜まらなくてよいRe:[54938] 主客未分Re:[54937] 而して 天上天下唯彼独尊 とはいえまい 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/24(Fri) 11:38  

> > のしたくそANNEX−Ω   訪問者数:11891393(今日:140/昨日:874) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/24(Fri) 06:15 赤口(戊申) 旧暦 5/26 月齢 24.6 熨した糞

大鷲の爪あげて貌かきむしる (加藤楸邨)

学問のさびしさに堪へ炭をつぐ (加藤楸邨)

これも大鷲と楸邨の汝我一如

大鷲が貌を搔き毟るわけもなく、かきむしったのは学問のさびしさに堪へ炭をつぐ楸邨自身であらうがね

覚悟の一句

長大な書を何度も読むのは疲れるが、句なら何度でも疲れぬ

井筒もかの東洋哲学の共時的構造化の難題にむけて貌を搔き毟ったのかもしれぬ

「意識と本質」を読み返すたびに、みえてくるのは論者井筒の苦悩

苦悩しながら、それがまた愉悦でもあり、あの詩的な思想表現の味わいが醸しだされている

苦悩は、神を立てることを前提にしない不立文字的な禅思想、老荘などを論じるにどうしても西欧哲学一神教的述語を用いずんば、国際的に理解されえない

故に、無理して「超越」だの「神秘」だのなんだのとの超越思想的述語をもって語る

故に、かの若松君のやうに、救世主教者はそこの超越思想的述語をもって鬼の首でもとったやうに己が救世主教者の超越思想の宣教に勤しむ

畢竟するに、井筒の論を汝としての応答として読むまんで、ソレとして利用せんとするさもしさが若松にしても斎藤蛙君にしても顕著

斎藤蛙君においては、井筒の論に難癖をつけてソレをジャンピングボードにして己が「現象学徒」の飛躍を目論むやうな魂胆がまるみえで、まことに喰えぬ

若松の宣教の道具に利用して、井筒の苦悩の述語の一面だけをもって、やれオットー、エリアーデ、カトリック、救世主虚王、超越、栄光、神秘の宣教も食えぬ

そもそも、神秘主義は井筒の若いころの著作であって、まあ、ちょっと探求心の旺盛な頃の若者は誰しも「超越」だとか「神秘」に魅かれるものだ

某も若き頃、猛烈でもないが、「超越」だとか「神秘」だとかに魅されて幾許かの書も紐解いてその残骸がいまもそこら中にころがっている

すっかす、まんず「神秘」ちうのんは神ちう前提しなければ神秘はありえぬ

「超越」はかの一神教的権力垂直構造の毒を前提にせんば超越はありえぬ

「超越」「栄光」だとか「神秘」だとかは、まことにそこに達したと思えば気分もよろしい、「恩寵」に与かり「選民」になった気分でね

すっかす、それがそもそもの差別の根にして、権力の源であることを自覚すれば、そうそう悪酔いもできんもんぢゃろがの

> 秋の暮大魚の骨を海が引く(西東三鬼)
>
> あたかも我が老骨が汝なる大地母神にして母なる海に曳かれる、我汝一如
>
> 大往生の一句
>
> 三鬼終焉の地の森戸海岸のこの句碑の除幕式に三橋敏雄ととも行った
>
> 絶滅のかの狼を連れ歩く( 三橋敏雄)
>
> 去年今年貫く棒の如きもの(虚子)
>
> 食えるね、ありがたい、老いてまた命の飛躍の契機になる、エラン・ビタール
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> ベルグソンの「道徳と宗教の二源泉」は食えなかった
>
> 人間若いときは食えるが、老いては食えぬもんも多い
>
> その逆も多々あり
>
> 例えば、大拙、久松真一など
>
> 久松の晩年の「覚の宗教」はよいが、八木が「宗教」としてしまったところが、罰点。
>
> 久松自身は、覚を宗教とは認めていない
>
> ところが、救世主教者八木は、あくまで超越宗教にこだわるから、久松の意に反して「宗教」と・・
>
> 晩年の久松は、即非も、帰依も認めない、何々へという他化、即非のやうな分裂は認めない
>
> 無の極北
>
> 而して、無相の自己、を標榜するところが、まだ相を捨てきれていない
>
> 若いころの久松の「東洋的無」は、読む堪えない、
>
> 西田の感化か、他化した超越神思想に毒されておって、老いたる境位とまるで位相が違うのね
>
> まあ、くだくだした概念観念をつらねた哲学よりも、17文字で境位を詠んだ句のはうが、頭にゴミが溜まらなくてよい
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> > > 空海を自由自在に跳ぶイルカ
> >
> > 駄句ですねえ、俳句はものに即して詠むもんでしょ、自由自在なんてものではありません
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> > たすかに・・去年今年貫く棒の如きもの(虚子)にしてもプロティノスの一、一即多の一を棒の如きものとして詠んでいたね
> >
> > それに自由自在の文字なんて角ばっていてイルカの流線形とも合いません
> >
> > たすかに・・一句の文字のながれも音も肝心ですね、啼きながらあひる寄り来る夕まぐれ
> >
> > 空海もいわずもがな
> >
> > いるかだからね、ではこういうのはどうでしょ?
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> > Jumping Free Liberty with Dorphin
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> > > 我汝一如
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> > > やがてイルカは海原の彼方に去る
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> > > 一如の汝は消えて、ソレに頽落してしまう
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> > > またイルカが現れる
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> > > ソレは汝の種子
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> > 井筒の論じるところの阿頼耶識を思い浮かべるね
> >
> > 思い浮かべてさらに思うに種子は阿頼耶識という意識にあるのではなくソレの側、いわば自然界にあるではなからうか
> >
> > その自然界のあれこれそれを対象化して分節するその機能そのものが阿頼耶識にあるのであって、阿頼耶識に種子があるというのは趣旨が違う?
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> > とはいえ、伝統的に唯識でもW.ジェームスでも意識に種子があるとしているから・・
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> > > 汝たるイルカ、ものの光見えたるうちに云い止むべし、仕留むべし、撃て
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> > > イルカを撃って食えば海豚
> >
> > ソレに頽落すれば、捕獲の対象であり、食の対象、ソレは利用対象にすぎなくなる
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> > > 海豚の恵みを有難く戴く
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> > > イヨマンテ
> >
> > でも、利用してもかうやって感謝し祀ればそれは汝に復活する
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> > > 熊もいるかもおんなじだ
> >
> > 狼も
> >
> > 絶滅のかの狼を連れ歩く( 三橋敏雄)
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> > 我汝一如ですね
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[54939] 頭にゴミが溜まらなくてよいRe:[54938] 主客未分Re:[54937] 而して 天上天下唯彼独尊 とはいえまい 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/24(Fri) 08:20  

> のしたくそANNEX−Ω   訪問者数:11891393(今日:140/昨日:874) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/24(Fri) 06:15 赤口(戊申) 旧暦 5/26 月齢 24.6 熨した糞

秋の暮大魚の骨を海が引く(西東三鬼)

あたかも我が老骨が汝なる大地母神にして母なる海に曳かれる、我汝一如

大往生の一句

三鬼終焉の地の森戸海岸のこの句碑の除幕式に三橋敏雄ととも行った

絶滅のかの狼を連れ歩く( 三橋敏雄)

去年今年貫く棒の如きもの(虚子)

食えるね、ありがたい、老いてまた命の飛躍の契機になる、エラン・ビタール

ベルグソンの「道徳と宗教の二源泉」は食えなかった

人間若いときは食えるが、老いては食えぬもんも多い

その逆も多々あり

例えば、大拙、久松真一など

久松の晩年の「覚の宗教」はよいが、八木が「宗教」としてしまったところが、罰点。

久松自身は、覚を宗教とは認めていない

ところが、救世主教者八木は、あくまで超越宗教にこだわるから、久松の意に反して「宗教」と・・

晩年の久松は、即非も、帰依も認めない、何々へという他化、即非のやうな分裂は認めない

無の極北

而して、無相の自己、を標榜するところが、まだ相を捨てきれていない

若いころの久松の「東洋的無」は、読む堪えない、

西田の感化か、他化した超越神思想に毒されておって、老いたる境位とまるで位相が違うのね

まあ、くだくだした概念観念をつらねた哲学よりも、17文字で境位を詠んだ句のはうが、頭にゴミが溜まらなくてよい

> 海を見ていた午後
> http://www.youtube.com/watch?v=TSItLSHG0bQ&list=RDmF5Qq2YheTg&index=6
>
> この横浜のドルフィンにも若きころよくドライブでいったものだ
>
> 今は老いて多摩のドルフィン丘陵に棲息する
>
> > むけうりをANNEX−Ω   訪問者数:11890770(今日:391/昨日:1553)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/23(Thu) 11:43 大安(丁未) 旧暦 5/25 月齢 23.6
> >
> > 空海を自由自在に跳ぶイルカ
>
> 駄句ですねえ、俳句はものに即して詠むもんでしょ、自由自在なんてものではありません
>
> たすかに・・去年今年貫く棒の如きもの(虚子)にしてもプロティノスの一、一即多の一を棒の如きものとして詠んでいたね
>
> それに自由自在の文字なんて角ばっていてイルカの流線形とも合いません
>
> たすかに・・一句の文字のながれも音も肝心ですね、啼きながらあひる寄り来る夕まぐれ
>
> 空海もいわずもがな
>
> いるかだからね、ではこういうのはどうでしょ?
>
> Jumping Free Liberty with Dorphin
>
> > ヨットの横を跳び遊ぶイルカ、快哉快哉と風を波乱で海面を滑る我
> >
> > 我と汝
> >
> > マルチンブーバーの根源語
> >
> > 我汝一如
> >
> > やがてイルカは海原の彼方に去る
> >
> > 一如の汝は消えて、ソレに頽落してしまう
> >
> > またイルカが現れる
> >
> > ソレは汝の種子
>
> 井筒の論じるところの阿頼耶識を思い浮かべるね
>
> 思い浮かべてさらに思うに種子は阿頼耶識という意識にあるのではなくソレの側、いわば自然界にあるではなからうか
>
> その自然界のあれこれそれを対象化して分節するその機能そのものが阿頼耶識にあるのであって、阿頼耶識に種子があるというのは趣旨が違う?
>
> とはいえ、伝統的に唯識でもW.ジェームスでも意識に種子があるとしているから・・
>
> > 汝たるイルカ、ものの光見えたるうちに云い止むべし、仕留むべし、撃て
> >
> > イルカを撃って食えば海豚
>
> ソレに頽落すれば、捕獲の対象であり、食の対象、ソレは利用対象にすぎなくなる
>
> > 海豚の恵みを有難く戴く
> >
> > イヨマンテ
>
> でも、利用してもかうやって感謝し祀ればそれは汝に復活する
>
> > 熊もいるかもおんなじだ
>
> 狼も
>
> 絶滅のかの狼を連れ歩く( 三橋敏雄)
>
> 我汝一如ですね
>
> 連れ歩いてはいるものの、連れ歩かれてもいる、主客未分

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54938] 主客未分Re:[54937] 而して 天上天下唯彼独尊 とはいえまい 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/24(Fri) 07:35  

のしたくそANNEX−Ω   訪問者数:11891393(今日:140/昨日:874) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/24(Fri) 06:15 赤口(戊申) 旧暦 5/26 月齢 24.6 熨した糞

海を見ていた午後
http://www.youtube.com/watch?v=TSItLSHG0bQ&list=RDmF5Qq2YheTg&index=6

この横浜のドルフィンにも若きころよくドライブでいったものだ

今は老いて多摩のドルフィン丘陵に棲息する

> むけうりをANNEX−Ω   訪問者数:11890770(今日:391/昨日:1553)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/23(Thu) 11:43 大安(丁未) 旧暦 5/25 月齢 23.6
>
> 空海を自由自在に跳ぶイルカ

駄句ですねえ、俳句はものに即して詠むもんでしょ、自由自在なんてものではありません

たすかに・・去年今年貫く棒の如きもの(虚子)にしてもプロティノスの一、一即多の一を棒の如きものとして詠んでいたね

それに自由自在の文字なんて角ばっていてイルカの流線形とも合いません

たすかに・・一句の文字のながれも音も肝心ですね、啼きながらあひる寄り来る夕まぐれ

空海もいわずもがな

いるかだからね、ではこういうのはどうでしょ?

Jumping Free Liberty with Dorphin

> ヨットの横を跳び遊ぶイルカ、快哉快哉と風を波乱で海面を滑る我
>
> 我と汝
>
> マルチンブーバーの根源語
>
> 我汝一如
>
> やがてイルカは海原の彼方に去る
>
> 一如の汝は消えて、ソレに頽落してしまう
>
> またイルカが現れる
>
> ソレは汝の種子

井筒の論じるところの阿頼耶識を思い浮かべるね

思い浮かべてさらに思うに種子は阿頼耶識という意識にあるのではなくソレの側、いわば自然界にあるではなからうか

その自然界のあれこれそれを対象化して分節するその機能そのものが阿頼耶識にあるのであって、阿頼耶識に種子があるというのは趣旨が違う?

とはいえ、伝統的に唯識でもW.ジェームスでも意識に種子があるとしているから・・

> 汝たるイルカ、ものの光見えたるうちに云い止むべし、仕留むべし、撃て
>
> イルカを撃って食えば海豚

ソレに頽落すれば、捕獲の対象であり、食の対象、ソレは利用対象にすぎなくなる

> 海豚の恵みを有難く戴く
>
> イヨマンテ

でも、利用してもかうやって感謝し祀ればそれは汝に復活する

> 熊もいるかもおんなじだ

狼も

絶滅のかの狼を連れ歩く( 三橋敏雄)

我汝一如ですね

連れ歩いてはいるものの、連れ歩かれてもいる、主客未分

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54937] 而して 天上天下唯彼独尊 とはいえまい 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/23(Thu) 14:33  

むけうりをANNEX−Ω   訪問者数:11890770(今日:391/昨日:1553)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/23(Thu) 11:43 大安(丁未) 旧暦 5/25 月齢 23.6

空海を自由自在に跳ぶイルカ

ヨットの横を跳び遊ぶイルカ、快哉快哉と風を波乱で海面を滑る我

我と汝

マルチンブーバーの根源語

我汝一如

やがてイルカは海原の彼方に去る

一如の汝は消えて、ソレに頽落してしまう

またイルカが現れる

ソレは汝の種子

汝たるイルカ、ものの光見えたるうちに云い止むべし、仕留むべし、撃て

イルカを撃って食えば海豚

海豚の恵みを有難く戴く

イヨマンテ

熊もいるかもおんなじだ

イノシシは猪、山鯨、牡丹肉

言葉は文化によって規制される

文化は言葉によって規制される

その文化によって規制された言葉で表される思想、詩想、志操、その言葉によって規制された文化を翻訳することの如何に困難なことか

その困難な世の翻訳には頭が下がるが、また混乱の元でもある

自由自在

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

「Freedom」と「Liberty」

ウジェーヌ・ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』(1833年),自由を寓意的に表した代表的な絵画。1789年8月26日人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)第4条は「他人を害することのないもの全てをなし得ること」を「自由」と定義した。[1]
英語の「Freedom フリーダム」と「Liberty リバティ」は、ともに自由と訳される。現在、この2つの語はほぼ同じ意味で用いられるが、その意味合いはいくらか異なっている。

フリーダムは古英語の「frēo」に由来する。これは古インドヨーロッパ語の「prijos」や「prēy-」、あるいは古ドイツ語の「frijaz」に起源をもち「好む、愛」の意味を持つ。北欧神話のフレイ、フレイヤも同じ語源による。古アイルランド語の「ríar」はウェールズ語の「rhydd」と対応し現在の英語の「free(自由な)」に直接対応している。古代ギリシア語では「πρᾶος(praos, 温和で、優しい)」[2]。保守を意味する場合がある。

一方でリバティはラテン語「liber」の「社会的・政治的に制約されていない」「負債を負っていない」という意味から、英語の「liberal(形:自由な)」や「liberty(名:自由)」の語源となった。自由主義の「liberalism」はこれによる。また「liberate(動:解放する)」、「liberator(名:解放者)」、「liberation(名:解放)」も同じ語源による[3]。「liber」は古英語に入り「leod」となり、こちらは「leader」の語源とされている[4]。進歩を意味する場合がある。

両者の共通点は、現在的意味合いの自由とは異なる意味で用いられた点である。英語「freedom」と「liberty」の用法にも残っているが、近世までは特権を意味する語であった。民衆の持ちえない権利を有している状態が「freedom」または「liberty」であった。1729年に出版された辞書によれば、権利付与や時効によって得られる高貴なる者の特権と定義され、但し書きで「一部で、各人が思うように行動できる力という意味でも用いられてきている」と言及されている[5]。

日本語訳
穂積陳重の「法窓夜話」によれば、加藤弘之から聞いたこととして訳字「自由」は幕府外国方英語通辞の頭をしていた森山多吉郎が案出したのが最初であるとするが、文献上では文久2年初版・慶応3年正月再版訳了の「英和対訳辞書」(堀達三郎・著)に紹介され、慶応2年初版の「西洋事情」(福沢諭吉・著)にも訳字が見られるとする[6]。鈴木修次によれば初出は森山多吉郎、福沢の西洋事情により広まったとする[7]。慶應義塾のデジタルギャラリによれば福沢による訳語とする[8]。

「自由」は古典中国語では「後漢書」、日本では「続日本紀」まで遡ることができる[9]が我儘放蕩(わがままほうとう)の意味であった。徒然草に「よろづ自由にして、大方、人に従うといふことなし」(60段)[10]とあるほか、二条河原の落書には「自由出家」「自由狼藉」という語句が登場していた。江戸時代の教育論の書である和俗童子訓には「殊に高家の子は、物事豊かに自由なる故に、好む方に心早くうつり易くして、おぼれ易し。」とあった[11]。

福沢の西洋事情にはlibertyを日本語訳することの困難さを述べており、自主・自尊・自得・自若・自主宰・任意・寛容・従容などといった漢訳はあるが、原語の意義を尽くさないとする。加藤弘之は慶応4年の「立憲政体略」において「自在」と訳し、津田真道の「泰西国法論」でも「自在」と訳されたが、福沢や中村敬宇によるミルの日本語訳「自由之理」により自由が定着した。穂積によれば「自由」なる語・「自由」なる思想の開祖は「実に福沢先生にあると言うてもよかろうと思われる」とする[12]。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

大拙ほかは「自らに由る」といい、某は「自らの由」と云う

その自ら、我という言葉にまつわる文化のありよう

自由における東西文化の差

自在における東西文化の差

天上天下唯我独尊

この我は、我汝彼の分節を無化した我なれば、彼汝我の我ではない

なれば・・

天上天下唯汝独尊

この汝は、我汝彼の分節を無化した汝なれば、彼汝我の汝ではない

茂吉が実相貫入といい、芭蕉が本情という詩情の至上

而して

天上天下唯彼独尊

とはいえまい

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54936] しゃべりながら、むやみに両手を動かすテレビのキャスター・コメンテーターのジェスチャア 言葉・思想の希薄さを、定言命令の気迫で補う、諸々の批評屋、「哲学者・思想家・宗教者・神学者」 空疎な自我存在主張だけである 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/20(Mon) 15:15  

るけりめぬANNEX−Ω   訪問者数:11886883(今日:597/昨日:1531) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/20(Mon) 13:19 友引(甲辰) 旧暦 5/22 月齢 20.6

ここの数年気になっていることの一つにテレビのキャスター・コメンテーターのジェスチャアがある

しゃべりながら、むやみに両手を動かす

両手でなにか、包むような、囲むような仕草をして、その片方の手がその包んだ、囲んだものを叩く

包まれた、囲まれたものがウクライナで、叩くものがロシアなのだらうか?

これが、ウクライナと露西亜でなくしても、もっかの政策にたいしてそこへの転換の場合でも同じ仕草をする

まことに軽薄であって見るに堪えないのであるが、そういう出演者が増えてきて、テレビカメラもそれを大写しにする

チャンネルを換える、見たくない、気分が悪い

そういうやつに限って人物に気迫がない

言葉が希薄であって、その希薄さを手の動きの気迫で補おうというのか

しゃべられている言葉と、そこで右往左往する手の動きで、視聴者は集中が乱されて、なにがなんだかわからぬ混迷に陥ってしまう

そこが狙いなんだらうか?

言葉・思想の希薄さを、定言命令の気迫で補う、諸々の批評屋、「哲学者・思想家・宗教者・神学者」

似たものを感じる

確たる底の伝えるべきなにものもない

あるのは空疎な自我存在主張だけである


やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54935] 天の天涯地の地涯 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/17(Fri) 07:33  

かそへねち投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/17(Fri) 07:28 大安(辛丑) 旧暦 5/19 月齢 17.6 過疎へ寝痴

One Moment In Time - Dana Winner (live) - English-Vietnamese lyrics
http://www.youtube.com/watch?v=N5RIfTn5WU0&list=RDEMyhbwj28xEqh_PtdUA5QmOQ&start_radio=1

龍潜む天の天涯地の地涯 2005/2/17

こんな句をだせば大拙居士も呵々大笑であらう

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54934] 西田幾多郎「善の研究」岩波文庫124-1 1911年 X Re:[54933] 遠雷や天の一郭崩れ落ちRe:[54932] 老じれば頭も体も固くなる 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/04(Sat) 11:25  

らちすれちANNEX−Ω   訪問者数:11867570(今日:613/昨日:2047)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/04(Sat) 10:34 仏滅(戊子) 旧暦 5/6 月齢 4.6 拉致すれ痴

炎天下三蔵法師の無位三昧

罠にかかったオオカミを救った男性。その4年後に驚くべきことが!【感動】
http://www.youtube.com/watch?v=hg9es4a1Pt0

前田利鎌「臨済・荘子」岩波文庫179-1 1932年 ○

西田幾多郎「善の研究」岩波文庫124-1 1911年 X 2002年10月15日23:18須川温泉#815室で読了にして☆VeryGoodの評価なるも、昨今20年振りに読み返すとまるでX

20年前に観えなかった粗〈アラ〉があらわで読むに堪えず、とくに宗教、神、世界、などの章に至っては、まことに西欧一神教への中毒があらわであって、禅的な齟齬が甚だしいハナハダシイ、甚だ恣意

ま、当時の西欧崇拝にして「哲学」なるものが西欧一神教由来であるからして、そういうコンテクストでよめば20年前のわれがVeryGood☆としたやうに、わからぬでもないが、さいう西欧思想哲学一神教の犯した罪の数々、目下の罪の継続を思えば、不可とせざるをえない

思え落、本邦の哲学者にして、海外での評価が高いというのは、畢竟、東洋的なものを西洋的ロゴスで解説する、その間に東洋的精神は死に絶えて西欧的「超越」「統一」観念に溺れ果ててしまう、その西欧的観念において西欧での「評価」は高まるものの、本来の脱観念の、それ、これ、東洋的境位が全機に失われてしまう

もぬけの殻の観念、概念の羅列

だからして、西田後年の醜悪なる著作

西田幾多郎「哲学の根本問題〜行為の世界」岩波書店 昭和8年=1933年

のようなまるで西欧神学者の定言命令の羅列に堕した文章になってXXXXXとせざるをえない

その弟子も多々おり、日本で最初の日本哲学なんぞとほざく風が蔓延し、また、西田のまことに不徹底なる禅ならびに仏教、東洋思想解説に悪乗りした本邦の一神教思想構造に毒された「哲学」者どもがこれをもちゃげて今日まで連綿か

なぬも八紘一宇や大東亜共栄圏をもちだし、あとづけ批判せんでも、その言説の種、態度において、一神教的思想構造の毒が顕著なれば、そういう観点からの評価の見直しが必須と思われるが

まあ、目下の「哲学」者諸君、「思想」家諸君の中毒状態では無理でっしゃろな

その後に続く諸家の幾許かもやりたいのだが・・寝てばっかおっても体の毒ゆえ、寿司屋へでもつっぱしるか

> ANNEX−Ω   訪問者数:11867556(今日:599/昨日:2047)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/04(Sat) 10:07 仏滅(戊子) 旧暦 5/6 月齢 4.6
>
> 仏滅ね、やる気がでる
>
> さういえば昨日一日中寝ておって夢中で浮かんだ一句を思い出した
>
> 遠雷や天の一郭崩れ落ち
>
> 罠にかかったオオカミを救った男性。その4年後に驚くべきことが!【感動】
> http://www.youtube.com/watch?v=hg9es4a1Pt0
>
> > おはぬほかANNEX−Ω   訪問者数:11867533(今日:576/昨日:2047)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/04(Sat) 08:48 仏滅(戊子) 旧暦 5/6 月齢 4.6
> >
> > 仏滅ね、やる気がでる
> >
> > 雹ならぬ苔玉降れる屋根尖る
> >
> > Old & Wise
> > http://www.youtube.com/watch?v=5AFzWiD26tA
> >
> > 老賢、老犬、老健、陋見、耄碌
> >
> > どうも老じれば頭も体も固くなる
> >
> > このdana winnerの名前を失念してそのイメージを探してHelene Fischerに出会い見まがう朝の数時間
> >
> > やにパワーフルでアバズレたなあ!
> >
> > でもどこか面影がある
> >
> > 10年来くらいみてないあいだに随分としをとったなあ
> >
> > 1984年生まれにして38歳か?
> >
> > それにしちゃあ、もう50代のやりて婆にみえる、おかしいゾ〜!
> >
> > Helene Fischer-The Powerr off Love
> > http://www.youtube.com/watch?v=EKHQGuUH8U8
> >
> > Helene Fischer Live Full Concert 2021
> > http://www.youtube.com/watch?v=DSkrCd2tSGw
> >
> > VincentやOldmanをうたっておったな、とほうぼう検索すれどもでてこず
> >
> > 若いころの画像を検索すると似ているようでもあるが違うようでもある
> >
> > 狐に摘ままれた感じの朝
> >
> > Vincent Van Gogh's The Starry Starry Night
> >
> > いくら過去ログ検索してもStarry Starry NightのHelene Fischerはでてこない
> >
> >
> > しかし、突然でてきた
> >
> > Oldman→Old & Wiseでdana winnerの名前、Annexの過去ログ
> >
> > 安心、安心、腑に落ちて
> >
> > 1965年生まれか、ぜんぜん年上なのに可憐にしてオボコめいたあの楚々とした風情
> >
> > 1984年生まれがやりて婆で、面影はにていても、動画になるとどうも、まあ、母子の差が逆転
> >
> > 天国へ下る階段地蜘蛛跳ぶ
> >
> > 煉獄へ上る階段星降れり
> >
> > Vincent Van Gogh's The Starry Night: Great Art Explained
> > http://www.youtube.com/watch?v=wk9L1N9bRRE
> >
> >
> >
> >
> >

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54933] 遠雷や天の一郭崩れ落ちRe:[54932] 老じれば頭も体も固くなる 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/04(Sat) 10:15  

ANNEX−Ω   訪問者数:11867556(今日:599/昨日:2047)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/04(Sat) 10:07 仏滅(戊子) 旧暦 5/6 月齢 4.6

仏滅ね、やる気がでる

さういえば昨日一日中寝ておって夢中で浮かんだ一句を思い出した

遠雷や天の一郭崩れ落ち

罠にかかったオオカミを救った男性。その4年後に驚くべきことが!【感動】
http://www.youtube.com/watch?v=hg9es4a1Pt0

> おはぬほかANNEX−Ω   訪問者数:11867533(今日:576/昨日:2047)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/04(Sat) 08:48 仏滅(戊子) 旧暦 5/6 月齢 4.6
>
> 仏滅ね、やる気がでる
>
> 雹ならぬ苔玉降れる屋根尖る
>
> Old & Wise
> http://www.youtube.com/watch?v=5AFzWiD26tA
>
> 老賢、老犬、老健、陋見、耄碌
>
> どうも老じれば頭も体も固くなる
>
> このdana winnerの名前を失念してそのイメージを探してHelene Fischerに出会い見まがう朝の数時間
>
> やにパワーフルでアバズレたなあ!
>
> でもどこか面影がある
>
> 10年来くらいみてないあいだに随分としをとったなあ
>
> 1984年生まれにして38歳か?
>
> それにしちゃあ、もう50代のやりて婆にみえる、おかしいゾ〜!
>
> Helene Fischer-The Powerr off Love
> http://www.youtube.com/watch?v=EKHQGuUH8U8
>
> Helene Fischer Live Full Concert 2021
> http://www.youtube.com/watch?v=DSkrCd2tSGw
>
> VincentやOldmanをうたっておったな、とほうぼう検索すれどもでてこず
>
> 若いころの画像を検索すると似ているようでもあるが違うようでもある
>
> 狐に摘ままれた感じの朝
>
> Vincent Van Gogh's The Starry Starry Night
>
> いくら過去ログ検索してもStarry Starry NightのHelene Fischerはでてこない
>
>
> しかし、突然でてきた
>
> Oldman→Old & Wiseでdana winnerの名前、Annexの過去ログ
>
> 安心、安心、腑に落ちて
>
> 1965年生まれか、ぜんぜん年上なのに可憐にしてオボコめいたあの楚々とした風情
>
> 1984年生まれがやりて婆で、面影はにていても、動画になるとどうも、まあ、母子の差が逆転
>
> 天国へ下る階段地蜘蛛跳ぶ
>
> 煉獄へ上る階段星降れり
>
> Vincent Van Gogh's The Starry Night: Great Art Explained
> http://www.youtube.com/watch?v=wk9L1N9bRRE
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やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54932] 老じれば頭も体も固くなる 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/04(Sat) 09:41  

おはぬほかANNEX−Ω   訪問者数:11867533(今日:576/昨日:2047)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/04(Sat) 08:48 仏滅(戊子) 旧暦 5/6 月齢 4.6

仏滅ね、やる気がでる

雹ならぬ苔玉降れる屋根尖る

Old & Wise
http://www.youtube.com/watch?v=5AFzWiD26tA

老賢、老犬、老健、陋見、耄碌

どうも老じれば頭も体も固くなる

このdana winnerの名前を失念してそのイメージを探してHelene Fischerに出会い見まがう朝の数時間

やにパワーフルでアバズレたなあ!

でもどこか面影がある

10年来くらいみてないあいだに随分としをとったなあ

1984年生まれにして38歳か?

それにしちゃあ、もう50代のやりて婆にみえる、おかしいゾ〜!

Helene Fischer-The Powerr off Love
http://www.youtube.com/watch?v=EKHQGuUH8U8

Helene Fischer Live Full Concert 2021
http://www.youtube.com/watch?v=DSkrCd2tSGw

VincentやOldmanをうたっておったな、とほうぼう検索すれどもでてこず

若いころの画像を検索すると似ているようでもあるが違うようでもある

狐に摘ままれた感じの朝

Vincent Van Gogh's The Starry Starry Night

いくら過去ログ検索してもStarry Starry NightのHelene Fischerはでてこない


しかし、突然でてきた

Oldman→Old & Wiseでdana winnerの名前、Annexの過去ログ

安心、安心、腑に落ちて

1965年生まれか、ぜんぜん年上なのに可憐にしてオボコめいたあの楚々とした風情

1984年生まれがやりて婆で、面影はにていても、動画になるとどうも、まあ、母子の差が逆転

天国へ下る階段地蜘蛛跳ぶ

煉獄へ上る階段星降れり

Vincent Van Gogh's The Starry Night: Great Art Explained
http://www.youtube.com/watch?v=wk9L1N9bRRE




やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54931] 天使の小便 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/02(Thu) 16:29  

そみふおけANNEX−Ω   訪問者数:11864766(今日:440/昨日:800)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/02(Thu) 16:18 友引(丙戌) 旧暦 5/4 月齢 2.6

井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー
http://www.youtube.com/watch?v=WCSeiSOaHxY

堕天使の小便臭き羽根布団

Queen - Bohemian Rhapsody (Live Aid 1985)
http://www.youtube.com/watch?v=vbvyNnw8Qjg

神、救世主、聖霊、天使、堕天使、悪魔、蛇、龍、いろいろあって退屈しのぎの物語

Angelina Jordan - Bohemian Rhapsody - America's Got Talent: The Champions One - January 6, 2020
http://www.youtube.com/watch?v=qF0JV28vgLw

神に遺伝子があるか?

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54930] Too far away 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/02(Thu) 15:33  

ひもおちみANNEX−Ω   訪問者数:11864752(今日:426/昨日:800)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/02(Thu) 15:00 友引(丙戌) 旧暦 5/4 月齢 2.6 日も堕ち未

海を見ていた午後
http://www.youtube.com/watch?v=TSItLSHG0bQ

ガタピシと風の吹き抜く初夏の部屋

天上天下吹き抜く風や初夏の午後

あるとおもえばある

ないとおもえばない

Too far away 水越恵子
http://www.youtube.com/watch?v=eOkhSpbxsoE

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54929] 聖にして崇高、而して俗にして劣悪、悲愴なる皮相の2象限証言正眼、ゴミ捨場Re:[54928] 果ては寝て待て夢幻の彼方 Re:[54927] 神から人までの混濁物を試験管にとり溶水とよく攪拌ホモジェナイズして禁忌を破ってとうとうやってしまった実験の夢Re:[54926] 地蜘蛛土蜘蛛屋敷蛇 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/02(Thu) 15:06  

んもてとるANNEX−Ω   訪問者数:11864729(今日:403/昨日:800)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/02(Thu) 15:00 友引(丙戌) 旧暦 5/4 月齢 2.6 ん?もてとる

Angela Mccluskey _ Don't Explain
http://www.youtube.com/watch?v=qds3LjRKprk

百千鳥空は空なり屑拾

> らいあゆらANNEX−Ω   訪問者数:11864718(今日:392/昨日:800)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/02(Thu) 13:28 友引(丙戌) 旧暦 5/4 月齢 2.6 雷歩夢裸
>
> 朝曇る大地の底ゆ土鳩啼く
>
> 四六時中只管夢中
>
> 覚夢一如
>
> 神人一如
>
> 即非無し
>
> ましてや絶対矛盾的自己同一なんぞは迷妄亦迷妄にして用捨無し
>
> > のれよさこANNEX−Ω   訪問者数:11861324(今日:255/昨日:704)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/31(Tue) 05:00 赤口(甲申) 旧暦 5/2 月齢 0.6
> >
> > 昨日が朔月だったのね。残念。
> >
> >
> > 一青窈 - ハナミズキ
> > http://www.youtube.com/watch?v=TngUo1gDNOg
> >
> > その朔月の月も見えぬ雨もよいの涼しい朝の小鳥の声のなか
> >
> > 今朝の目覚めは金輪際永年の禁忌の実験
> >
> >
> > 真っ白な無限大のバックボーンに縦横に十字架の黒線を伸ばす
> >
> > 縦は垂直権力構造のメモリ
> >
> > 横は水平時間構造のメモリ
> >
> > この2次元事象分析にかけるサンプルは神から人までの混濁物
> >
> > 試験管にとり溶水とよく攪拌ホモジェナイズして
> >
> > 神さま人間さまを不敬ながらスポイトで吸い上げて
> >
> > 一滴一滴十字架の交点へ垂らす
> >
> > サーッと上下左右にサンプルが・・・
> >
> > というところで
> >
> > 禁忌を破ってとうとうやってしまった実験の夢が醒めてしまった
> >
> > 果て、結果はだうなったのだろう?
>
> 果ては寝て待て夢幻の彼方

屑の幾許、ゴミ捨場

場、電場か磁場か、はたまた火事場か

霊場もあれば斎場、屠場、火葬場、相場、愁嘆場、賭場、墓場、見取場、はてしなくもある

ConcentrationCamp天地獄

場の中に界を立てるか

界の中に場を立てるか

歴史そのものでもあり生き方そのものでもある

ゴミ捨場

横は水平時間構造のメモリの始原の天地創造と終末の最期の審判に続く救世主来迎においては縦軸垂直権力構造のメモリの極端へ神人分離し神が跳ね上がり、中間の戦時には神人癒着してこれまた跳ね上がり、奴隷たる人は奈落に没落、この繰り返しが一神教世界の歴史

ゴミ

ゴミとみればゴミ、聖なる崇高とみれば聖にして崇高、而して俗にして劣悪、悲愴なる皮相の2象限証言正眼


> > > ゆやれひろANNEX−Ω   訪問者数:11856635(今日:450/昨日:1166)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/26(Thu) 08:43 大安(己卯) 旧暦 4/26 月齢 25.3 悲哀去
> > >
> > > 中島美嘉 『雪の華』 MUSIC VIDEO
> > > http://www.youtube.com/watch?v=mF5Qq2YheTg&list=RDmF5Qq2YheTg&start_radio=1
> > >
> > > 水洗の渦へ吞まれし地蜘蛛かな
> > >
> > > むかしの小さくも瀟洒な木造住宅には天井では鼠が駆け回り、庭では鶏が草を啄み、老木の桜には青大将・・

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54928] 果ては寝て待て夢幻の彼方 Re:[54927] 神から人までの混濁物を試験管にとり溶水とよく攪拌ホモジェナイズして禁忌を破ってとうとうやってしまった実験の夢Re:[54926] 地蜘蛛土蜘蛛屋敷蛇 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/02(Thu) 13:59  

らいあゆらANNEX−Ω   訪問者数:11864718(今日:392/昨日:800)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/02(Thu) 13:28 友引(丙戌) 旧暦 5/4 月齢 2.6 雷歩夢裸

朝曇る大地の底ゆ土鳩啼く

四六時中只管夢中

覚夢一如

神人一如

即非無し

ましてや絶対矛盾的自己同一なんぞは迷妄亦迷妄にして用捨無し

> のれよさこANNEX−Ω   訪問者数:11861324(今日:255/昨日:704)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/31(Tue) 05:00 赤口(甲申) 旧暦 5/2 月齢 0.6
>
> 昨日が朔月だったのね。残念。
>
>
> 一青窈 - ハナミズキ
> http://www.youtube.com/watch?v=TngUo1gDNOg
>
> その朔月の月も見えぬ雨もよいの涼しい朝の小鳥の声のなか
>
> 今朝の目覚めは金輪際永年の禁忌の実験
>
>
> 真っ白な無限大のバックボーンに縦横に十字架の黒線を伸ばす
>
> 縦は垂直権力構造のメモリ
>
> 横は水平時間構造のメモリ
>
> この2次元事象分析にかけるサンプルは神から人までの混濁物
>
> 試験管にとり溶水とよく攪拌ホモジェナイズして
>
> 神さま人間さまを不敬ながらスポイトで吸い上げて
>
> 一滴一滴十字架の交点へ垂らす
>
> サーッと上下左右にサンプルが・・・
>
> というところで
>
> 禁忌を破ってとうとうやってしまった実験の夢が醒めてしまった
>
> 果て、結果はだうなったのだろう?

果ては寝て待て夢幻の彼方

> > ゆやれひろANNEX−Ω   訪問者数:11856635(今日:450/昨日:1166)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/26(Thu) 08:43 大安(己卯) 旧暦 4/26 月齢 25.3 悲哀去
> >
> > 中島美嘉 『雪の華』 MUSIC VIDEO
> > http://www.youtube.com/watch?v=mF5Qq2YheTg&list=RDmF5Qq2YheTg&start_radio=1
> >
> > 水洗の渦へ吞まれし地蜘蛛かな
> >
> > むかしの小さくも瀟洒な木造住宅には天井では鼠が駆け回り、庭では鶏が草を啄み、老木の桜には青大将・・

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54927] 神から人までの混濁物を試験管にとり溶水とよく攪拌ホモジェナイズして禁忌を破ってとうとうやってしまった実験の夢Re:[54926] 地蜘蛛土蜘蛛屋敷蛇 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/31(Tue) 05:31  

のれよさこANNEX−Ω   訪問者数:11861324(今日:255/昨日:704)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/31(Tue) 05:00 赤口(甲申) 旧暦 5/2 月齢 0.6

昨日が朔月だったのね。残念。


一青窈 - ハナミズキ
http://www.youtube.com/watch?v=TngUo1gDNOg

その朔月の月も見えぬ雨もよいの涼しい朝の小鳥の声のなか

今朝の目覚めは金輪際永年の禁忌の実験


真っ白な無限大のバックボーンに縦横に十字架の黒線を伸ばす

縦は垂直権力構造のメモリ

横は水平時間構造のメモリ

この2次元事象分析にかけるサンプルは神から人までの混濁物

試験管にとり溶水とよく攪拌ホモジェナイズして

神さま人間さまを不敬ながらスポイトで吸い上げて

一滴一滴十字架の交点へ垂らす

サーッと上下左右にサンプルが・・・

というところで

禁忌を破ってとうとうやってしまった実験の夢が醒めてしまった

果て、結果はだうなったのだろう?


> ゆやれひろANNEX−Ω   訪問者数:11856635(今日:450/昨日:1166)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/26(Thu) 08:43 大安(己卯) 旧暦 4/26 月齢 25.3 悲哀去
>
> 中島美嘉 『雪の華』 MUSIC VIDEO
> http://www.youtube.com/watch?v=mF5Qq2YheTg&list=RDmF5Qq2YheTg&start_radio=1
>
> 水洗の渦への吞まれし地蜘蛛かな
>
> むかしの小さくも瀟洒な木造住宅には天井では鼠が駆け回り、庭では鶏が草を啄み、老木の桜には青大将、屋敷蛇とて大事にし、来客があって鶏をひねる父に泣いてとめたものだが、いまどきの殺伐たる鉄骨住宅では風呂にしろ便器にしろ絨毯にしろ地蜘蛛がせいぜいで、かの温泉の長逗留の座敷のやうにワサワサと音を立てて百足がよって来ることもなくまことに殺漠たるもので久しぶりに昼寝の覚め際の夢はかの地天楼、最上階が地上一階でそこにどこか遠い街からやってくる特急が止まり、その地上から滝のごとく谷底に落下する地天楼の最下層は冷たい深海への潜水基地でその途中の階ごとに勝って使っていい大部屋の洋室和室の数々と途中の処々に贔屓の食堂、寿司屋、レストラン、住み着く住人もおって、新しい住人家族のこどもに気に入られ、得意の深海ダイビングで深海魚を突いてあがってくるとまとわりつくこどもに引かれてご家族に会いにいけば、品の良い母親がでてきて、老爺婆も深海潜水場につれていってもらいたい、もう先もながくないから、こどもたちに肩を揉ませてやりたい、嗚呼、それがいいと、突然あふれる両眼の涙涙、うちの父母への肩もみも十分にできなかったからと、わけのわからぬ涙に泣き濡れて目が覚めたら、本当に目が涙で濡れていて、小便に立ったら地蜘蛛を便器の渦に流してしまった。
>
> 一体、なんなんだらう?
>
> 片道1414歩で鯨図書館にいって、ながく待たせてどうせ来てやしないとたかをくくった分厚いエリヤードの世界宗教史を数ヶ月ぶりに手にして、素手で掴んでもってかえるわけにもまいらず、親切な職員が無印良品の紙袋に入れてくれて、重い腕を振り振り歩けば、たばこの毒で弱った足腰の動きも鈍く、同年のおばさん、婆さんにも歩き遅れて・・それにしてもリクエスト中のブルックハルトの世界史的考察はまだこない。ウクライナ戦争考に資したいのだが・・

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54926] 地蜘蛛土蜘蛛屋敷蛇 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/26(Thu) 18:38  

ゆやれひろANNEX−Ω   訪問者数:11856635(今日:450/昨日:1166)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/26(Thu) 08:43 大安(己卯) 旧暦 4/26 月齢 25.3 悲哀去

中島美嘉 『雪の華』 MUSIC VIDEO
http://www.youtube.com/watch?v=mF5Qq2YheTg&list=RDmF5Qq2YheTg&start_radio=1

水洗の渦への吞まれし地蜘蛛かな

むかしの小さくも瀟洒な木造住宅には天井では鼠が駆け回り、庭では鶏が草を啄み、老木の桜には青大将、屋敷蛇とて大事にし、来客があって鶏をひねる父に泣いてとめたものだが、いまどきの殺伐たる鉄骨住宅では風呂にしろ便器にしろ絨毯にしろ地蜘蛛がせいぜいで、かの温泉の長逗留の座敷のやうにワサワサと音を立てて百足がよって来ることもなくまことに殺漠たるもので久しぶりに昼寝の覚め際の夢はかの地天楼、最上階が地上一階でそこにどこか遠い街からやってくる特急が止まり、その地上から滝のごとく谷底に落下する地天楼の最下層は冷たい深海への潜水基地でその途中の階ごとに勝って使っていい大部屋の洋室和室の数々と途中の処々に贔屓の食堂、寿司屋、レストラン、住み着く住人もおって、新しい住人家族のこどもに気に入られ、得意の深海ダイビングで深海魚を突いてあがってくるとまとわりつくこどもに引かれてご家族に会いにいけば、品の良い母親がでてきて、老爺婆も深海潜水場につれていってもらいたい、もう先もながくないから、こどもたちに肩を揉ませてやりたい、嗚呼、それがいいと、突然あふれる両眼の涙涙、うちの父母への肩もみも十分にできなかったからと、わけのわからぬ涙に泣き濡れて目が覚めたら、本当に目が涙で濡れていて、小便に立ったら地蜘蛛を便器の渦に流してしまった。

一体、なんなんだらう?

片道1414歩で鯨図書館にいって、ながく待たせてどうせ来てやしないとたかをくくった分厚いエリヤードの世界宗教史を数ヶ月ぶりに手にして、素手で掴んでもってかえるわけにもまいらず、親切な職員が無印良品の紙袋に入れてくれて、重い腕を振り振り歩けば、たばこの毒で弱った足腰の動きも鈍く、同年のおばさん、婆さんにも歩き遅れて・・それにしてもリクエスト中のブルックハルトの世界史的考察はまだこない。ウクライナ戦争考に資したいのだが・・

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54925] 無題 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/26(Thu) 10:53  

反復の反復で老いてゆく

[54749] 供花に事欠く盆の尽きRe:[54748] 反復の医療行為に従事しちょるむきにおいては、反復こそもっとも儲かる、実入りの良い、ビジネスなれば、これは医療に限らず、企業の暖簾や事業分野の強みなれば、・・・ああ、眠くなってきた。Re:[53730] 絶対的な満足はどこまで達し得られるものか、Re:[53727] 一切のものが、わたしの小宇宙的な浄福のなかで、ふしぎに浄化されていた、その浄福がみずからのなかであらゆるものを、不愉快なことも、退屈きわまる人の言葉も、目に映る忌わしいものの姿も、どれほど宿命的ないさかいをも、浄化したのであった。しかしこの瞬間に、わたしが絶望のどん底にころび落ちたことだけは確かである。Re:[53726] なんじ、わたしの幸福なる自己よ、おまえの物悲しいせせらぎによって救われ解放されていたのだ!Re:[53719] 舞台は隠れた個人の影絵芝居にふさわしい。Re:[53715] 最後の審判の日に、自分自身で出頭することもできずに、気のきいた目論見とか、その日一日だけの決心とか、半時間きりの計画とかなどを身代わりに出頭させる人間Re:[53712] 現実的な姿が目の前にありながら、それが見えないのである。Re:[53710] インテレサントなものに心ひかれぬ娘は反復を信ずる、時を経てそうなった娘に栄誉あれ。Re:[53709] 女の誠実さというものは偉大なものだ、とりわけ男の要求をその厚意に感謝しながら懇ろに断る場合にそうである。Re:[53708] 関係はできたが実現の見込みはないという場合には、思いやりが最大の侮辱である。Re:[53706] わたしは分娩の苦しみよりも受胎の快楽のほうが好きなのだ。Re:[53703] 神よ、すべての男をそういう誠実さから守りたまえ!Re:[53699] 自分自身の死刑判決書Re:[53698] 汝(いまし)へのあこがれ絶えずRe:[53692] わたしの目には、ただ冗談としか見えない、しかもしばしばなんとも愚かしい冗談なのだ。Re:[53690] もし反復ということがなかったら、人生とはそもそも何であろう?Re:[53677] ぼくの苦痛と悩みには名前がありません。Re:[53676] ・・・Re:[53674] わが沈黙の共犯者よ! 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2018/08/18(Sat) 21:44

もせつらたANNEX−Ω   訪問者数:11111056(今日:1163/昨日:3456)2018/08/18(Sat) 20:34 友引(壬午) 旧暦 7/8 月齢 6.7 上弦 TimeVXRS/ZaeroRed119/23.7


Samuel Barber - Agnus Dei [HD]
http://www.youtube.com/watch?v=AiuC_CaObbI


けふはまことに感動的でええ日の反復であったから、忘れぬうちに・・

反復、反復とはいえ、一期一会、感動のない反復では単なるマンネリ

一期一会、感動のある反復こそ反復の名に値ふ

さて、花枯れの夏、近所の農家にも花がない、駅前の花屋は閉店して、開いているのは葬儀屋と提携の大手の花屋ばかりで・・供花に事欠く盆の尽き

ああ、根気が続かぬ、眠い、眠ければ眠る


> えあのうしANNEX−Ω   訪問者数:11013546(今日:903/昨日:379)2018/07/01(Sun) 14:17 かうかう暑いとついつい出不精に・・加えて加齢もすすめば疲労や傷害回復にも時間がかかる
>
> 20180625 0km カッと突然の酷暑でこれは老人にはやばいと・・
> 20180626 梅雨もあけたか、雨も降らぬ気配なれば好きなマスターXライトを持ち出し69km/av25.4
> 20180627 MXL継続で墓前の紫陽花差し替えのため家の周りの紫陽花を伐って背負えば背中虫だらけ(紫陽花を伐って背負えば虫だらけ)だらけだらけて94/24.7
> 20180628 目覚めれば視力低下と棒の声、だうもいけねえ見えるもんも見えず、聞けるもんも聞こえず、発声は喉で棒になってつっかえる→リハビリ落胆MXLで118/25.7   
> 20180629 梅雨明け宣言で気分一新MXL継続68/24.7 五日目にして空気が甘くなってきたか・・
> 20180630 土曜なれば張り切って閉鎖支度中のとんかつやめぐりで・・
>       KogaMiyata FPcarbolite 38/23.0
> EddyMerckx SLX/Spox 70/23.8
> Cncorde SLX/ProtonIdea 27/24.8 計135km
>
> Julie London ‎– I've Got A Crush On You
> http://www.youtube.com/watch?v=AWtxJl-mwqY
>
> このI've Got A Crush On YouはJulie London ‎の歌いが最高
>
> さて、反復のめずらい記事に触発されて・・
>
> 反復はニュースにもならん、豚ジャーナリズムの忌むところで、新規性、珍奇性に賭ければ視聴率も発行部数もあがらぬ。したがって、反復ちうもんは、個人や社会の基本中の基本で基礎にあるんもんぢゃけんど、おうおうにして看過され意識に登ってこない。
>
> すっかすながら、さきの「[54747] 大まかにプロットすれば・・人類死滅、豚蔓延・・豚利に反する情報は豚秘匿・・豚利に利する情報は豚公開Re:[54742] われわれは豚ではありません、われわれもまた国民市民であって、真面目に日々国民市民のために邁進しておるのです。人さまざま ですわの。Re:[54741] この世のは豚天国です、豚医療、豚税務、豚警察へようこそ♪ 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2018/06/28(Thu) 08:58 」のやうなところにもこの反復は大いに関係しちょるわけで・・
>
> はやいはなしが、われわれの身体に宿る命の維持も反復によるんぢゃが、反復の研究なんぞは、つまらん、新規性も珍奇性もねえと大方の優秀な医学者諸君は見向きもせず、先端分野の研究に殺到するんぢゃが、まあ、千三つの確率の世界で、なかなか成果があがらぬ、あがらぬとならば待遇もポジションも危機にさらされ、最先端の優秀頭脳研究者といえども、不安定な時限雇用で、そこにデータ捏造そのたの不正のおこる温床が指摘されちょるけんど・・
>
> 一方でつまらぬ反復の研究なんぞをせんでも反復の医療行為に従事しちょるむきにおいては、反復こそもっとも儲かる、実入りの良い、ビジネスなれば、これは医療に限らず、企業の暖簾や事業分野の強みなれば、・・・
>
>
>
>
>
>
>
> > えわつるてANNEX−Ω   訪問者数:2326481(今日:106/昨日:597)2011/01/31(Mon) 05:34
> >
> > > Lizz Wright - The First and Last to Love Me (K. Hanrahan)
> > > http://www.youtube.comtt/watch?v=E8Dp21T8c7c&feature=BF&list=QL&index=25
> > > ・・・反復の恋こそ唯一の幸福な恋なのだ。・・反復は日々のパンである、それは祝福をもって満腹にさせてくれる。・・・彼は反復を楽しみながら、心静かにわが道を歩む。ほんとうに、もし反復ということがなかったら、人生とはそもそも何であろう?
> >
> > > Edyta Gorniak - Hello (Gala RMF FM) [Live] HQ DIVA
> > > http://www.youtube.com/watch?v=AWsesrdS1Jg&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=26
> > > ・・・次から次へと新しいものに打ち興じさせて魂を柔弱にしてしまうあらゆる果敢(はか)ないもの、目新しいものに、それからそれへと心を奪われることを、誰がこいねがうであろうか?反復、これが現実なのだ、人の世の厳粛さなのだ、・・
> >
> > > Lizz Wright's Version of 'Hey Mann'
> > > http://www.youtube.com/watch?v=_Wp8-ahXVFI&feature=BF&list=QL&index=31
> > 恋するものはよく恋の甘い不安を詩人の言葉に託して吐き出しながら歓喜に酔うものだ・・・
> > >     わが古きゆり椅子に
> > >       立ち返りくる若き日の夢
> > >     女性(おみな)らの太陽(ひ)と照り映ゆる
> > >       汝(いまし)へのあこがれ絶えず
> >
> > > ・・・始めるときにおそろしく大股に歩いたために、彼は人生を飛び越してしまったのだ。・・・
> >
> > > Frank Sinatra - Only the Lonely
> > > http://www.youtube.com/watch?v=bef_s1Bhn7o&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=59
> > > 彼女は彼を詩人に仕上げてしまったのだ、だからつまり、彼女は自分自身の死刑判決書に署名してしまったのだ。
> >
> > > Kenny Rogers - Lady
> > > http://www.youtube.com/watch?v=Tj_NjLBPotQ&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=11
> > > 諦めることをしないで男にうるさくつきまとい、それが真実に男を愛していることの証明だなどと自惚れるほど利己的な女があるとしたら、そういう女の一生の任務はまことに安易なもので、誠実だという名誉と疚しからぬ良心を、同時にまたごく上品に洗練された恋愛までも、わけなく享受できるだろう。神よ、すべての男をそういう誠実さから守りたまえ!
> >
> > > Vera Lynn - As Time Goes By
> > > http://www.youtube.com/watch?v=S8F9NzVuIuA&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=1
> > > わたしはレタスが好きだが、いつも芯だけしか食べない、葉は豚にやるものだとわたしは思っている。わたしは分娩の苦しみよりも受胎の快楽のほうが好きなのだ。
> >
> > > It's Over-Gato Barbieri
> > > http://www.youtube.com/watch?v=ksmLewp4vf8&feature=BF&list=QL&index=4
> > > 男を欺き誘惑するのは軽蔑すべきことである、しかし、あなたはわたしの理想ではなかったのだと説明して男をいいくるめたり、あなたは詩神にすぎなかったのだといって男をなだめたり、自分を悪者にしないばかりか立派な逃げ道までもこしらえて男を見捨ててしまうというのは、さらに軽蔑すべきことである。男をくどく経験を多少とも積んだものなら、それくらいのことはわけなくやってのけるだろう。せっぱつまって男のほうでもその申し出に応ずるだろう。こうして首尾よく逃げおおせたうえに、しかも正直な人ということになる、親切な人ということにさえなる。しかしあとになってみると、だまされていたことを知っている男よりもいっそう深い傷を、その男は心に負っているのである。だからどんな恋愛関係においても、関係はできたが実現の見込みはないという場合には、思いやりが最大の侮辱である。エロス的な目をもちしかも臆病でない女なら、思いやりをもたないということが、男の体面を保ってやるための残された唯一の方法だということを、容易に理解するだろう。
> >
> > > Right Here Waiting - Richard Marx
> > > http://www.youtube.com/watch?v=Zilog7d523w&feature=BF&list=QL&index=9
> > > わたしは娘のすることならなんでも赦すことができるのだが、娘が恋をしながら恋の使命をとり違えるのだけは、どうにもゆるせない。娘の恋が献身的でないなら、その娘は女でなくて野郎なのだ。・・女の誠実さというものは偉大なものだ、とりわけ男の要求をその厚意に感謝しながら懇ろに断る場合にそうである。女のそういう誠実さはいつも測り知れず、理解しがたい。恋する男が、どんなに苦しくとも、怒りの言葉をひとことも女に浴びせることなく、かえって女をだまして、自分を欺くとはけしからん男だと思っている女の思い違いを強めてやるという、より深刻な復讐に甘んずるだけのユーモアを失わずにいるとしたら、この場面は実に愉快なものになることだろう。
> >
> > > tell him... celine dion / barbra streisand
> > > http://www.youtube.com/watch?v=wB_vjpRhLxM
> > > 「N.Nさんはいい人だけど、退屈だわ。ところがF.Fさんったら、あの人とってもおもしろくって、いかすわよ。」かわいい娘の口からこういう言葉を聞くたびに、わたしはいつも思うのである。「よくも恥ずかしくないものだ、若い娘がそんなことを口にするなんて、なんて情けないことだろう。」男がインテレサントなものに迷い込んだとき、救い出してくれるものは娘のほかにないではないか。それだのに、そういうことを口にするのは、罪を犯すことではないか。当の男がインテレサントなことなどできない人間であるなら、その男に向かってそれをせよと要求するのは、思いやりのないことであるし、あるいはまた、男がインテレサントなことのできる人間であるなら、そしたら・・・・・・・・、なぜかといえば、若い娘というものは、インテレサントなものを誘い出すことをしないようにこそ、つねに慎むべきものだからだ。そういうことをする娘は、イデーからみて、いつも損をする。インテレサントなものはけっして反復されないからである。インテレサントなものを求める娘は、みずからそこにおちいる罠となる。インテレサントなものに心ひかれぬ娘は反復を信ずる、そういう生まれつきの娘に栄誉あれ。時を経てそうなった娘に栄誉あれ。
> >
> > > Diana Krall Love Is Where You Are
> > > http://www.youtube.com/watch?v=vByMcoYgjaY&feature=BF&list=QL&index=2
> > > 多少とも想像力をもった青年なら、一度は芝居の魔力にとらえられたことがあるにちがいない。あの人工的な現実のなかへ自分もともにまき込まれて、まるで二重人みたいに、そこでもうひとりの自分自身が動くのを見、語るのを聞き、自分自身を自分自身に可能なだけのあらゆる種類の人物に扮装させ、しかもそのどれもがまた一個の自己であるというふうであってみたいという願いをいだいたことがあるにちがいない。こういう欲望があらわれるのは、もちろんまだ若いうちのことである。ただ想像力がだけが目覚めて個性を夢みていえ、その他の能力はすべてまだ安らかに眠っている。そういう想像力によって自己が見られると、個人は現実的な姿ではなく影でしかない、もっと適切にいうと、現実的な姿が目の前にありながら、それが見えないのである。それだから個人は、ただ一つの影を投げるだけでは満足できずに、そのどれもが自分に似ていてそのときそのときに自分自身である権利を平等にもっているようなさまざまな影を投げるのである。
> >
> > > I´m thru with love - Diana Krall and Hollywood divas
> > > http://www.youtube.com/watch?v=ivF2ZTxV81Q&feature=mfu_in_order&list=UL
> > > しかしこの影の存在も満足を求める、それが自己の生を全うするだけの時を与えられなかったとしたら、それは人間にとってけっして好ましいことでない。しかしまた、個人が見当ちがいをして、影の存在のなかを迷いつづけながら生きつくしてしまったとしたら、それは哀れな、あるいは滑稽なことだ。そういう人間がそれでほんとうの人間であるなどと自惚れるなら、それはちょうど最後の審判の日に、自分自身で出頭することもできずに、気のきいた目論見とか、その日一日だけの決心とか、半時間きりの計画とかなどを身代わりに出頭させる人間が不死の要求をするのと同じように、まことに心もとないことだ。何事もそれぞれ適当な時におこなわれることが肝心なのだ。すべては若いときにその時をもっている、そして若いときにその時をもったことは、また後でその時を得るものだ。年長者にとって、その生涯のうちに、何か思い出して笑わずにいられぬような過去をもっているということは、何か涙をさそう過去をもっているのと同じように健康なことなのだ。
> >
> > > "Who knows where the time goes" - Nina Simone
> > > http://www.youtube.com/watch?v=wZa3XsHA6UU&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=4
> > > 山里で明けても暮れても、うまずたゆまず同じ主題(テーマ)の風が奏でているのを聞いていると、ついそれに誘われて、しばしその不完全さを忘れ、人間の自由のたゆみなさと確かさを象徴するかに思われてうれしくなることがある。するとつい忘れられてしまうのだが、いまこの山々のあいだをおのが住み家として幾年も吹き渡っている風は、かつては行き暮れし旅人としてこの土地へきたのである、そして心を乱して荒れ狂いながら峡谷のあいだを突き分け、洞窟の中に突き入り、或るときは自分でもはっと驚いて跳び退くような金切り声を張り上げたかと思うと、或るときはわれわれから逃げ出したくなるようなうつろな吼え声を立て、或るときはどこからでてくるのか自分にもわからぬような嘆きの調べを奏でたかと思うと、或るときは風みずからが恐れをなしてこのあたりに足をとどめたものかどうかとしばし疑いためらうような底知れぬ不安の溜息を吐き、或るときはまた浮かれはしゃいで抒情的な囃し唄を歌い、こうしてついに自分の楽器に習熟してしまって、これらすべての共鳴音をメロディーにまとめあげ、それをいま明けても暮れても変わりなく奏でているのである。それと同じように、個人の可能性もそれみずからの可能性のなかをさまよい歩きながら、或るときはこの可能性を、また或るときはあの可能性を発見する。しかし個人の可能性は単に聞かれることを欲するばかりではない、それは風のように吹きすさぶばかりではなく、また形を成そうとするのだ、だからそれは聞かれると同時にまた見られることをも欲する。個人の可能性は、だからそのどれをとってみても、音を発する影である。この隠された個人は、悪意の小ざかしい囁きに耳をかさないと同じように、仰々しく喚きたてる感情を信じない、悲嘆のやるせない溜息を信じないが、また同じように、歓喜の極みに沸き立つ叫び声も信じない。個人はただ情熱をもって見そして聞こうと欲する、しかし、注意あれ、自己みずからを、なのだ。けれども、個人は自己みずからをほんとうに聞こうとは欲していないのだ。そんなことはできるものではない。それができれば、その瞬間に雄鶏が鳴く、そして薄明の姿どもは逃げ去り、夜の声は沈黙する。これら薄明の姿どもが踏みとどまっているかぎり、われわれはまったく別な領域に、一切のものが責任の気づかわしげな監視の目を浴びて不安を覚えながら行なわれるところに、つまり、悪魔的なものの国にいるのである。だから、ほんとうの自己の印象を受けずにいられるように、隠れた個人は、あの薄明の姿どものような、こだますることのない言葉のかすかなざわめきのような、かりそめのはかない環境を求める。このような環境が舞台なのだ。だからこそ、舞台は隠れた個人の影絵芝居にふさわしい。
> >
> > > Jon Hassell - Amsterdam Blue
> > > http://www.youtube.com/watch?v=dz40YrNBje4&feature=autoplay&list=QL&index=3&playnext=3
> > > わたしの忘れがたい保母よ、わたしの父の庭づたいに流れてゆく小川に住むなんじつかまえがたい水の精(ニンフ)よ、おまえはおまえ自身のことだけに心を使っていたけれど、それでもいつも子供の遊びに加わり遊び相手になってくれた!なんじ忠実なる慰安者よ、おまえは幾歳を経てなおおまえの無垢な純粋さを持ちつづけている。わたしがすでに老いさらばえてしまったのに、おまえはちっとも年をとってはいない。なんじ安らかな水の精(ニンフ)よ、人間に倦み、わたし自身に倦んで憩いのためにわたしが永遠を必要としたとき、悲嘆にくれてわたしが忘却のために永遠を必要としたとき、そのたびごとにいつもわたしはおまえのところに逃がれていった。人間たちが永遠を時間と同じようにせわしないものにし、時間よりももっと空恐ろしいものにしてわたしに拒もうとしたものを、おまえはわたしに拒まなかった。そういうとき、わたしはおまえの傍らに身を横たえ、わたし自身から逃がれて、頭上の広い広い蒼空へ消えていった、そして眠りをさそうおまえの囁きに、わたし自身を忘れたものだ!なんじ、わたしの幸福なる自己よ、わたしの父の庭づたいに流れゆく小川に住むなんじ足早の生よ、わたしは投げ捨てられた旅杖にも似た姿でおまえの傍らに身を横たえてはいたが、おまえの物悲しいせせらぎによって救われ解放されていたのだ!
> >                                
> > > She Was Too Good to Me
> > > http://mp3.xalo.vn/bai-hat/chet-baker/she-was-too-good-to-me/6b6a58f
> > > ある朝のこと、起き上がると珍しく気持ちが良かった。この快感は、比類を絶して、午前中ずうっとだんだん高まっていった。かっきり1時に、わたしは絶頂に達して、めまいがするほどの極限にいるのを感じた。それはもはや快感の測度計では、詩の温度計でさえも、表示されないほどの高度であった、体は地上的な重みを失っていた、体をもっていないかのようであった。あらゆる機能は満ち足りて働き、どの神経も自己自身に、また全体との調和に喜びを味わい、また一つ一つの脈拍は有機体全体を震動させて瞬間の快楽を思い出させ、それを感じさせるばかりだったから。わたしの歩みは漂うごとくであった、しかしそれは空気を切って地上を離れる鳥の飛翔とはちがって、稲穂の上を吹くわたる風の波、憧憬に酔える海のうねり、夢みる雲の滑走のごとくであった。わたし自身が海の深い底のように、ひとりを楽しむ夜の沈黙のように、反響(こだま)することのない独白にも似た真昼の静寂(しじま)のように、冴えわたっていた。あらゆる情緒が美しい調べを奏でて共鳴しながらわたしの魂の中でやすらいだ。想念は次々と湧き出てきた、あらゆる思想が、祝福の威儀をこらして、押しよせてきた、世にも愚かしい思いつきも、世にも豊かなイデーも。あらゆる印象は来る前にすでに予感されていた、だからそれはわたし自身のうちで目を覚ました。全人世がわたしに愛をかたむけているもののようであった、一切のものが、わたしの存在に触れて運命をはらみながら、打ち震えた。わたしのうちにあるすべてのものは前兆であった。そして一切のものが、わたしの小宇宙的な浄福のなかで、ふしぎに浄化されていた、その浄福がみずからのなかであらゆるものを、不愉快なことも、退屈きわまる人の言葉も、目に映る忌わしいものの姿も、どれほど宿命的ないさかいをも、浄化したのであった。さきにもいったが、かっきり1時に、わたしは最高潮に立っていた、わたしはそれが極限だと予感した。そのとき突然、わたしの一方の目が少しかゆくなりはじめた。それは睫毛だったか、それとも毛屑か塵だったか、わたしは知らない。しかしこの瞬間に、わたしが絶望のどん底にころび落ちたことだけは確かである。
> >
> > バーンスタイン:マーラー・復活 終楽章4/4
> > http://www.youtube.com/watch?v=Au8qHVoUAUg&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=24
> >
> > これは、わたしと同じ高みに登ったことのある人なら、この高みに立って同時に、そもそも絶対的な満足はどこまで達し得られるものか、という原則的な問題に頭を悩ましたことのある人なら、誰にでも容易に理解できることであろう。
> >
> > > > わが沈黙の共犯者よ!名前こそありませんが、それでもおそらくはぼくは、あなたにとってつねに何ものかであるだろうと思います。そしていかなる場合にもかわらぬあなたの忠実な友です。
> > > >                                  敬具
> >
やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54924] 泥は天より降って来るRe:[54923] ポーの黒猫 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/26(Thu) 10:44  

There Will Never Be Another You
http://www.youtube.com/watch?v=npdo8YZG2Y0

泥は天より降って来る

ケルヒャー、ホースが蛇口に合わないのよ

たすかに最近の蛇口は異形が多い

運び去られた洗濯機の蛇口、なんとか捻じ込んでバンドの十字をマイナスで締めて止めたが一向にうんともすんとも

泥は天より降って来る

その泥が通路に落ち、通路の泥が階段に

踏み段はもとより、横溝すら泥泥で、踏み段の縦板に泥の垂跡

垂迹なれば神様も泥化

大屋根に降った鳥の糞に交じった種が栄養過多で粒粒が成長しボーロ菓子のごとくなり雨に崩れて泥水と化す

その泥だらけの階段を登る気分の悪さ

ならば、高圧水で吹き飛ばそう

一念発起、上半身裸で、高圧銃を構え

眼前に虹がたつ

まことによくお散る、落ちるが、飛沫がたまらぬ

泥だらけの一日が終わり

鶯は去り、ハナミズキも散って、皐月の枝を刈るシルバーセンターの電動ノコギリの音

感性は少年時代から鈍化し、黒猫の恐怖も今は昔

神秘も神秘ならず

神も仏もおわしませぬ

おわしませぬとはいえ、おわしてもさしつかえない

悪魔もおわしませぬとはいえ、おわしてもさしつかえない

なれば超越の全能も今は昔

憂鬱のどん底の底抜けも今は昔

なれば、なれば、いかにすんべえか?

> ひあえさり ANNEX−Ω   訪問者数:11856440(今日:255/昨日:1166)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/26(Thu) 08:43 大安(己卯) 旧暦 4/26 月齢 25.3 悲哀去
>
> La Califfa - Yo Yo Ma ( Ennio Morricone )
> http://www.youtube.com/watch?v=a0TM4eshYFw
>
> 今や妻も娘も亡き父の家に移り、独り残されて自転車の鉄屑と車輪の残骸とは言わぬ、現役で乗れる山に囲まれ、大きな食卓は階上の書斎より降ろし来る古書の山が整然と列をなす、その一冊を取り出し収めつつ、読むべきか読まぬべきか、読めば恐ろしい、少年時代の少年探偵団の江戸川乱歩にうながされ若き日に読んで恐怖の虜になったポーの「黒猫」、ゾッとして以来、猫が嫌いになり、黒猫は悪魔の化身と道々でも避けた日々、その黒猫に壮年時代に世話になり、アラブのCAT、ロゴが黒猫で、黒猫はアラブでは神聖な動物、気味が悪いといっても、少年時代から20年も経てば、郷に入れば郷に従え、黒猫勤めで思いもよらぬ幸運に恵まれ、猫嫌いも帳消しになって、アラブ時代に生まれた長女が小学生になって下校時にドブから拾ってきた子猫、飼ってもいい?ど〜ぞ、と飼えば青い瞳の白猫で長じてまるでグレースケリー、恩寵のケリー、亡母の好きなケリー、白いスピッツ、血を吐いて毒殺された翌日に泥棒に入られて亡父の背広多数などを盗まれた犠牲のグレイスケリー、以来の白い犬ならぬ猫で、人間なら百歳をゆうに超える長寿を全うした生涯で一度も階下の地上に降り立つこともなく、このいまはだだっ広い中に其処彼処狭しと段ボールの罪あがった自転車部品、古書の倉庫の一郭の藤棚のサイドテーブルの上に鎮座まします錦の骨壺、黒猫の思い出、ポーとボードレールを取り出し、読むべきか読まざるべきか、トービーオアノットトービー、跳べ跳べと、たばこ2日NonSmoke明けの10本目にして意を決して読めば一気に突き抜けて、少年時代の恐怖、おそれおののき、もなく、なんだか、希薄な気迫で、ああ、そんなもんに呪縛の少年時代を思いやり、11本目に火をつけて、猫感慨に耽った次第
>

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54923] ポーの黒猫 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/26(Thu) 09:13  

ひあえさり ANNEX−Ω   訪問者数:11856440(今日:255/昨日:1166)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/26(Thu) 08:43 大安(己卯) 旧暦 4/26 月齢 25.3 悲哀去

La Califfa - Yo Yo Ma ( Ennio Morricone )
http://www.youtube.com/watch?v=a0TM4eshYFw

今や妻も娘も亡き父の家に移り、独り残されて自転車の鉄屑と車輪の残骸とは言わぬ、現役で乗れる山に囲まれ、大きな食卓は階上の書斎より降ろし来る古書の山が整然と列をなす、その一冊を取り出し収めつつ、読むべきか読まぬべきか、読めば恐ろしい、少年時代の少年探偵団の江戸川乱歩にうながされ若き日に読んで恐怖の虜になったポーの「黒猫」、ゾッとして以来、猫が嫌いになり、黒猫は悪魔の化身と道々でも避けた日々、その黒猫に壮年時代に世話になり、アラブのCAT、ロゴが黒猫で、黒猫はアラブでは神聖な動物、気味が悪いといっても、少年時代から20年も経てば、郷に入れば郷に従え、黒猫勤めで思いもよらぬ幸運に恵まれ、猫嫌いも帳消しになって、アラブ時代に生まれた長女が小学生になって下校時にドブから拾ってきた子猫、飼ってもいい?ど〜ぞ、と飼えば青い瞳の白猫で長じてまるでグレースケリー、恩寵のケリー、亡母の好きなケリー、白いスピッツ、血を吐いて毒殺された翌日に泥棒に入られて亡父の背広多数などを盗まれた犠牲のグレイスケリー、以来の白い犬ならぬ猫で、人間なら百歳をゆうに超える長寿を全うした生涯で一度も階下の地上に降り立つこともなく、このいまはだだっ広い中に其処彼処狭しと段ボールの罪あがった自転車部品、古書の倉庫の一郭の藤棚のサイドテーブルの上に鎮座まします錦の骨壺、黒猫の思い出、ポーとボードレールを取り出し、読むべきか読まざるべきか、トービーオアノットトービー、跳べ跳べと、たばこ2日NonSmoke明けの10本目にして意を決して読めば一気に突き抜けて、少年時代の恐怖、おそれおののき、もなく、なんだか、希薄な気迫で、ああ、そんなもんに呪縛の少年時代を思いやり、11本目に火をつけて、猫感慨に耽った次第

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54922] 西田幾多郎の賛歌にして傘下の西谷啓治や高坂正顕、みんな禅だのなんだのとはいっておるが、その背骨は救世教の毒に重篤中毒 そして今や、かの大惨事から80年経って、ぞろ若松の「霊性の哲学」末木文美士らの「死者と霊性ーーー近代を問い直す」岩波新書 2021年 などを見るに、ぞろ大拙西田の霊性「共同体」復活で「世界征服」 征服とはいわんも、地上の国々の上に天上の霊性「共同体」構築 井筒も大川周明の代筆をして、イスラームが地上の国々を覆って普及したその範を取って霊性「共同体」構築を目したかも云々という議論 危ないね 危険だね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/22(Sun) 09:16  

しろふていANNEX−Ω   訪問者数:11852218(今日:764/昨日:1645)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/22(Sun) 08:00 先勝(乙亥) 旧暦 4/22 月齢 21.3

昨今のおっかけゴミ、斎藤鼠くんや魔境の預言者若松くんらの偶像よりも、狼の偶像はうがええかも

八王子多賀神社の狼の画像を発見
http://blog-imgs-12.fc2.com/k/o/m/komainumeguri/5a_20110523224621.jpg

秩父三峯神社の狛犬
http://oshanpo.com/img/2016/06/IMG_2107.jpg

やはり八王子のはうが、秩父より、余程の迫力

それにしても

三宝を敬え

三宝に帰依せよ

仏法僧、救世主教会神父牧師司祭教皇

この「平信徒の神学」菅円吉「キリスト教概説」日本YMCA同盟出版1955年 まことに反吐がでるが、反吐を堪えてお勉強

反吐ついでに妄想妄言すれば聖徳太子の時代、あの法隆寺の救世観音の頭頂の釘

あの時代の我が国にもこの「平信徒の神学」菅円吉「キリスト教概説」日本YMCA同盟出版1955年が渡来しちょって、それに毒された三宝を敬え三宝に帰依せよかもしれぬ

それは年代的、地理的にも、歴史的にも不可能でもなくんば、おかしくもない

アルカイックスマイルがリルクロード伝来ならば、ガンダーラのそこへは当然のこと救世主教もきておってそれが仏教に交じって渡来するのはまことに自然のなりゆき

かの秦氏広隆寺のisuraiの井戸もあるし、秦氏渡来とともに救世主教が渡来したという司馬遼太郎ほかの「お話」もそのロマンを超えて歴史的事態かもしれぬ

聖武天皇が華厳宗をもって、全国に国分寺、総国分寺の東大寺、華厳をもって統治をせんとしたことも、また、救世教の反映か

くだって、浄土宗、浄土真宗、弥陀の救いの救世主宗教

この親鸞の横超

これらを鈴木大拙なども日本的霊性の覚醒といっておるが、この弥陀の救いの宗教も典型的な救世主宗教

東本願寺(真宗大谷派)のトップは門首 で、西本願寺(浄土真宗本願寺派)は門主 で

それらの祖は一向宗で戦闘的

火葬場の火葬炉も門首門主は特別炉でいまだに京都火葬場の上に歴史的遺構として残っておって、皇室同様に門首門主を聖別しておった、系図的にもややこしい交差

黒船が来て、おそれおののき、ドイツ式の軍制、官僚制、その背後の背骨の思想構造たる救世主教を国家神道に移植して、帝国主義、日中、日ロ、大東亜戦争に突っ走った苦い歴史

まさに垂直的権力構造の救世主宗教にして統治構造の災いが顕著

さういうもんを霊性の覚醒となす大拙も、いささか救世主教に毒されておるわいの

ま、家族環境、国際環境よりしてやむをえぬ、とはいえ、相棒の西田幾多郎が八紘一宇や大東亜共栄圏のイデオローグになったのもよしなしとしない

西田幾多郎の賛歌にして傘下の西谷啓治や高坂正顕、みんな禅だのなんだのとはいっておるが、その背骨は救世教の毒に重篤中毒

そして今や、かの大惨事から80年経って、ぞろ若松の「霊性の哲学」末木文美士らの「死者と霊性ーーー近代を問い直す」岩波新書 2021年

などを見るに、ぞろ大拙西田の霊性「共同体」復活で「世界征服」

征服とはいわんも、地上の国々の上に天上の霊性「共同体」構築

井筒も大川周明の代筆をして、イスラームが地上の国々を覆って普及したその範を取って霊性「共同体」構築を目したかも云々という議論

危ないね

危険だね

まんだ狼の偶像のはうがまともだ






やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54921] <禁断の国>を遍歴 Re:[27879] 「この人をみよ」。悪魔で分別の分類の一例ですが・・おっかけゴミ、みこしかつぎ屑たぬき・・・・しゅう(セットでえんどー)、しけた、やちらにとんびおしゃべりー上智の偽善者田中裕ども、コレラのたぬきどもに加えるに于論茶=↑(▼▼)胡乱ちゃんならびにたぬき族いんぽ狆やねずみどもなどなど。ま、これらのおっかけゴミ、みこしかつぎ屑たぬきにして必死にゴミ収集車をつとめ、あわよくば担がれゴミならんとして、悪あがきしちょるんが、よみうりのたぬきこと谷内修三くんとその愛人山下ハルヨほか沢山の箸にも棒にかからん自称詩人どもでしょうね。ゴミ収集車、担がれゴミの本尊、神様・・・・おっかけゴミ、みこしかつぎ屑たぬきどもにおっかけられて悦にいっちょる『海程』キンス兜太ほか、各種宗匠ども、ならびにねずみ講増殖中の朝日新聞の可笑しい狆くんこと大岡信くん、その二番煎じのネットのねずみ講シュの清水哲男およびその愚弟昶くんら凡百詩人ども。Re:[27869] 屑二切れRe:[27868] しあわせなやつら 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/22(Sun) 07:41  

てるめせうANNEX−Ω   訪問者数:11852200(今日:746/昨日:1645)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/22(Sun) 06:40 先勝(乙亥) 旧暦 4/22 月齢 21.3

なるべく抵抗のあるもんを!

とは、思えど、救世主教に毒されたもん、救世主教の神学由来の哲学思想、その最たるもんは、本家西欧よりも本邦の「哲学者」もろもろの反省亡き妄言、思想小僧、構造に狂れるのも飽き飽きなれば、西欧において「異端」たるもんのはうが、まんだマシとばかりに先勝、早寝の床に持ち込んだ

ニーチェ著 手塚富雄訳「この人を見よ」岩波文庫639‐6 1969年

を何度ぶりかペラペラめくれば、線引きにAnnex-Ω2005/6/11とあったので、それを過去ログで検索

17年振りの過去ログ引き出しに当時の問題意識は、世の宗匠詩人俳人を揶揄したものであるが、そういう弟子だの「おっかけ」だの盲目の追従者だなのなんだのも、目下の救世主教の追従者、その先入見の虜、奴隷批判にも通じるが、その幾許かを追加引用しておくことも、この17年前にあげつらわれた有象無象のいまは生死も不明なれば、冥福とご多幸を祈念すべく無駄でもあるまい



> ANNEX−Ω   訪問者数:182141(今日:144/昨日:314)
>
> > > とんび、りー、しゅう(セットでえんどー)、しけた、やちらに共通するのはいったいなんだろう?
>
> コレラのたぬきどもに加えるに于論茶=↑(▼▼)胡乱ちゃんならびにたぬき族いんぽ狆やねずみどもを加えねば遺憾。
>
> すなわち、東京新聞の田島力くん、モト欝の身や支局長の胡乱の達人おっけけ記者くん、いまや追っかけ能力の老化したため資料室の窓際で退職金と年金の増殖のために浮世風呂も閉鎖してひたすら忍ぶ毎日。
>
> それから、まあ、そういう于論茶=↑(▼▼)胡乱ちゃんならびにたぬきどもにおっかけられて悦にいっちょるねずみ講増殖中の朝日新聞の可笑しい狆くんこと大岡信くん、その二番煎じのネットのねずみ講シュの清水哲男およびその愚弟昶くん。
>
> さあ、さあ、そういうもんも、トーゼン大昔にもうお弁虚ー、あはは、お勉強すみの一説を切り出しておこう。ま、なあんも、こういう一説を切り出さんでも、馬鹿でもわかりたぬきでも葉っぱで物申すもんじゃが、たぬきとねずみにおいては、てめえでいっちょることさえなぬをいっちょってなぬをやっちょるんか、まるで、胡乱の限りじゃけん、云おうが読もうが聴こうが馬耳東風か鼠耳西風か、はたまた世風にくるくる狂う風見鶏か、宣教師に般若心経めいて、理解しちょるその口ぶりの裏でまるで豚の海水浴じゃわの。
>
> さて、豚さんへ海水。

ニーチェ著 手塚富雄訳「この人を見よ」岩波文庫639‐6 1969年

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

p8
わたしは新しい偶像を建てる者ではない。ただ古い偶像どもが、その粘土製の脚の値打ちを思い知ればいいのだ。<偶像>(これが「理想」に相当するわたしの用語だが)を<転覆すること>ーーーこのことが、すでに前からわたしの職業なのだ。・・・「真の世界」と「仮象の世界」と言われるものの種を明かせば、「真の世界」とは捏造された世界であり、「仮象の世界」といわれているのが現実の世界なのだ・・・理想という嘘が、これまで現実の世界にかけられた呪いであったのだ。人類そのものが、この嘘によって、その本能の奥底に至るまで、うそつきになり、にせものになってしまったのだーーーついには、
これこそはじめて人類に繁栄と未来と未来を獲得すべき高い<権利>とを確かにもたらすだろうと思われるほんものの諸価値とは逆の諸価値が崇拝されるに至ったのである。

p10
わたしがこれまで理解し、身をもって生きてきた哲学は・・・生存における一切の異様なものと疑わしげなものを摘発することであり、道徳によって従来追放されていた一切のものを救出することである。このように<禁断の国>を遍歴することによって得た長期間の経験から、わたしは、従来の道徳化と理想化との根源にあった諸原因を、世人にとっては好ましいであろう見方とはまったく違った見方で見ることを習得した。哲学者たちの<裏面史>、かれらのつくりだした偉大なもろもろの名称にからむ心理学が、わたしには明らかになった。ーーー一個の精神が、どれだけ真実に<耐える>か、どれだけ真実を<敢行>するか?これが、わたしには、ますます本来の価値基準になってきた。誤謬(ー理想への信仰ー)を生むのは盲目ではない、臆病である。


> (ニーチェ「この人をみよ」の冒頭、手塚富雄訳を少々お手入れ)
> p12『ここで語っているのは、狂信家えはない。ここで行われているのは「説教」ではない。ここで求められてのは信仰ではない。・・・・それは、どこかの「賢者」、「聖者」、「世界救済者」、その他のデカダンが、こういう場合に云いそうなこととは、まったく正反対に違っていることである・・・・・彼の語り方が違っているばかりではない、かれのあり方が違っているのである・・・
>
> 弟子たちよ、わたしはこれから独りとなってゆく。君たちも今は去るがよい、しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ。
>
> まことに、わたしは君たちに勧める。私を離れて去れ。・・・を拒め。いっそうよいことは・・・を恥じることだ。ぬんぬん・・・
>
> 何時までもただ弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの鼻環を
> むしり徒労としないのか。
>
> 君たちはわたしを敬う。すっかす、君たちの尊敬が覆る日が来ないとはかぎらないのだ。そのとき倒れるわたしの像の下敷きとならないやうに気をつけよ。・・
>
> 君たちはたわたしの信徒だ。だが、およそ信徒というものに何の意味があるのか。
>
> 君たちはまんだ君たち自身を捜し求めなかった。捜し求めぬうちにわたしを見出した。信徒はいつもそうなのだ!だから、信ずるというのんはつまらんことなのだ。
>
> いま、わたしは君たちに命令する、わたしを捨て、君たち自身を見出すことを。そして、君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこやう。』(ニーチェ「この人をみよ」の冒頭、手塚富雄訳を少々お手入れ)

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

> > > とんびとりーはリアルで見て話もしたが、このふたりに共通するのは「おっかけ」だった。それぞれが自分をほっぽりだして、ひたすら外部のそれぞれにウツツを抜かしている。それで、自分の所属する組織や自分の立っている場所に疑問ナゾは抱かない。
>
> これはなんもとんびとおしゃべりーくんに限らぬ。
>
> 「しゅう(セットでえんどー)、しけた、やちらに」も、コレラのたぬきどもに加えるに于論茶=↑(▼▼)胡乱ちゃんならびにたぬき族いんぽ狆やねずみどもにも共通する。
>
>
> > > しあわせなんだろうか。
>
> しあわせなんでしょう。己を喪失したほうがね。
>
> 自由という、自らの由を喪失し、「自由」を希求し、「自由」を自ら抹殺する奴隷としての幸せ。あはは。馬鹿みたい!

いまもむかしもおんなじだ


> > しけたとやちのふたりについては、いまのところ「かんがえるのも無駄」におもえる。
>
> ふんじゃらこたあ、あらへんでしょ。一派一からげじゃ。
>
> > ゴミといってはなんだから、屑くらいにしておく。
>
> ゴミでも屑でもリサイクルして利用する手はある。
>
> ま、これら、すなわち、于論茶=↑(▼▼)胡乱ちゃんならびにたぬきどものサンプルのゴミの分別を試みになせば、こうなるであらう。
>
> 札が辻に張り出した、ゴミの分別例。

むかしは詩人俳人のゴミの分別

今は、宗教、思想、哲学のゴミの分別

おなじだね



> おっかけゴミ、みこしかつぎ屑たぬき・・・・しゅう(セットでえんどー)、しけた、やちらにとんびおしゃべりー上智の偽善者田中裕ども、コレラのたぬきどもに加えるに于論茶=↑(▼▼)胡乱ちゃんならびにたぬき族いんぽ狆やねずみどもなどなど。
>
> ゴミ収集車、担がれゴミの本尊、神様・・・・おっかけゴミ、みこしかつぎ屑たぬきどもにおっかけられて悦にいっちょる『海程』キンス兜太ほか、各種宗匠ども、ならびにねずみ講増殖中の朝日新聞の可笑しい狆くんこと大岡信くん、その二番煎じのネットのねずみ講シュの清水哲男およびその愚弟昶くんら凡百詩人ども。
>
> ま、これらのおっかけゴミ、みこしかつぎ屑たぬきにして必死にゴミ収集車をつとめ、あわよくば担がれゴミならんとして、悪あがきしちょるんが、よみうりのたぬきこと谷内修三くんとその愛人山下ハルヨほか沢山の箸にも棒にかからん自称詩人どもでしょうね。
>
> ま、これは、悪魔で分別の分類の一例です。
>
> ゴミの分別も郷に入れば郷に従え、馬鹿の分別では役に立ちませんね。たとえばどちらでも落伍のご苦労さんとか西洋べったり翻訳家業の冬月海月くんとか。ま、他人の光で光る影みてえなもんどすの。
>
> さてさて、「ハンセン病文学全集」の作家諸君はどこに分類されるべきであらうかね?
>
> 都中央図書館に「狂気の歴史」を返さねばなりません。

それにしたって、フーコーのこれもさしたもんぢゃなかった

いまぢゃ、都立図書館からは直接貸し出しも受けられぬ、容易ならざる世になった

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54920] 人間への強制的罪の押し付けは、創世記にはじまるが、その押し付けられた罪を嬉々として受容すべく人々を教育、躾をしつづけた救世主教の罪はまことに絶大だね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/21(Sat) 10:06  

ゆめしふむANNEX−Ω   訪問者数:11850187(今日:378/昨日:778)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/21(Sat) 07:35 赤口(甲戌) 旧暦 4/21 小満 月齢 20.3

小満=万物が次第に成長して、一定の大きさに達して来るころ。『暦便覧』には「万物盈満(えいまん)すれば草木枝葉繁る」と記されている。

Chet Baker - Let’s Get Lost
http://www.youtube.com/watch?v=SKMKglJ8CZw

塩野七生「神々の代理人」中公文庫M5-2 昭和50年=1975年

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

過度の禁欲は、しばしば狂信の温床となる。なぜならば、禁欲生活によって肉体は瘦せ衰えるが、想像力はかえって活発となるからである。彼らは、その欲することをことごとく正義と信じ、その信ずることをことごとく神の啓示として現実に見るようになる。そして、神から選ばれた自分こそがそれを実現させねばならないという使命感が、彼らの心を燃えたたせてくるのだ。・・・・


善良な人々に、犯した罪の数々をあばきたて、彼らを地獄の恐怖につき落とすのは、キリスト教の最も得意とするやり方である。地獄への恐怖をかきたてながら、一方では天国へ行ける可能性をちらつかせるのも止めないのだから、ますます効果的というわけだ。

・・・・教会の戒律では、あらゆることが罪になったから、普通の人でも、その犯した罪を数えていくと三百年ぐらいの苦行を覚悟しなけらばならない。一生でも贖うことは不可能である。・・

教会は代償を認めた。苦行に相当する代償金を教会に収めれば、贖罪は認められるのである。これには、不動産による代償も可能であった。すなわち教会は信者の恐怖を利用して、その富と権力の不滅の源泉を確保したことになる。

・・・・

「自らの財布で支払えない者は、その肉体で支払うべきである」

・・・・

異教徒に対する聖戦に従軍した者には、贖罪が認められることになった。

・・・異教徒を殺せば、一切の罪は許されるのである。

金や土地で代償を果たすにはそれも十分は持たず、かといって自分の身体が笞で打たれるのも苦痛出汁というわけで、天国に行くことに絶望を感じていた善良な人々も、これには異存がなかった。まして、神がそれを望んでおられるのである。多くの人々は、その顔にことごとく罪を許された喜びに輝き、その心は異教徒と対決する勇気を感じていたのである。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

これは、十字軍の宗教的な熱狂を叙する序章であるが、その熱狂、狂信は後世まで連綿と無残な歴史につづく

この人間への強制的罪の押し付けは、創世記にはじまるが、その押し付けられた罪を嬉々として受容すべく人々を教育、躾をしつづけた救世主教の罪はまことに絶大だね




やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


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