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[54884] 蓋を開けてびっくり玉手箱 濛々と立ち上る毒煙、毒ガス 毒も使いようだから、あの猛毒をもって毒を解析する、さういうツールには毒も使える 使えるものはツールにはなすが、毒思想の枠組み、猛毒の檻は無視Re:[54882] その無罪無垢なるもんが、硬直した蛇と生きた蛇の絡みまくる檻に閉じ込めらているRe:[54881] 毒蛇の巣 安息角 安んじて息をして踏み入れば蟻地獄 蟻さんも餌になってしまう、民主主義にも、似て 絶妙な角度だ 蛇が安息角へ落ちたらどうなるか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/04(Mon) 15:09  

> Desperado (2013 Remaster)
> http://www.youtube.com/watch?v=aelpqWEBHR4
>
> > ををすれのANNEX−Ω   訪問者数:11788352(今日:238/昨日:1098) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/04(Mon) 08:47 赤口(丁亥) 旧暦 3/4 月齢 2.9
> >
> > 花蕾これは普賢か楊貴妃か   梵
> >
> > これは20年前くらいに大阪は造幣局さくら通り抜け句会で詠んでだもの
> >
> > ここ数日は蛇の夢ばかりみている
> >
> > 小蛇が群れているのは、かのフランス腐乱す蛇の群れで
> >
> > 今朝なぞは大蛇の頭が迫ってきて、これは恐竜に似ているなあ
> >
> > というところで目が覚めたが、べつに怖かったわけではない
> >
> > 蛇は大嫌いだ
> >
> > むっかし、むっかし
> >
> > 陶陶酒の役員に案内されて、研究所だか工場だかに行って、蛇の群れをみた
> >
> > もう、大量、大勢の蛇が檻では逃げ出してしまうから、あれはガラスのケースだったか群れ絡まってにょろにょろ
>
> これはケースなんてなまやさしいもんぢゃなくて床から天井まで一面の硝子張でそこに群れる蛇
>
> すっかす、陶陶酒ならぬ、あの松の山温泉の夏祭り、雪を後生大事にとっておいて、雪を積み上げた広場の中で火を焚いて、その火に焙られた蝮
>
> なまのマムシの瓶詰、まむし酒もあるが、一番よく効くのは、なんちゅうても焙り蝮
>
> 串に刺されて、あたかも閻魔か、一ツ橋の紋章のやうに、剣に蛇がからまる
>
> あれが商科大学の紋章、やっぱす、蛇ちうもんは、商科取引契約の象徴なんぢゃろかね
>
> 医学でも蛇が象徴のやうだ
>
> その蛇、焙られて串刺しになったもんを喰えば、こりゃあ、痺れる、効果覿面
>
> だから、21世紀のいまでも籠を背負ってまむし獲にいそむ
>
> して、風景、風景、思想の風景にして、歯槽膿漏、志操呪う
>
> 硬直した蛇、それが十字架のように縦横に組み合わされている檻
>
> その檻の一本一本の蛇、縦、横の棒蛇に柔らかい生きた蛇の群れが絡みつく
>
> なんか腐乱巣の思想の風景
>
> その檻の中には誰が閉じ込められているのか
>
> 原罪も知らぬ、無垢にして、無罪の生きた人間
>
> その無罪無垢なるもんが、硬直した蛇と生きた蛇の絡みまくる檻に閉じ込めらている
>
> 叡智から観れば、そういう風景ね
>
> 蛇の知でもって、閉じ込められて苦悶する無知なる人間

尾崎豊 − 僕が僕であるために
http://www.youtube.com/watch?v=1m8KITldcG0

> 蛇も神も消え失せよ
>
> 無になれ!
>
> といったとたん、檻の中の人間が空になる
>
> アダムはどこへいった?
>
> アダムはここにいる
>
> 空にして無知にして叡智に満ちたアダムがここにいる
>
> 宗教とは、思想とはそうありたいもんだね
>
> ぢゃなくんば、いつまでたっても、戦争だらうよ
>
> 口先で停戦、平和を唱えても、いつまでたっても対象化した知をもって、絶対他者を立てて、てめえの守護神を立てまくって、はてはてめえが神にして救世主と勘違いして、戦争を繰り返す
>
> あのナポレオン、ナポレオンに先立つギロチン腐乱巣革命、そのまえの宗教戦争、ばかぢゃねえのんか、宗教改革が改革にもなっていない、狭い檻の中での殺し合い、そして、ナチス、ネオナチから解放を唱える救世主ロシアのウクライナ侵攻、いつまでたっても、これだ!
>
> いいかげんに馬鹿たれめ!目を覚ませ!
>
> どこまで蛇の知の虜なんぢゃ
>
>
>
>
> > なんで蛇がこんなに大量にでてくるのか
> >
> > 眼前に
> >
> > デリダの「死を与える」「言葉にのって」
> >
> > ジル・ドゥルース「ニーチェ」
> >
> > J・デリダ、G・ドゥルース、J=F・リオタール P・クロソウスキー「ニーチェは今日?」
> >
> > ミシェル・フーコー「言葉と物」「自己のテクノロジー」「1926^84 権力・知・歴史」
> >
> > ほか、例のW・ジェイムス、オットー、エリアーデ、ハイデッガー、云々

フッサールからハイデッガー、それから云々

あの思想の変遷は笑ひ転げるばかり

呵々大笑

畢竟、現代になってもあのてーどなんぢゃっけん、そりゃ、それらのエピゴーネンは痴れちょるわいの

まったく悪魔の毒を脱皮でけておらん

あのオットーで古代からの毒が一層濃縮され

その猛毒を連綿とのみつづける

いやさ、毒ガスめいて吸わされる

牧野が井筒がオットー、エリアーデに言及せんのんは、血肉に化したからか、

といっておって、某もそうかもしらん、と思ったが

蓋を開けてびっくり玉手箱

濛々と立ち上る毒煙、毒ガス

毒も使いようだから、あの猛毒をもって毒を解析する、さういうツールには毒も使える

錬金術師、化学者の知恵

井筒にしても、あの西欧思想の根源、一神教の猛毒の解析にこの毒を使ったまでの話であって

毒煙を立ち昇せる、逆上せるオットーにもエリアーデにも、その思想の根底、枠組み、さう云うもんを忌諱したんではなかろうか

すくなくとも某は忌諱する

使えるものはツールにはなすが、毒思想の枠組み、猛毒の檻は無視

檻から放たれ、洟垂れ小僧の風景はこんなもんか

Charles Aznavour - La bohème (Official Lyrics Video)
http://www.youtube.com/watch?v=fVfnEyLOkrM



> > もう、積まれているものは蛇ばっかなのね
> >
> > 考えてみるまでもなく、いまここで生きている世間だって、いうまでもなくかのイスマイル「暗殺団」めいた構造のなかで営んでいる生活
> >
> > 知の構造にしたって、まあ、99%そんなもんであろう
> >
> > 毒されるのね、蛇に
> >
> > だから、蛇が群れて夢にでてくるのも無理はない、所以なしとしない
> >
> > すっかす、ひるがえって、そういう他化した「権力・知・歴史」をさかさまにしてみれば
> >
> > 奴隷宗教、奴隷権力、奴隷知、奴隷歴史の奴隷は一体誰なんぢゃろ
> >
> > 山の老人、権力の中枢
> >
> > それこそ、奴隷の奴隷たるもんではないか?
> >
> > 自己の解放すらでけへんで、ひたすら自己を奴隷化する奴隷宗教、奴隷権力、奴隷知・・
> >
> > 蛇が群れてひっ絡まって生殖するわけか
> >
> > 喩法
> >
> > 人類最大の喩法は人間が自己を投影した神を妄想の果てに肥大化させて「絶対他者」にして人間から引き離し、大蛇にして悪魔にまで仕立てあげてしまったことはないか
> >
> > 空
> >
> > 無
> >
> > とは宗教ではなからう
> >
> > 仏教は、人偏にム、と覚、書く
> >
> > ひとで無し
> >
> > ひとでなし
> >
> > 空や無に自己の投影のしようもない
> >
> > 聖も俗もない、空、無
> >
> > それがどうして宗教でありえようか
> >
> > それがどうして哲学でありえようか
> >
> > 有無を論ぜず
> >
> > 即非
> >
> > 一即多
> >
> > これをネットで引くと「しっしょくた」とでてくる
> >
> > なるほど
> >
> > 仏教はひとでなしの宗教で、虚無主義だと蛇の連中は1820年か、仏教がヨーロッパに知られて「誤解」され、その「誤解」もだんだんとけてきたようだが、いまだに虚無と勘違い現象学徒の小蛇もいるようだ
> >
> > 寒山拾得
> >
> > ひさしぶりに鴎外全集@66円で
> >
> > 肩書を並べまくる役人がくると笑い転げて逃げてしまう
> >
> > 30枚の名刺を並べる元大蔵事務次官へ以来色眼鏡をかけ帽子をかぶったようなもんだ
> >
> > 結社という結社から逃げまくったようなもんだ

これも檻から放たれ、洟垂れ小僧の風景はこんなもんか

地上の星 / 中島みゆき [公式]
http://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE

> > 畢竟、あの「暗殺団」のピラミッド、山の老人になれば、ピラミッドの人々の全重量が己が手にかかる
> >
> > その重みに耐えらるか
> >
> > そこで呻吟するのは、奴隷の頂点ではないか
> >
> > 30枚の名刺の肩書のいちいちに自分の人生が引き裂かれて、分刻みのスケジュールでいったいそいつの人生はどこにあるんだろ
> >
> > 卑弥呼だって、だうやって殺されたか
> >
> > 「暗殺団」の頂点に立ては、世界が暗黒したその責任を取らされるのはだれか
> >
> > その頂点への階段の各位において、その位階を脅かされる
> >
> > それこそ、「おののき」戦々恐々
> >
> > それで、人生を全うでけるか
> >
> > ばかやろ〜め!が!
> >
> > 目がどこについておるんぢゃ!
> >
> > 蛇が群れる
> >
> > 蛇だって目がある
> >
> > でもね、巣穴に潜り込む、真っ暗
> >
> > 嗅覚も発達しているか
> >
> > 臭いで獲物をかぎ分ける
> >
> > 卵が大好き
> >
> > そういえば、かの津軽の十三湊の神社へ登る荒れ道に竦んでた蛙がごろごろと落ちてきてその先に蛇がいた
> >
> > みんなここにむっかし書いたね
> >
> > もう、蛙は竦み切って手足も自由に動かぬ一個の蛙玉に化してごろごろ
> >
> > そこへ通りかかった我に蛙も救われた
> >
> > もっとも刹那のことゆえ、我去ったあと蛙は蛇の餌食になったかもしれない
> >
> > 「自己のテクノロジー」自己への配慮、フーコーもわざわざこの国まできて坐禅を組んだようだが、その後の言説をみてみても、毒はぬけておらぬ毒蛇
> >
> > 毒蛇の巣
> >
> > 安息角
> >
> > 安んじて息をして踏み入れば蟻地獄
> >
> > 蟻さんも餌になってしまう、民主主義にも、似て
> >
> > 絶妙な角度だ
> >
> > 蛇が安息角へ落ちたらどうなるか?

http://kotobank.jp/word/%E3%83%8E%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0-1576207

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54883] 蛇も神を脱皮せねばあかんRe:[54880] 東洋の悟りもやっぱりむこうぢゃ訳せばエンライトメント 啓蒙もエンライトメント 蒙を啓く、それが悟りか? やっぱり、暗黒は悪で、光は善というようなゾロアスター、神が最初に光あれといったからか? そこから、対象化の悪魔に魅入られ毒され、いまごろになって毒消し、毒抜き、解毒にやっき必死になっている哀れ、哀れ ルネッサンスになっても啓蒙になっても21世紀になっても、中毒症状はつづくのねRe:[54878] おめでたいのが多いから民主主義はやめられません ひひひ 民主主義万歳!暗殺者集団 解剖集団 解体集団 脱構築集団 んでも、暗殺して解体、脱構築したら、また構築して再生させねばならん イスマール派「暗殺集団」の永劫回帰 Re:[54877] デカルトが試みた如く自覚からでなければならない。 *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★ こういうことをやるから目がぐりぐりと痛み出すんだねRe:[54876] 材料買い揃えました。料理は? 同行二人 仏は仏 ただそれだけ ただそれだけのことが、メタメタむずかしいことでもないのにメッタヤタラと論理を超越してもでてこない 悪魔はどんな顔をしているか?救世主はどんな顔をしているか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/04(Mon) 14:07  



> > > フランスで毒に酩酊してふらつく最近のノマディズムだか彷徨だか脱構築だかしらんが、そういう追っかけの比ぢゃねえ
> > >
> > > > よいじゃあ、ないね
> > > >
> > > > メタは「超越」と・・
> > > >
> > > > やはり、こういうメタの「立」場でもやっぱり立って上へ上へと超えて越える、頭ごなし
> > > >
> > > > 横超ということはメタでもないらしい
> > > >
> > > > 水平跳び
> > > >
> > > > 同行二人
> > > >
> > > > お大師様と一緒に歩いて遍路道
> > > >
> > > > お大師様は仏さま
> > > >
> > > > 仏さまと一緒に歩いて同行二人
> > > >
> > > > 横超
> > >
> > > 私が仏になる
> > >
> > > ダメダメ
> > >
> > > 私と仏がまだ分裂している
> > >
> > > > 仏が仏になる
> > >
> > > 是もダメ
> > >
> > > いまだ即一になっていない
> > >
> > > > なる必要すらない
> > > >
> > > > 仏は仏
> > > >
> > > > ただそれだけ
>
> ただそれだけでもダメ
>
> 仏は仏
>
> 主語、述語が分裂しちょる
>
> なれば
>
> 仏
>
> まだダメ
>
> まだ仏を他化しちょる
>
> 私
>
> まだダメ
>
> まだ私を他化しちょる
>
> ぢゃあ
>
> 空
>
> 無

揺れる想い (What a beautiful memory 2007)
http://www.youtube.com/watch?v=nabLCezmvTE

同行二人に戻ろう

これのはうが、腐乱巣蛇宗教思想よりもありがたい

シャンソンもええが

> > > > ただそれだけのことが、メタメタむずかしいことでもないのにメッタヤタラと論理を超越してもでてこない
> > > >
> > > > なんでぢゃろ?
> > > >
> > > > 全てを対象化しているから、外に向けても、内に向かても
>
> オットーより前のW.ジェームスの「宗教的経験の諸相」でも回心
>
> conversion
>
> 回心というのは、目が外から内へぐるりとまわるか、内から外へ、それも「絶対他者」なる神へぐるりと回るか、ただそれだけのこと
>
> つまり「・・・を見る目」を「・・・への意識」といってもよい
>
> あくまで対象としてしかみれぬ、その思考、歯垢、入歯、施行、指向の型枠ね
>
> その型枠から抜け出ることのできない「宗教」「哲学」「学問」
>
> だからダメなんよ
>

> > > > ところで悪魔はどんな顔をしているか?
> > >
> > > ベロだしアインシュタイン
> > >
> > > > 救世主はどんな顔をしているか?
> > >
> > > ベロだしアインシュタイン
> > >
> > > ふざけてんぢゃねえのよ、真面目

> 混沌に耐え得ぬ、人間
>
> これがエリアーデも出だしだった
>
> 思い出すね
>
> 友人兜真徳が提供してくれた、あの音も光もない暗室
>
> 視覚、聴覚にうったえるもんはなにもない世界
>
> でも椅子があって、重力があるから、触覚はある、ゆえに身体感覚もある
>
> 棺桶の中で寝た経験
>
> 心地よく眠れる
>
> 目が対象認識の元凶だと目をぐりぬくこともなからうが
>
> 光、光と、わめくあの宗教も、また同じ陥穽におちっているのかもしれない
>
> あのメーソンのシンボルの目と定規とコンパスだって同じようなもんだ
>
> 東洋の悟りもやっぱりむこうぢゃ訳せばエンライトメント
>
> enlightenment
> 啓発, 悟り, 啓蒙, 啓蒙主義, 光明
>
> 啓蒙もエンライトメント
>
> 蒙を啓く、それが悟りか?
>
> やっぱり、暗黒は悪で、光は善というようなゾロアスター、神が最初に光あれといったからか?
>
> そこから、対象化の悪魔に魅入られ毒され、いまごろになって毒消し、毒抜き、解毒にやっき必死になっている哀れ、哀れ
>
> ルネッサンスになっても啓蒙になっても21世紀になっても、中毒症状はつづくのね

神も悪魔も蛇も消え失せろ!

硬直した棒蛇の檻を食い荒らす生きたにょろにょろ彷徨「ノマディズム」脱構築の蛇たちよ、この歌をよく聴け

負けないで (What a beautiful memory 〜forever you〜)
http://www.youtube.com/watch?v=NCPH9JUFESA

まあ、無理でっしゃろな

硬直した先祖蛇から生まれいでた生蛇ぢゃ、その知の遺伝はもとの蛇の血の遺伝なんぢゃっけん

蛇も神を脱皮せねばあかん



やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54882] その無罪無垢なるもんが、硬直した蛇と生きた蛇の絡みまくる檻に閉じ込めらているRe:[54881] 毒蛇の巣 安息角 安んじて息をして踏み入れば蟻地獄 蟻さんも餌になってしまう、民主主義にも、似て 絶妙な角度だ 蛇が安息角へ落ちたらどうなるか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/04(Mon) 13:09  

Desperado (2013 Remaster)
http://www.youtube.com/watch?v=aelpqWEBHR4

> ををすれのANNEX−Ω   訪問者数:11788352(今日:238/昨日:1098) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/04(Mon) 08:47 赤口(丁亥) 旧暦 3/4 月齢 2.9
>
> 花蕾これは普賢か楊貴妃か   梵
>
> これは20年前くらいに大阪は造幣局さくら通り抜け句会で詠んでだもの
>
> ここ数日は蛇の夢ばかりみている
>
> 小蛇が群れているのは、かのフランス腐乱す蛇の群れで
>
> 今朝なぞは大蛇の頭が迫ってきて、これは恐竜に似ているなあ
>
> というところで目が覚めたが、べつに怖かったわけではない
>
> 蛇は大嫌いだ
>
> むっかし、むっかし
>
> 陶陶酒の役員に案内されて、研究所だか工場だかに行って、蛇の群れをみた
>
> もう、大量、大勢の蛇が檻では逃げ出してしまうから、あれはガラスのケースだったか群れ絡まってにょろにょろ

これはケースなんてなまやさしいもんぢゃなくて床から天井まで一面の硝子張でそこに群れる蛇

すっかす、陶陶酒ならぬ、あの松の山温泉の夏祭り、雪を後生大事にとっておいて、雪を積み上げた広場の中で火を焚いて、その火に焙られた蝮

なまのマムシの瓶詰、まむし酒もあるが、一番よく効くのは、なんちゅうても焙り蝮

串に刺されて、あたかも閻魔か、一ツ橋の紋章のやうに、剣に蛇がからまる

あれが商科大学の紋章、やっぱす、蛇ちうもんは、商科取引契約の象徴なんぢゃろかね

医学でも蛇が象徴のやうだ

その蛇、焙られて串刺しになったもんを喰えば、こりゃあ、痺れる、効果覿面

だから、21世紀のいまでも籠を背負ってまむし獲にいそむ

して、風景、風景、思想の風景にして、歯槽膿漏、志操呪う

硬直した蛇、それが十字架のように縦横に組み合わされている檻

その檻の一本一本の蛇、縦、横の棒蛇に柔らかい生きた蛇の群れが絡みつく

なんか腐乱巣の思想の風景

その檻の中には誰が閉じ込められているのか

原罪も知らぬ、無垢にして、無罪の生きた人間

その無罪無垢なるもんが、硬直した蛇と生きた蛇の絡みまくる檻に閉じ込めらている

叡智から観れば、そういう風景ね

蛇の知でもって、閉じ込められて苦悶する無知なる人間

蛇も神も消えよ

無になれ!

といったとたん、檻の中の人間が空になる

アダムはどこへいった?

アダムはここにいる

空にして無知にして叡智に満ちたアダムがここにいる

宗教とは、思想とはそうありたいもんだね

ぢゃなくんば、いつまでたっても、戦争だらうよ

口先で停戦、平和を唱えても、いつまでたっても対象化した知をもって、絶対他者を立てて、てめえの守護神を立てまくって、はてはてめえが神にして救世主と勘違いして、戦争を繰り返す

あのナポレオン、ナポレオンに先立つギロチン腐乱巣革命、そのまえの宗教戦争、ばかぢゃねえのんか、宗教改革が改革にもなっていない、狭い檻の中での殺し合い、そして、ナチス、ネオナチから解放を唱える救世主ロシアのウクライナ侵攻、いつまでたっても、これだ!

いいかげんに馬鹿たれめ!目を覚ませ!

どこまで蛇の知の虜なんぢゃ




> なんで蛇がこんなに大量にでてくるのか
>
> 眼前に
>
> デリダの「死を与える」「言葉にのって」
>
> ジル・ドゥルース「ニーチェ」
>
> J・デリダ、G・デリダ、J=F・リオタール P・クロソウスキー「ニーチェは今日?」
>
> ミシェル・フーコー「言葉と物」「自己のテクノロジー」「1926^84 権力・知・歴史」
>
> ほか、例のW・」ジェイムス・」オットー、エリアーデ、ハイデッガー、云々
>
> もう、積まれているものは蛇ばっかなのね
>
> 考えてみるまでもなく、いまここで生きている世間だって、いうまでもなくかのイスマイル「暗殺団」めいた構造のなかで営んでいる生活
>
> 知の構造にしたって、まあ、99%そんなもんであろう
>
> 毒されるのね、蛇に
>
> だから、蛇が群れて夢にでてくるのも無理はない、所以なしとしない
>
> すっかす、ひるがえって、そういう他化した「権力・知・歴史」をさかさまにしてみれば
>
> 奴隷宗教、奴隷権力、奴隷知、奴隷歴史の奴隷は一体誰なんぢゃろ
>
> 山の老人、権力の中枢
>
> それこそ、奴隷の奴隷たるもんではないか?
>
> 自己の解放すらでけへんで、ひたすら自己を奴隷化する奴隷宗教、奴隷権力、奴隷知・・
>
> 蛇が群れてひっ絡まって生殖するわけか
>
> 喩法
>
> 人類最大の喩法は人間が自己を投影した神を妄想の果てに肥大化させて「絶対他者」にして人間から引き離し、大蛇にして悪魔にまで仕立てあげてしまったことはないか
>
> 空
>
> 無
>
> とは宗教ではなからう
>
> 仏教は、人偏にム、と覚、書く
>
> ひとで無し
>
> ひとでなし
>
> 空や無に自己の投影のしようもない
>
> 聖も俗もない、空、無
>
> それがどうして宗教でありえようか
>
> それがどうして哲学でありえようか
>
> 有無を論ぜず
>
> 即非
>
> 一即多
>
> これをネットで引くと「しっしょくた」とでてくる
>
> なるほど
>
> 仏教はひとでなしの宗教で、虚無主義だと蛇の連中は1820年か、仏教がヨーロッパに知られて「誤解」され、その「誤解」もだんだんとけてきたようだが、いまだに虚無と勘違い現象学徒の小蛇もいるようだ
>
> 寒山拾得
>
> ひさしぶりに鴎外全集@66円で
>
> 肩書を並べまくる役人がくると笑い転げて逃げてしまう
>
> 30枚の名刺を並べる元大蔵事務次官へ以来色眼鏡をかけ帽子をかぶったようなもんだ
>
> 結社という結社から逃げまくったようなもんだ
>
> 畢竟、あの「暗殺団」のピラミッド、山の老人になれば、ピラミッドの人々の全重量が己が手にかかる
>
> その重みに耐えらるか
>
> そこで呻吟するのは、奴隷の頂点ではないか
>
> 30枚の名刺の肩書のいちいちに自分の人生が引き裂かれて、分刻みのスケジュールでいったいそいつの人生はどこにあるんだろ
>
> 卑弥呼だって、だうやって殺されたか
>
> 「暗殺団」の頂点に立ては、世界が暗黒したその責任を取らされるのはだれか
>
> その頂点への階段の各位において、その位階を脅かされる
>
> それこそ、「おののき」戦々恐々
>
> それで、人生を全うでけるか
>
> ばかやろ〜め!が!
>
> 目がどこについておるんぢゃ!
>
> 蛇が群れる
>
> 蛇だって目がある
>
> でもね、巣穴に潜り込む、真っ暗
>
> 嗅覚も発達しているか
>
> 臭いで獲物をかぎ分ける
>
> 卵が大好き
>
> そういえば、かの津軽の十三湊の神社へ登る荒れ道に竦んでた蛙がごろごろと落ちてきてその先に蛇がいた
>
> みんなここにむっかし書いたね
>
> もう、蛙は竦み切って手足も自由に動かぬ一個の蛙玉に化してごろごろ
>
> そこへ通りかかった我に蛙も救われた
>
> もっとも刹那のことゆえ、我去ったあと蛙は蛇の餌食になったかもしれない
>
> 「自己のテクノロジー」自己への配慮、フーコーもわざわざこの国まできて坐禅を組んだようだが、その後の言説をみてみても、毒はぬけておらぬ毒蛇
>
> 毒蛇の巣
>
> 安息角
>
> 安んじて息をして踏み入れば蟻地獄
>
> 蟻さんも餌になってしまう、民主主義にも、似て
>
> 絶妙な角度だ
>
> 蛇が安息角へ落ちたらどうなるか?
>
>
>
>
>
>
>
>
>
>
>
>
>

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54881] 毒蛇の巣 安息角 安んじて息をして踏み入れば蟻地獄 蟻さんも餌になってしまう、民主主義にも、似て 絶妙な角度だ 蛇が安息角へ落ちたらどうなるか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/04(Mon) 09:48  

ををすれのANNEX−Ω   訪問者数:11788352(今日:238/昨日:1098) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/04(Mon) 08:47 赤口(丁亥) 旧暦 3/4 月齢 2.9

花蕾これは普賢か楊貴妃か   梵

これは20年前くらいに大阪は造幣局さくら通り抜け句会で詠んでだもの

ここ数日は蛇の夢ばかりみている

小蛇が群れているのは、かのフランス腐乱す蛇の群れで

今朝なぞは大蛇の頭が迫ってきて、これは恐竜に似ているなあ

というところで目が覚めたが、べつに怖かったわけではない

蛇は大嫌いだ

むっかし、むっかし

陶陶酒の役員に案内されて、研究所だか工場だかに行って、蛇の群れをみた

もう、大量、大勢の蛇が檻では逃げ出してしまうから、あれはガラスのケースだったか群れ絡まってにょろにょろ

なんで蛇がこんなに大量にでてくるのか

眼前に

デリダの「死を与える」「言葉にのって」

ジル・ドゥルース「ニーチェ」

J・デリダ、G・デリダ、J=F・リオタール P・クロソウスキー「ニーチェは今日?」

ミシェル・フーコー「言葉と物」「自己のテクノロジー」「1926^84 権力・知・歴史」

ほか、例のW・」ジェイムス・」オットー、エリアーデ、ハイデッガー、云々

もう、積まれているものは蛇ばっかなのね

考えてみるまでもなく、いまここで生きている世間だって、いうまでもなくかのイスマイル「暗殺団」めいた構造のなかで営んでいる生活

知の構造にしたって、まあ、99%そんなもんであろう

毒されるのね、蛇に

だから、蛇が群れて夢にでてくるのも無理はない、所以なしとしない

すっかす、ひるがえって、そういう他化した「権力・知・歴史」をさかさまにしてみれば

奴隷宗教、奴隷権力、奴隷知、奴隷歴史の奴隷は一体誰なんぢゃろ

山の老人、権力の中枢

それこそ、奴隷の奴隷たるもんではないか?

自己の解放すらでけへんで、ひたすら自己を奴隷化する奴隷宗教、奴隷権力、奴隷知・・

蛇が群れてひっ絡まって生殖するわけか

喩法

人類最大の喩法は人間が自己を投影した神を妄想の果てに肥大化させて「絶対他者」にして人間から引き離し、大蛇にして悪魔にまで仕立てあげてしまったことはないか





とは宗教ではなからう

仏教は、人偏にム、と覚、書く

ひとで無し

ひとでなし

空や無に自己の投影のしようもない

聖も俗もない、空、無

それがどうして宗教でありえようか

それがどうして哲学でありえようか

有無を論ぜず

即非

一即多

これをネットで引くと「しっしょくた」とでてくる

なるほど

仏教はひとでなしの宗教で、虚無主義だと蛇の連中は1820年か、仏教がヨーロッパに知られて「誤解」され、その「誤解」もだんだんとけてきたようだが、いまだに虚無と勘違い現象学徒の小蛇もいるようだ

寒山拾得

ひさしぶりに鴎外全集@66円で

肩書を並べまくる役人がくると笑い転げて逃げてしまう

30枚の名刺を並べる元大蔵事務次官へ以来色眼鏡をかけ帽子をかぶったようなもんだ

結社という結社から逃げまくったようなもんだ

畢竟、あの「暗殺団」のピラミッド、山の老人になれば、ピラミッドの人々の全重量が己が手にかかる

その重みに耐えらるか

そこで呻吟するのは、奴隷の頂点ではないか

30枚の名刺の肩書のいちいちに自分の人生が引き裂かれて、分刻みのスケジュールでいったいそいつの人生はどこにあるんだろ

卑弥呼だって、だうやって殺されたか

「暗殺団」の頂点に立ては、世界が暗黒したその責任を取らされるのはだれか

その頂点への階段の各位において、その位階を脅かされる

それこそ、「おののき」戦々恐々

それで、人生を全うでけるか

ばかやろ〜め!が!

目がどこについておるんぢゃ!

蛇が群れる

蛇だって目がある

でもね、巣穴に潜り込む、真っ暗

嗅覚も発達しているか

臭いで獲物をかぎ分ける

卵が大好き

そういえば、かの津軽の十三湊の神社へ登る荒れ道に竦んでた蛙がごろごろと落ちてきてその先に蛇がいた

みんなここにむっかし書いたね

もう、蛙は竦み切って手足も自由に動かぬ一個の蛙玉に化してごろごろ

そこへ通りかかった我に蛙も救われた

もっとも刹那のことゆえ、我去ったあと蛙は蛇の餌食になったかもしれない

「自己のテクノロジー」自己への配慮、フーコーもわざわざこの国まできて坐禅を組んだようだが、その後の言説をみてみても、毒はぬけておらぬ毒蛇

毒蛇の巣

安息角

安んじて息をして踏み入れば蟻地獄

蟻さんも餌になってしまう、民主主義にも、似て

絶妙な角度だ

蛇が安息角へ落ちたらどうなるか?












やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54880] 東洋の悟りもやっぱりむこうぢゃ訳せばエンライトメント 啓蒙もエンライトメント 蒙を啓く、それが悟りか? やっぱり、暗黒は悪で、光は善というようなゾロアスター、神が最初に光あれといったからか? そこから、対象化の悪魔に魅入られ毒され、いまごろになって毒消し、毒抜き、解毒にやっき必死になっている哀れ、哀れ ルネッサンスになっても啓蒙になっても21世紀になっても、中毒症状はつづくのねRe:[54878] おめでたいのが多いから民主主義はやめられません ひひひ 民主主義万歳!暗殺者集団 解剖集団 解体集団 脱構築集団 んでも、暗殺して解体、脱構築したら、また構築して再生させねばならん イスマール派「暗殺集団」の永劫回帰 Re:[54877] デカルトが試みた如く自覚からでなければならない。 *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★ こういうことをやるから目がぐりぐりと痛み出すんだねRe:[54876] 材料買い揃えました。料理は? 同行二人 仏は仏 ただそれだけ ただそれだけのことが、メタメタむずかしいことでもないのにメッタヤタラと論理を超越してもでてこない 悪魔はどんな顔をしているか?救世主はどんな顔をしているか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/01(Fri) 08:37  

さみめよらANNEX−Ω   訪問者数:11783963(今日:118/昨日:1509)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/01(Fri) 05:02 赤口(癸未) 旧暦 2/29 月齢 28.4先負(甲申) 旧暦3/1 月齢 29.4 新月 朔

朔というのはいいねえ

今朝は雨もあって、真っ暗

凶にも似て

自覚にも似て

> > とさねへとANNEX−Ω   訪問者数:11781513(今日:1107/昨日:757) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/30(Wed) 08:33 大安(壬午) 旧暦 2/28 月齢 27.4
> >
> > 今日は大安か、やだねえ
> >
> > 日曜日にもう咲き誇った桜堤をcyclingして人混みにまみれて以来、右目がぐりぐりして痛くてしようがない

五日目にして目のぐるぐるぐりぐりもやうやくおさまりつつある



> > すっかたねえから覚めたところで返さねばならんもんの、幾許かを

ついでに書架からひろってきたもんも

なにか目的をもって検索して借り出すもんとちゃうて、ぶらぶらあるって目についたもんをひろってくる

ゴミもあれば、ひろいものもある

> > > むいまうまANNEX−Ω   訪問者数:11779308(今日:703/昨日:1788)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/28(Mon) 11:50
> > >
> > > さてとん、そろそろ期日、返すもんも返さねばならぬ
> > >
> > > ヘイドン・ホワイト著 岩崎稔監訳「メタヒストリー」作品社 2017年
> > >
> > > この700頁に喃々とする書物
> > >
> > > いちいちが結構硬いから噛み砕き咀嚼して呑み込むのも大変で、下手をすると誤嚥になりかねない、読む


このヘイドン・ホワイト著 岩崎稔監訳「メタヒストリー」作品社 2017年もひろいもの

歴史コーナーに分厚く存在感のある新本がドンとあって、ひろってみたひろいもの


これを期限で返して、だうも似通ったテーマのもんをこんだあ、哲学コーナーからひろってきた

富田恭彦著「詩としての哲学 ニーチェ・ハイデッガー・ローティ」講談社選書メチエ 2020年

どうも、この講談社選書メチエ本は、二流本が多いようだ

かの斎藤鼠くんの斎藤慶典著「『東洋』哲学の根本問題あるいは井筒俊彦 講談社選書メチエ

ころほどにはひどくはないが、富田恭彦著「詩としての哲学 ニーチェ・ハイデッガー・ローティ」講談社選書メチエも、またまた、浅いのんね

宣伝文句だけは

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

人間の「理性」「知性」を最も重要な心の働きとする、プラトン以来の西洋哲学における真理探究型の思考、一方、イギリス・ロマン主義から始まり、「想像力」をすべての思考の根本と捉えるエマソン〜二−チェ〜ハイデッガー〜ローティへの思想の流れ、真理への接近を図る哲学から、開かれた思考を目指す哲学へ、理性主義の系譜を検証し、創造への新たな可能性を探る。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

なにかこのメチェ宣伝文句は斎藤慶典著「『東洋』哲学の根本問題あるいは井筒俊彦 講談社選書メチエのメチェ宣伝文句を想起させる

> > 裏表紙に大書してある広告をご披露しよう
> >
> > ああ、我もまた溝鼠の蔓延、溝鼠著作本の広告に随分一役買っている
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > 東洋哲学とは何か。インド・中国・日本の思想を指しているのか。
> > 井筒俊彦は個別研究の枠を超え、中近東やロシア、東南アジアにも視野を広げた全東洋的思想の根底にある哲学をつかみ、拓いていく。・・・・・・省略・・・・・・
> >
> > 言語哲学者、イスラーム哲学研究の権威・井筒が生涯をかけた「世界的な視野を具えた新たな哲学」はどの地点に到達したのか。
> > その哲学的営為の総体を受け止め、更に先にある問題を見極める
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > だってさ。
> >
> > わははは
> >
> > とわらわざるを得ぬ
> >
> > 誇大広告で消費者庁に告発しちゃおう

もう、講談社選書メチエのもんは、買わぬ、読まぬ、に限る

畢竟、というほどに畢竟でもねえが、簡単な皮相において

斎藤鼠くんが、井筒に凭れほどのベッタリではねえけんど、この富田もローティに凭れて・・

だうも文科系ちうのんは、なんか、誰かのテキストを与えられて、それを解読する、研究する、さういう思考トレーニングの結果、独創性が養われぬ、養われるむきもあらうが、おっかけ思考,歯垢、指向にして嗜好が肥大することもある

理科系においてはどうか

誰かさんの仮説、論文、実験を追試して、その先に進むにしても、文系ほどには、その誰かさんにベッタリちうことはない、あれば独自性に欠けたもんで、論文にさへならぬ

そこが、文系のトレーニングは甘いから、だうでもええような二流が流行るのんかもしれぬ

それにしても講談社選書メチエ の編集者の劣化、ちうよりは、これもまた文系おっかけトレーニングによってほとんどめくらに成り下がったもんが、商業的目玉ばかりが肥大して、内容の貧困さにもかかわらず広告バッカが肥大しているのかもしれない

世の読者を馬鹿にするのんもいいかげんにせいや

といっても、編集者も著者もばかにしているとさえおもっておらんで真剣なんだろね

そこが怖い

> > まあ、書評や紹介ぢゃ、核心をついたことも云えぬのであらうが、いかにも、書評だか研究にしても、皮相を撫でただけで、美味しくない
> >
> > 不味い
> >
> > 眼光裏に徹する趣がない
> >
> > ぺろぺろなめちゃあ、インテリブル、ぶる、ぶる
> >
> > ま、ノマディズムだか彷徨だか脱構築だかしらんが、そういう追っかけが多いね。


> 駱駝になれ!
>
> 驢馬になれ!
>
> > > メタとはなんだ?
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > メタ(meta-、 古希: μετὰ-) とは、以下の意味を持つ接頭辞である:
> > >
> > > §一般的な意味
> > >  §「あとに」という意味の古代ギリシャ語の接頭辞[1]。
> > >  §転じて「超越した」、「高次の」という意味の接頭辞で[2]、ある学問や視点の外側にたって見る事を意味する[1]。
> > >  §「変化」を意味する接頭辞。例えばmetamorphose(変化)、metabolism(代謝)などで用いられる[3]。
> > >
> > > 「ある学問や視点の外側にたって見る」の用例
> > > 「ある学問や視点の外側にたって見る」という意味はアリストテレスの著書『メタピュシカ』(形而上学)に由来しており[1]、哲学では他にも「メタ倫理学」、「メタ哲学」等の用例がある。
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★



> > 序論 歴史の詩学
> >
> > そう、貫くものは、詩
>
> 詩でとまったところがよろしい

> > いかにナラティブに語ろうが演劇、悲喜劇的、あるいは、イデオロギー的であらうが、そこを貫くく基底に詩の表現方法、喩法をみる
> >
> > これは面白いね、餌になる、栄養になる

だから「詩としての哲学」もひろってみたが、雲泥の差、それもホワイトより50年以上おくれてきて、ぜんぜん比較にもならん、「詩」について解析も統合もできておらん

ただの「想像力」賛歌にして、実践も、たぶん、体験、経験もない

こういうことは、斎藤鼠くんでも、あらわ

実践、体験、経験なくして、言葉だけで綴れば、そりゃあ、おのずから迫力がない

説得力も、読者、聴者を感動させることもない

> > 井筒の東洋哲学の共時的構造化論文、これがまさに詩であり交響曲であることはまえにも云った
> >
> > その詩と交響曲の表現方法、畢竟、表現せねば詩にも曲になりえぬ、そこの根っこをみる
> >
> > さういうことにも使える
> >
> > 井筒の神秘主義への切り込みは鉈でありながら剃刀的な鋭さもある
> >
> > その切り出した料理はまことに美味しい、栄養になる
>
> 体験、経験的に共感、共鳴、共振する

これは井筒が研究対象を対象としつつ、その対象を体験、経験的に共感、共鳴、共振するからにほかならない

その井筒の著作を読む対象としつつ、その対象を読者もまた体験、経験的に共感、共鳴、共振するからにほかならない

そこがなべて餌になるか、喰えるか喰えぬか、そこの差

> > ホワイトの剃刀が切り出したものはいわば方法論であってそのかぎりにおいてはキッチン用具に等しいが、それでも切れ味のある用具、包丁、それも姪の入ったとびきりの包丁で、その包丁で歴史家や歴史哲学者がいかにしてその包丁をつかっているか、その各論にいたれば、肉の味わいもあれば、サラダの味わいもある
>
> これは、黄泉として、うむ、読みとしての経験では納得できるが、体験的に共感、共鳴、共振するまでには、いたらぬ
>
> そこに違いがある

> > フランスで毒に酩酊してふらつく最近のノマディズムだか彷徨だか脱構築だかしらんが、そういう追っかけの比ぢゃねえ
> >
> > > よいじゃあ、ないね
> > >
> > > メタは「超越」と・・
> > >
> > > やはり、こういうメタの「立」場でもやっぱり立って上へ上へと超えて越える、頭ごなし
> > >
> > > 横超ということはメタでもないらしい
> > >
> > > 水平跳び
> > >
> > > 同行二人
> > >
> > > お大師様と一緒に歩いて遍路道
> > >
> > > お大師様は仏さま
> > >
> > > 仏さまと一緒に歩いて同行二人
> > >
> > > 横超
> >
> > 私が仏になる
> >
> > ダメダメ
> >
> > 私と仏がまだ分裂している
> >
> > > 仏が仏になる
> >
> > 是もダメ
> >
> > いまだ即一になっていない
> >
> > > なる必要すらない
> > >
> > > 仏は仏
> > >
> > > ただそれだけ

ただそれだけでもダメ

仏は仏

主語、述語が分裂しちょる

なれば



まだダメ

まだ仏を他化しちょる



まだダメ

まだ私を他化しちょる

ぢゃあ





> > > ただそれだけのことが、メタメタむずかしいことでもないのにメッタヤタラと論理を超越してもでてこない
> > >
> > > なんでぢゃろ?
> > >
> > > 全てを対象化しているから、外に向けても、内に向かても

オットーより前のW.ジェームスの「宗教的経験の諸相」でも回心

conversion

回心というのは、目が外から内へぐるりとまわるか、内から外へ、それも「絶対他者」なる神へぐるりと回るか、ただそれだけのこと

つまり「・・・を見る目」を「・・・への意識」といってもよい

あくまで対象としてしかみれぬ、その思考、歯垢、入歯、施行、指向の型枠ね

その型枠から抜け出ることのできない「宗教」「哲学」「学問」

だからダメなんよ

> > > 内も外もない
> > >
> > > 内外
> > >
> > > 内即外
> > >
> > > こういうのを「メタヒストリー」で
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > アイロニーという喩法に含まれるものとして、ホワイトは、たとえば「耳をつんざくような静寂」「真昼の暗黒」といった撞着語法・・・
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > して撞着語法とは
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > 撞着語法(どうちゃくごほう、英語: oxymoron)とは、修辞技法のひとつ。「賢明な愚者」「明るい闇」など、通常は互いに矛盾していると考えられる複数の表現を含む表現のことを指す。形容詞や連体修飾語、句、節などが、修飾される名詞と矛盾することとしては、形容矛盾(けいようむじゅん)とも言う。論理的には、「Aであって、かつ、not A」であるということはありえない(矛盾律)のにもかかわらず、そうであるかのように語ることである。狭い見方をすればつじつまがあわず、単なる誤謬にすぎないように見えるが、複雑な内容を簡潔に表現する修辞法として用いられている場合もある。
> > >
> > > (例いろいろ)
> > >
> > > 撞着語法の効果
> > > Edit-find-replace.svg
> > > この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2014年3月)
> > >
> > > 撞着語法を用いて、受け手に強い違和感を与えることで、言及している内容への興味を誘引したりすることができる。 また、敢えて矛盾した語を以って対象を説明することにより、対象への皮肉としての効果をもつ場合がある。 一方で、一見「深い意味や含蓄のある」ように見えて、内容の伴わない単なる言葉遊びに終始してしまう恐れがあるため、注意が必要である。
> > >
> > > 文学では、シェイクスピアが『マクベス』のなかで「きれいは汚い、汚いはきれい・・・」という表現を用いたのが有名。
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > ところで悪魔はどんな顔をしているか?
> >
> > ベロだしアインシュタイン
> >
> > > 救世主はどんな顔をしているか?
> >
> > ベロだしアインシュタイン
> >
> > ふざけてんぢゃねえのよ、真面目


> > 底本:「西田幾多郎哲学論集3[#「3」はローマ数字3、1-13-23] 自覚について」岩波文庫、岩波書店
> > https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/3216_16432.html
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > 青空文庫 西田幾多郎哲学論集3 自覚について 「撞着」
> >
> >  人は自己が自己を知ることはできないという。かかる場合、人は知るということを、対象認識の意味においていっているのである。かかる意味において、自己が自己を知るということのできないのはいうまでもない。自己は自己の対象となることはできない。自己の対象となるものは自己ではない。然らば自己は単に不可知的か。単に不可知的なるものは、無と択
> >
> > えら
> >
> > ぶ所はない。自己は単なる無か。自己を不可知的というものは、何物か。対象的に知ることのできない自己は、最も能
> >
> > よ
> >
> > く自己に知れたものでなければならない。一方に我々は自己が自己自身を知ると考える、かかる意味において知るとは、如何なることを意味するのであるか。かかる意味において知るということが、先ず問題とせられなければならない。対象認識もそこからであろう。対象認識の立場から出立する人は、自己そのものの存在ということも、時間空間の形式に当嵌
> >
> > あては
> >
> > めて対象的に考える。心理的自己としては、我々の自己も爾
> >
> > しか
> >
> > 考えることができる。しかしそれは考えられた自己であって、考える自己ではない。何人
> >
> > なんぴと
> >
> > の自己でもあり得る自己である。自覚的自己の自己存在形式ではない。
> >
> >
> > 知るということは事実ではあるが、単に時間空間的事実としては、知るということは考えられない。知るものは、時空の世界においてあるとともに、これを越えたものでなければならない。如何にして時空の世界の中にありて、しかもこれを越えるということが可能であるか。それは表現的関係によって考えられねばならない。自己が世界を表現するとともに、世界の自己表現の一立脚点である。かかる矛盾的自己同一の形式によって、我々の自己の自覚的存在が考えられるのである。世界の内にあるとともに、いつも世界を越えている。かかる内在即超越、超越即内在の形式によって、一度的なる唯一的自己、歴史的自己というものが考えられるのである。自覚的自己は履歴を有
> >
> > も
> >
> > ったものでなければならない。時間空間の形式というものも、自己表現的世界の自己形成の形式として、論理的に考えられるのである。かかる世界は多の自己否定的一として時間的に、一の自己否定的多として空間的であるのである。表現するものが表現せられるものであるということが知るということであり、自覚においては、知るものと知られるものとが一であるのである。而
> >
> > しか
> >
> > してあるということが知るということであり、知るということがあるということである。故に自覚においては、存在が本質であり、本質が存在である(essentia=existentia)。かかる実在の立場から無限の当為が出て来るのである。我々の自己が唯一的に個となればなるほど、自己自身を限定する事として、絶対の当為に撞着
> >
> > どうちゃく
> >
> > するのである。あるいは我々の自己の自覚を離れて、単なる物の知識、単なる物の存在というものもあるではないかといわれるかも知れない。しかしそれらの基礎附けも、深く考えれば考えるほど、かつてデカルトが試みた如く自覚からでなければならない。
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > こういうことをやるから目がぐりぐりと痛み出すんだね
>
> まだ、目がぐりぐりしている
>
> ぐりぬいちゃおうか?
>
> 目が見えなくなる、それもいいかも

混沌に耐え得ぬ、人間

これがエリアーデも出だしだった

思い出すね

友人兜真徳が提供してくれた、あの音も光もない暗室

視覚、聴覚にうったえるもんはなにもない世界

でも椅子があって、重力があるから、触覚はある、ゆえに身体感覚もある

棺桶の中で寝た経験

心地よく眠れる

目が対象認識の元凶だと目をぐりぬくこともなからうが

光、光と、わめくあの宗教も、また同じ陥穽におちっているのかもしれない

あのメーソンのシンボルの目と定規とコンパスだって同じようなもんだ

東洋の悟りもやっぱりむこうぢゃ訳せばエンライトメント

enlightenment
啓発, 悟り, 啓蒙, 啓蒙主義, 光明

啓蒙もエンライトメント

蒙を啓く、それが悟りか?

やっぱり、暗黒は悪で、光は善というようなゾロアスター、神が最初に光あれといったからか?

そこから、対象化の悪魔に魅入られ毒され、いまごろになって毒消し、毒抜き、解毒にやっき必死になっている哀れ、哀れ

ルネッサンスになっても啓蒙になっても21世紀になっても、中毒症状はつづくのね





やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54879] だうして、そういういいやつらが、ああいう、悪いことをするようになるのであらうか? イスマイル「暗殺団」 組織が悪い 組織に入ると人間が悪くなる 組織悪とでもいうんでしょうか とくに日本の場合は「合法的」悪がまかり通る それを「公」という すべては「公」にしてお「国」のためと そうして太平洋戦争も行ったし、いまでも、それは変わらぬ 「公」や「国」ちうもんがもつ悪魔的作用 さういうもんをどうしたら、ストップできるんであろうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/31(Thu) 08:52  

さきるうねANNEX−Ω   訪問者数:11783182(今日:846/昨日:1930) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/31(Thu) 08:02 赤口(癸未) 旧暦 2/29 月齢 28.4

Lara Fabian - Perdere l'Amore (English lyrics translation)
http://www.youtube.com/watch?v=jJ_k43OOsXU&list=RDMM&index=4

え!

図書館にブルックハルトが一冊もないって?

世界の名著でブルクハルトの「ルネサンス・・」だけ、「世界史的考察」はない

プアだね、まったく今どきの図書館、基本図書さえそろえていない

あるのは流行ものの売れ行き商品ばかり

無理もないです、職員のほとんどが委託で、それも図書販売奸計の組織から派遣

司書は?

だいたい、二人だけですね

むっかしは、図書館が市役所の天下り先で、水道局の幹部が館長になったり

だから、図書館はむかしから知的でぢゃない

いまぢゃ、商業権化そのもので、うれないものはおかない

マスコミと同じになってしまったのですね

ふんで、エリアーデもなかった

あるわけないぢゃないですか

古書肆でいい値段がついていて、エリアーデは売筋だから安価にはしないと・・

物好きが買うだけですから

フーコーも一冊もなかった数十年まえに比して、何冊かあった

なかったころは都立図書館から取り寄せ借り出したが、都立にない場合は国会図書館から

借りられますが、館内閲覧のみで持ち出し厳禁です

他館から借り出しは3週間限定、地元の半分の期間で全部読めってか?

国会からの借り出しは、その場で館内で読むだけとは、日参せねばならぬ

どうも、図書館のシステムも、病院のシステムも、あの霞が関官僚機構に似て、イスマイル派「暗殺団」だね



アクセスが周辺に行くほど限られ、情報もかぎられ、公開、民主主義というものからほど遠い

病院だって、税金で共済、共済は税金ではありえません、共済組合の私的組織でですといいながら、その組合員の給料は税金で、その税金で運営されている病院へ、税金を納めている公務員以外の患者がいけば、もう、初診料でバカ高い、一般市民は老人病院としては使えぬが、公務員は一般の老人病院へいかんで、救急高度医療病院を老人病院化して使用し、死ぬのにかかる費用が一般庶民の10分の1以下か。

不公平

そんな図書館、医療もさることながら、昨今、日興証券の幹部副社長が検察に挙げられる株価操作、あれもいつものことながら、まことにおかしい。

イスマイル派「暗殺団」の中心へいけばいくほど、もっと大規模にもっと真っ黒な疑惑があっても、まったくそこはアンタッチャブル、例えば、NTTの株式公開とか、あのNTTの公開、そのNTTデータの分離公開、都市開発の分離公開、とか、んったく、公的詐欺の連続であっても、まったく、司直の手は入らない

公務員のお偉いさんへの証券会社の損失補填には司直も目をつぶる

公務員のOB/OGの脱税には司直も目をつぶる

国税庁は幹部OB/OGの弁護士税理士が手掛ける相続税は簿価相続なんぞという一般民間には御法度のことをザルのごとく適用する

都合のわるいことは「私」的なものとしてすべて情報公開を拒む、民主主義

のりべんがあたりまえの答弁弁当


世のほとんどの談合が公的談合であって、イスマイル派「暗殺団」の中心からの意向に基づく談合であるにもかかわらず、罰せれるのは周辺の下っ端暗殺団員

警察の汚職はトカゲの尻尾切で、ことを濁す

警察という組織の末端の暗殺団員の暗闇でさえそうなんだから、その警察や検察や裁判所が固く守りをかためる中枢部の暗黒弩が思いやられる

政治家、政治屋は、いかにもてめえの周りに下っ端警察をもって身を守っているようでありながら、ピエロ、山の老人中枢機構の周辺の甘い蜜に群がるピエロめいて、その中枢機構の意向に逆らえば、周辺警護の下っ端暗殺団の手に掛かる

して、その山の老人、老人の周辺あたりのひとりひとりをみれば、つきあってみれば、素晴らしいやつ、個人的にはね、聡明で目も明るく、趣味も豊かで、さして守銭奴、悪魔めいたところもない

だうして、そういういいやつらが、ああいう、悪いことをするようになるのであらうか?

イスマイル「暗殺団」

組織が悪い

組織に入ると人間が悪くなる

組織悪とでもいうんでしょうか

とくに日本の場合は「合法的」悪がまかり通る

それを「公」という

すべては「公」にしてお「国」のためと

そうして太平洋戦争も行ったし、いまでも、それは変わらぬ

「公」や「国」ちうもんがもつ悪魔的作用

さういうもんをどうしたら、ストップできるんであろうか?

ちょっと方向がズレてきたぞ

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54878] おめでたいのが多いから民主主義はやめられません ひひひ 民主主義万歳!暗殺者集団 解剖集団 解体集団 脱構築集団 んでも、暗殺して解体、脱構築したら、また構築して再生させねばならん イスマール派「暗殺集団」の永劫回帰 Re:[54877] デカルトが試みた如く自覚からでなければならない。 *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★ こういうことをやるから目がぐりぐりと痛み出すんだねRe:[54876] 材料買い揃えました。料理は? 同行二人 仏は仏 ただそれだけ ただそれだけのことが、メタメタむずかしいことでもないのにメッタヤタラと論理を超越してもでてこない 悪魔はどんな顔をしているか?救世主はどんな顔をしているか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/30(Wed) 14:53  

> とさねへとANNEX−Ω   訪問者数:11781513(今日:1107/昨日:757) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/30(Wed) 08:33 大安(壬午) 旧暦 2/28 月齢 27.4
>
> 今日は大安か、やだねえ
>
> 日曜日にもう咲き誇った桜堤をcyclingして人混みにまみれて以来、右目がぐりぐりして痛くてしようがない
>
> 熱いタオルをあててみたら?
>
> あててみてもおさまらない
>
> 目薬さした?
>
> さしてもおさまらない
>
> 寝た?
>
> 寝てみてもおさまらない、夢みる目玉さへぐりぐりしてろくなゆめもみない
>
> さういえば、今朝4時過ぎに目覚める直前に、なんか数字がびっしり並んでいる表、その裏にまた別の数字がびっしり並んでいて、妙に納得して目覚めたが、夢というものはそのときに記録しておかないと、もう、5時間もたてば、いったいその数字がなんだったのか、裏の数字で安心したのはなんだったのか、まるで思い出さない

昼めしをくって、きのこスパッゲティー、また寝た、また見た、夢

こんどはなんだか、白い曲線が無数に交差7して広がっている

まるで生きているみたいに動き回って、また裏をみたら同じようなこんだあ交差した無数の直線

裏から表にひっくりかえしたら交差したむずび目に岩下志麻がにっこり

そこで目覚めて考えた

あれは、うごきまわり触手を伸ばす神経細胞ネットワーク

その接点に岩下志摩がにっこり笑っていて、あのネットの先には、きっと、あれ、あれ、あれが出てこない、ネット、ああ、浅岡ルリ子とか・・

やだあ、浅丘ルリ子って、まだ生きているのよ

死んでいようが、生きていようが、べつに好みでもなければ、嫌でもない

して裏側は?

霊界通信網

だれ?

だれだかわからん、ぜんぜん顔がない、無数の直線が交差するだけ

> すっかたねえから覚めたところで返さねばならんもんの、幾許かを
>
>
>
> > むいまうまANNEX−Ω   訪問者数:11779308(今日:703/昨日:1788)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/28(Mon) 11:50
> >
> > さてとん、そろそろ期日、返すもんも返さねばならぬ
> >
> > ヘイドン・ホワイト著 岩崎稔監訳「メタヒストリー」作品社 2017年
> >
> > この700頁に喃々とする書物
> >
> > いちいちが結構硬いから噛み砕き咀嚼して呑み込むのも大変で、下手をすると誤嚥になりかねない、読む
> >
> > 短期間では読み切れぬ
> >
> > 読み切る必要もない
> >
> > ぱらぱらと読む
> >
> > 読み始めてこれは、なんと申しましょうか、井筒の東洋哲学の共時的構造化、構築化に匹敵する歴史学の共時的構造化、構築化
>
> 「メタヒストリー―一九世紀ヨーロッパにおける歴史的想像力」書評 歴史を「言語」から見直す企て
> 評者: 柄谷行人 / 朝⽇新聞掲載:2017年11月12日
> http://book.asahi.com/article/11577710
>
> ヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー ⼗九世紀ヨーロッパにおける歴史的想像⼒』
> における「歴史の詩学(The Poetics of history)」についての考察(⻑島徹)
> http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/75428/1/phil_reli_2-2.pdf
>
> 柄谷も、例の口調、なになにではない、そうではなくて・・、とか、なになにせねばならない、とか一神教的絶叫定言命令口調が激しく鼻につく、あのころの西欧に毒されたもんはみなこの調子で、ほかにも著名なもんがおったが、名前が出てこぬ
>
> まあ、書評や紹介ぢゃ、核心をついたことも云えぬのであらうが、いかにも、両書評だか研究にしても、皮相を撫でただけで、美味しくない
>
> 不味い
>
> 眼光裏に徹する趣がない
>
> ぺろぺろなめちゃあ、インテリブル、ぶる、ぶる
>
> ま、ノマディズムだか彷徨だか脱構築だかしらんが、そういう追っかけが多いね。

軽薄

軽くて薄い

だからちょっとの砂漠の砂嵐でもすっ飛んでいっちゃう

駱駝になれ!

驢馬になれ!

> > メタとはなんだ?
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > メタ(meta-、 古希: μετὰ-) とは、以下の意味を持つ接頭辞である:
> >
> > §一般的な意味
> >  §「あとに」という意味の古代ギリシャ語の接頭辞[1]。
> >  §転じて「超越した」、「高次の」という意味の接頭辞で[2]、ある学問や視点の外側にたって見る事を意味する[1]。
> >  §「変化」を意味する接頭辞。例えばmetamorphose(変化)、metabolism(代謝)などで用いられる[3]。
> >
> > 「ある学問や視点の外側にたって見る」の用例
> > 「ある学問や視点の外側にたって見る」という意味はアリストテレスの著書『メタピュシカ』(形而上学)に由来しており[1]、哲学では他にも「メタ倫理学」、「メタ哲学」等の用例がある。
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> もとに戻れ!
>
> > 読み始めてこれは、なんと申しましょうか、井筒の東洋哲学の共時的構造化、構築化に匹敵する歴史学の共時的構造化、構築化
>
> これは褒めすぎかもしれぬ

たしかに誉めすぎ

思考の型が違う

ホワイトもあちゃらんの例にもれず、分析をよくする

その分析に型をもってきて、そこに嵌めてみる

> でもね、硬いけれど、結構味わいがある
>
> 身になる、栄養になる
>
> だう身になるのか、栄養になるのか 
>
> まず、第一にこれは歴史を皮相ではうたっているが、その歴史において深みがある
>
> 歴史を語りながら、思想を語る、思想をかたりながら、人間をかたる
>
> その人間が思想を表現する、歴史を表現する
>
> その表現のフォルマリズム
>
> ホワイト自身の研究対象、歴史的表現、思想的表現、人間的表現への好悪、評価は棚上げにして形式を透視しようとする

その型がフォルマリズムによる喩法

一種の言語の型、だけど、そこにあの一神教的毒の臭み、毒性はあまりないようだ

> その形式主義ゆえに、ことさらに浮かび上がってくるものがある
>
> その最も基底にあるものが、最初の章
>
> 序論 歴史の詩学
>
> そう、貫くものは、詩

詩でとまったところがよろしい

これをもっと分解して、アルファベットまで分解、その一歩手前のワードのabcの入れ替え、表音文字のところまで分解されると、表意文字の世界の住人には理解しずらくなる

だから、書き言葉ぢゃなくて、話しコトバ、発声のいちいちのaiueoは表音だから、そうしてソシュール的・・・

いえね、いいたいことは、喩法、喩法でとまれば、そこまでいかんでもよろしい

人間だれでも共通だから

たとえば、あの狼のトーテム

宗教的だか民族的敵だか知らんが集団由来の象徴

卍、逆卍

お寺の象徴でもあるが、ナチも使った

むっかし、卍を額に入れ墨した騎馬民族がカムチャッカからヨーロッパまで走り回った

その棟梁が日本に来て聖徳太子だ、という一説もある

人間混血はどこでおこっているかしれないし、ましてや霊界通信ともなれば縦横無尽

イスマール派「暗殺集団」(井筒)を思い出す

あの、何重もの○の中心、裾野の広い岩山の天辺に

山の老人

その老人は、まるでアッラーの化身の生神で、それを頂点にして取り巻きが何階級にも分かれて山の裾野までひろがる

いまのロシアみたいだ、中国みたいだ

はたまた、アメリカだって、トルコだって、韓国だって、日本だって似たようなもんだ

そこが専制がむき出しになっておるか、民主という欺瞞のオブラートがかかっているかだけの違い

ロシアだって、中國だって、民主を標榜しちょる

民主ってまことに都合のよいベールなんでね、手放せません

ベールを剥げば、悪魔の顔

一番下っ端は暗殺集団、もっかのウクライナに派遣された暗殺集団

でもね、おなじ暗殺が民主のなのもとにおこなわれているでしょ、どこでも

それがみえないの?

おめでたいね

おめでたいのが多いから民主主義はやめられません

ひひひ

民主主義万歳!


> いかにナラティブに語ろうが演劇、悲喜劇的、あるいは、イデオロギー的であらうが、そこを貫くく基底に詩の表現方法、喩法をみる
>
> これは面白いね、餌になる、栄養になる
>
> 井筒の東洋哲学の共時的構造化論文、これがまさに詩であり交響曲であることはまえにも云った
>
> その詩と交響曲の表現方法、畢竟、表現せねば詩にも曲になりえぬ、そこの根っこをみる
>
> さういうことにも使える
>
> 井筒の神秘主義への切り込みは鉈でありながら剃刀的な鋭さもある
>
> その切り出した料理はまことに美味しい、栄養になる

体験、経験的に共感、共鳴、共振する

> ホワイトの剃刀が切り出したものはいわば方法論であってそのかぎりにおいてはキッチン用具に等しいが、それでも切れ味のある用具、包丁、それも姪の入ったとびきりの包丁で、その包丁で歴史家や歴史哲学者がいかにしてその包丁をつかっているか、その各論にいたれば、肉の味わいもあれば、サラダの味わいもある

これは、黄泉として、うむ、読みとしての経験では納得できるが、体験的に共感、共鳴、共振するまでには、いたらぬ

そこに違いがある

でも鋭利なツールであることには違いない

暗殺者集団

解剖集団

解体集団

脱構築集団

んでも、暗殺して解体、脱構築したら、また構築して再生させねばならん

イスマール派「暗殺集団」の永劫回帰


> その歴史家や歴史哲学者には、もちろん、井筒ははいっていないが、さういう包丁でこんどは井筒を料理してみることも可能だろう
>
> 井筒ばかりではない、ドストエフスキーだって、バルザックだって、料理できる
>
> 大拙も幾多郎も俎上にのせる
>
> ホワイトのブルックハルト論−風刺劇としての歴史的リアリズム
>
> は、まだ、よくよんでおらんが
>
> ニーチェ論−隠喩の様式における歴史の詩的弁護
>
> これなんざあ、秀逸なニーチェ論だね

軽跳と重呑

あれは驢馬でも駱駝でもない

自分は犀になりたっかようだが・・

やっぱり超人だね

昨今の軽佻浮薄なエピゴーネンとはわけが違う

> フランスで毒に酩酊してふらつく最近のノマディズムだか彷徨だか脱構築だかしらんが、そういう追っかけの比ぢゃねえ
>
> > よいじゃあ、ないね
> >
> > メタは「超越」と・・
> >
> > やはり、こういうメタの「立」場でもやっぱり立って上へ上へと超えて越える、頭ごなし
> >
> > 横超ということはメタでもないらしい
> >
> > 水平跳び
> >
> > 同行二人
> >
> > お大師様と一緒に歩いて遍路道
> >
> > お大師様は仏さま
> >
> > 仏さまと一緒に歩いて同行二人
> >
> > 横超
>
> 私が仏になる
>
> ダメダメ
>
> 私と仏がまだ分裂している
>
> > 仏が仏になる
>
> 是もダメ
>
> いまだ即一になっていない
>
> > なる必要すらない
> >
> > 仏は仏
> >
> > ただそれだけ
> >
> > ただそれだけのことが、メタメタむずかしいことでもないのにメッタヤタラと論理を超越してもでてこない
> >
> > なんでぢゃろ?
> >
> > 全てを対象化しているから、外に向けても、内に向かても
> >
> > 内も外もない
> >
> > 内外
> >
> > 内即外
> >
> > こういうのを「メタヒストリー」で
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > アイロニーという喩法に含まれるものとして、ホワイトは、たとえば「耳をつんざくような静寂」「真昼の暗黒」といった撞着語法・・・
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > して撞着語法とは
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > 撞着語法(どうちゃくごほう、英語: oxymoron)とは、修辞技法のひとつ。「賢明な愚者」「明るい闇」など、通常は互いに矛盾していると考えられる複数の表現を含む表現のことを指す。形容詞や連体修飾語、句、節などが、修飾される名詞と矛盾することとしては、形容矛盾(けいようむじゅん)とも言う。論理的には、「Aであって、かつ、not A」であるということはありえない(矛盾律)のにもかかわらず、そうであるかのように語ることである。狭い見方をすればつじつまがあわず、単なる誤謬にすぎないように見えるが、複雑な内容を簡潔に表現する修辞法として用いられている場合もある。
> >
> > (例いろいろ)
> >
> > 撞着語法の効果
> > Edit-find-replace.svg
> > この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2014年3月)
> >
> > 撞着語法を用いて、受け手に強い違和感を与えることで、言及している内容への興味を誘引したりすることができる。 また、敢えて矛盾した語を以って対象を説明することにより、対象への皮肉としての効果をもつ場合がある。 一方で、一見「深い意味や含蓄のある」ように見えて、内容の伴わない単なる言葉遊びに終始してしまう恐れがあるため、注意が必要である。
> >
> > 文学では、シェイクスピアが『マクベス』のなかで「きれいは汚い、汚いはきれい・・・」という表現を用いたのが有名。
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > ところで悪魔はどんな顔をしているか?
>
> ベロだしアインシュタイン
>
> > 救世主はどんな顔をしているか?
>
> ベロだしアインシュタイン
>
> ふざけてんぢゃねえのよ、真面目
>
> > 材料買い揃えました。料理は?
> >
> > あんた、1兆円もうけて、、どうすんの?
>
> 一兆円もうけた話はさておいて・・
>
> 底本:「西田幾多郎哲学論集3[#「3」はローマ数字3、1-13-23] 自覚について」岩波文庫、岩波書店
> https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/3216_16432.html
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 青空文庫 西田幾多郎哲学論集3 自覚について 「撞着」
>
>  人は自己が自己を知ることはできないという。かかる場合、人は知るということを、対象認識の意味においていっているのである。かかる意味において、自己が自己を知るということのできないのはいうまでもない。自己は自己の対象となることはできない。自己の対象となるものは自己ではない。然らば自己は単に不可知的か。単に不可知的なるものは、無と択
>
> えら
>
> ぶ所はない。自己は単なる無か。自己を不可知的というものは、何物か。対象的に知ることのできない自己は、最も能
>
> よ
>
> く自己に知れたものでなければならない。一方に我々は自己が自己自身を知ると考える、かかる意味において知るとは、如何なることを意味するのであるか。かかる意味において知るということが、先ず問題とせられなければならない。対象認識もそこからであろう。対象認識の立場から出立する人は、自己そのものの存在ということも、時間空間の形式に当嵌
>
> あては
>
> めて対象的に考える。心理的自己としては、我々の自己も爾
>
> しか
>
> 考えることができる。しかしそれは考えられた自己であって、考える自己ではない。何人
>
> なんぴと
>
> の自己でもあり得る自己である。自覚的自己の自己存在形式ではない。
>
>
> 知るということは事実ではあるが、単に時間空間的事実としては、知るということは考えられない。知るものは、時空の世界においてあるとともに、これを越えたものでなければならない。如何にして時空の世界の中にありて、しかもこれを越えるということが可能であるか。それは表現的関係によって考えられねばならない。自己が世界を表現するとともに、世界の自己表現の一立脚点である。かかる矛盾的自己同一の形式によって、我々の自己の自覚的存在が考えられるのである。世界の内にあるとともに、いつも世界を越えている。かかる内在即超越、超越即内在の形式によって、一度的なる唯一的自己、歴史的自己というものが考えられるのである。自覚的自己は履歴を有
>
> も
>
> ったものでなければならない。時間空間の形式というものも、自己表現的世界の自己形成の形式として、論理的に考えられるのである。かかる世界は多の自己否定的一として時間的に、一の自己否定的多として空間的であるのである。表現するものが表現せられるものであるということが知るということであり、自覚においては、知るものと知られるものとが一であるのである。而
>
> しか
>
> してあるということが知るということであり、知るということがあるということである。故に自覚においては、存在が本質であり、本質が存在である(essentia=existentia)。かかる実在の立場から無限の当為が出て来るのである。我々の自己が唯一的に個となればなるほど、自己自身を限定する事として、絶対の当為に撞着
>
> どうちゃく
>
> するのである。あるいは我々の自己の自覚を離れて、単なる物の知識、単なる物の存在というものもあるではないかといわれるかも知れない。しかしそれらの基礎附けも、深く考えれば考えるほど、かつてデカルトが試みた如く自覚からでなければならない。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> こういうことをやるから目がぐりぐりと痛み出すんだね

まだ、目がぐりぐりしている

ぐりぬいちゃおうか?

目が見えなくなる、それもいいかも

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54877] デカルトが試みた如く自覚からでなければならない。 *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★ こういうことをやるから目がぐりぐりと痛み出すんだねRe:[54876] 材料買い揃えました。料理は? 同行二人 仏は仏 ただそれだけ ただそれだけのことが、メタメタむずかしいことでもないのにメッタヤタラと論理を超越してもでてこない 悪魔はどんな顔をしているか?救世主はどんな顔をしているか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/30(Wed) 09:37  

とさねへとANNEX−Ω   訪問者数:11781513(今日:1107/昨日:757) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/30(Wed) 08:33 大安(壬午) 旧暦 2/28 月齢 27.4

今日は大安か、やだねえ

日曜日にもう咲き誇った桜堤をcyclingして人混みにまみれて以来、右目がぐりぐりして痛くてしようがない

熱いタオルをあててみたら?

あててみてもおさまらない

目薬さした?

さしてもおさまらない

寝た?

寝てみてもおさまらない、夢みる目玉さへぐりぐりしてろくなゆめもみない

さういえば、今朝4時過ぎに目覚める直前に、なんか数字がびっしり並んでいる表、その裏にまた別の数字がびっしり並んでいて、妙に納得して目覚めたが、夢というものはそのときに記録しておかないと、もう、5時間もたてば、いったいその数字がなんだったのか、裏の数字で安心したのはなんだったのか、まるで思い出さない

すっかたねえから覚めたところで返さねばならんもんの、幾許かを



> むいまうまANNEX−Ω   訪問者数:11779308(今日:703/昨日:1788)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/28(Mon) 11:50
>
> さてとん、そろそろ期日、返すもんも返さねばならぬ
>
> ヘイドン・ホワイト著 岩崎稔監訳「メタヒストリー」作品社 2017年
>
> この700頁に喃々とする書物
>
> いちいちが結構硬いから噛み砕き咀嚼して呑み込むのも大変で、下手をすると誤嚥になりかねない、読む
>
> 短期間では読み切れぬ
>
> 読み切る必要もない
>
> ぱらぱらと読む
>
> 読み始めてこれは、なんと申しましょうか、井筒の東洋哲学の共時的構造化、構築化に匹敵する歴史学の共時的構造化、構築化

「メタヒストリー―一九世紀ヨーロッパにおける歴史的想像力」書評 歴史を「言語」から見直す企て
評者: 柄谷行人 / 朝⽇新聞掲載:2017年11月12日
http://book.asahi.com/article/11577710

ヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー ⼗九世紀ヨーロッパにおける歴史的想像⼒』
における「歴史の詩学(The Poetics of history)」についての考察(⻑島徹)
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/75428/1/phil_reli_2-2.pdf

柄谷も、例の口調、なになにではない、そうではなくて・・、とか、なになにせねばならない、とか一神教的絶叫定言命令口調が激しく鼻につく、あのころの西欧に毒されたもんはみなこの調子で、ほかにも著名なもんがおったが、名前が出てこぬ

まあ、書評や紹介ぢゃ、核心をついたことも云えぬのであらうが、いかにも、両書評だか研究にしても、皮相を撫でただけで、美味しくない

不味い

眼光裏に徹する趣がない

ぺろぺろなめちゃあ、インテリブル、ぶる、ぶる

ま、ノマディズムだか彷徨だか脱構築だかしらんが、そういう追っかけが多いね。

> メタとはなんだ?
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> メタ(meta-、 古希: μετὰ-) とは、以下の意味を持つ接頭辞である:
>
> §一般的な意味
>  §「あとに」という意味の古代ギリシャ語の接頭辞[1]。
>  §転じて「超越した」、「高次の」という意味の接頭辞で[2]、ある学問や視点の外側にたって見る事を意味する[1]。
>  §「変化」を意味する接頭辞。例えばmetamorphose(変化)、metabolism(代謝)などで用いられる[3]。
>
> 「ある学問や視点の外側にたって見る」の用例
> 「ある学問や視点の外側にたって見る」という意味はアリストテレスの著書『メタピュシカ』(形而上学)に由来しており[1]、哲学では他にも「メタ倫理学」、「メタ哲学」等の用例がある。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

もとに戻れ!

> 読み始めてこれは、なんと申しましょうか、井筒の東洋哲学の共時的構造化、構築化に匹敵する歴史学の共時的構造化、構築化

これは褒めすぎかもしれぬ

でもね、硬いけれど、結構味わいがある

身になる、栄養になる

だう身になるのか、栄養になるのか 

まず、第一にこれは歴史を皮相ではうたっているが、その歴史において深みがある

歴史を語りながら、思想を語る、思想をかたりながら、人間をかたる

その人間が思想を表現する、歴史を表現する

その表現のフォルマリズム

ホワイト自身の研究対象、歴史的表現、思想的表現、人間的表現への好悪、評価は棚上げにして形式を透視しようとする

その形式主義ゆえに、ことさらに浮かび上がってくるものがある

その最も基底にあるものが、最初の章

序論 歴史の詩学

そう、貫くものは、詩

いかにナラティブに語ろうが演劇、悲喜劇的、あるいは、イデオロギー的であらうが、そこを貫くく基底に詩の表現方法、喩法をみる

これは面白いね、餌になる、栄養になる

井筒の東洋哲学の共時的構造化論文、これがまさに詩であり交響曲であることはまえにも云った

その詩と交響曲の表現方法、畢竟、表現せねば詩にも曲になりえぬ、そこの根っこをみる

さういうことにも使える

井筒の神秘主義への切り込みは鉈でありながら剃刀的な鋭さもある

その切り出した料理はまことに美味しい、栄養になる

ホワイトの剃刀が切り出したものはいわば方法論であってそのかぎりにおいてはキッチン用具に等しいが、それでも切れ味のある用具、包丁、それも姪の入ったとびきりの包丁で、その包丁で歴史家や歴史哲学者がいかにしてその包丁をつかっているか、その各論にいたれば、肉の味わいもあれば、サラダの味わいもある

その歴史家や歴史哲学者には、もちろん、井筒ははいっていないが、さういう包丁でこんどは井筒を料理してみることも可能だろう

井筒ばかりではない、ドストエフスキーだって、バルザックだって、料理できる

大拙も幾多郎も俎上にのせる

ホワイトのブルックハルト論−風刺劇としての歴史的リアリズム

は、まだ、よくよんでおらんが

ニーチェ論−隠喩の様式における歴史の詩的弁護

これなんざあ、秀逸なニーチェ論だね

フランスで毒に酩酊してふらつく最近のノマディズムだか彷徨だか脱構築だかしらんが、そういう追っかけの比ぢゃねえ

> よいじゃあ、ないね
>
> メタは「超越」と・・
>
> やはり、こういうメタの「立」場でもやっぱり立って上へ上へと超えて越える、頭ごなし
>
> 横超ということはメタでもないらしい
>
> 水平跳び
>
> 同行二人
>
> お大師様と一緒に歩いて遍路道
>
> お大師様は仏さま
>
> 仏さまと一緒に歩いて同行二人
>
> 横超

私が仏になる

ダメダメ

私と仏がまだ分裂している

> 仏が仏になる

是もダメ

いまだ即一になっていない

> なる必要すらない
>
> 仏は仏
>
> ただそれだけ
>
> ただそれだけのことが、メタメタむずかしいことでもないのにメッタヤタラと論理を超越してもでてこない
>
> なんでぢゃろ?
>
> 全てを対象化しているから、外に向けても、内に向かても
>
> 内も外もない
>
> 内外
>
> 内即外
>
> こういうのを「メタヒストリー」で
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> アイロニーという喩法に含まれるものとして、ホワイトは、たとえば「耳をつんざくような静寂」「真昼の暗黒」といった撞着語法・・・
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> して撞着語法とは
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 撞着語法(どうちゃくごほう、英語: oxymoron)とは、修辞技法のひとつ。「賢明な愚者」「明るい闇」など、通常は互いに矛盾していると考えられる複数の表現を含む表現のことを指す。形容詞や連体修飾語、句、節などが、修飾される名詞と矛盾することとしては、形容矛盾(けいようむじゅん)とも言う。論理的には、「Aであって、かつ、not A」であるということはありえない(矛盾律)のにもかかわらず、そうであるかのように語ることである。狭い見方をすればつじつまがあわず、単なる誤謬にすぎないように見えるが、複雑な内容を簡潔に表現する修辞法として用いられている場合もある。
>
> (例いろいろ)
>
> 撞着語法の効果
> Edit-find-replace.svg
> この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2014年3月)
>
> 撞着語法を用いて、受け手に強い違和感を与えることで、言及している内容への興味を誘引したりすることができる。 また、敢えて矛盾した語を以って対象を説明することにより、対象への皮肉としての効果をもつ場合がある。 一方で、一見「深い意味や含蓄のある」ように見えて、内容の伴わない単なる言葉遊びに終始してしまう恐れがあるため、注意が必要である。
>
> 文学では、シェイクスピアが『マクベス』のなかで「きれいは汚い、汚いはきれい・・・」という表現を用いたのが有名。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> ところで悪魔はどんな顔をしているか?

ベロだしアインシュタイン

> 救世主はどんな顔をしているか?

ベロだしアインシュタイン

ふざけてんぢゃねえのよ、真面目

> 材料買い揃えました。料理は?
>
> あんた、1兆円もうけて、、どうすんの?

一兆円もうけた話はさておいて・・

底本:「西田幾多郎哲学論集3[#「3」はローマ数字3、1-13-23] 自覚について」岩波文庫、岩波書店
https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/3216_16432.html

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

青空文庫 西田幾多郎哲学論集3 自覚について 「撞着」

 人は自己が自己を知ることはできないという。かかる場合、人は知るということを、対象認識の意味においていっているのである。かかる意味において、自己が自己を知るということのできないのはいうまでもない。自己は自己の対象となることはできない。自己の対象となるものは自己ではない。然らば自己は単に不可知的か。単に不可知的なるものは、無と択

えら

ぶ所はない。自己は単なる無か。自己を不可知的というものは、何物か。対象的に知ることのできない自己は、最も能



く自己に知れたものでなければならない。一方に我々は自己が自己自身を知ると考える、かかる意味において知るとは、如何なることを意味するのであるか。かかる意味において知るということが、先ず問題とせられなければならない。対象認識もそこからであろう。対象認識の立場から出立する人は、自己そのものの存在ということも、時間空間の形式に当嵌

あては

めて対象的に考える。心理的自己としては、我々の自己も爾

しか

考えることができる。しかしそれは考えられた自己であって、考える自己ではない。何人

なんぴと

の自己でもあり得る自己である。自覚的自己の自己存在形式ではない。





知るということは事実ではあるが、単に時間空間的事実としては、知るということは考えられない。知るものは、時空の世界においてあるとともに、これを越えたものでなければならない。如何にして時空の世界の中にありて、しかもこれを越えるということが可能であるか。それは表現的関係によって考えられねばならない。自己が世界を表現するとともに、世界の自己表現の一立脚点である。かかる矛盾的自己同一の形式によって、我々の自己の自覚的存在が考えられるのである。世界の内にあるとともに、いつも世界を越えている。かかる内在即超越、超越即内在の形式によって、一度的なる唯一的自己、歴史的自己というものが考えられるのである。自覚的自己は履歴を有



ったものでなければならない。時間空間の形式というものも、自己表現的世界の自己形成の形式として、論理的に考えられるのである。かかる世界は多の自己否定的一として時間的に、一の自己否定的多として空間的であるのである。表現するものが表現せられるものであるということが知るということであり、自覚においては、知るものと知られるものとが一であるのである。而

しか

してあるということが知るということであり、知るということがあるということである。故に自覚においては、存在が本質であり、本質が存在である(essentia=existentia)。かかる実在の立場から無限の当為が出て来るのである。我々の自己が唯一的に個となればなるほど、自己自身を限定する事として、絶対の当為に撞着

どうちゃく

するのである。あるいは我々の自己の自覚を離れて、単なる物の知識、単なる物の存在というものもあるではないかといわれるかも知れない。しかしそれらの基礎附けも、深く考えれば考えるほど、かつてデカルトが試みた如く自覚からでなければならない。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

こういうことをやるから目がぐりぐりと痛み出すんだね


やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54876] 材料買い揃えました。料理は? 同行二人 仏は仏 ただそれだけ ただそれだけのことが、メタメタむずかしいことでもないのにメッタヤタラと論理を超越してもでてこない 悪魔はどんな顔をしているか?救世主はどんな顔をしているか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/28(Mon) 15:23  

むいまうまANNEX−Ω   訪問者数:11779308(今日:703/昨日:1788)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/28(Mon) 11:50

さてとん、そろそろ期日、返すもんも返さねばならぬ

ヘイドン・ホワイト著 岩崎稔監訳「メタヒストリー」作品社 2017年

この700頁に喃々とする書物

いちいちが結構硬いから噛み砕き咀嚼して呑み込むのも大変で、下手をすると誤嚥になりかねない、読む

短期間では読み切れぬ

読み切る必要もない

ぱらぱらと読む

読み始めてこれは、なんと申しましょうか、井筒の東洋哲学の共時的構造化、構築化に匹敵する歴史学の共時的構造化、構築化

メタとはなんだ?

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メタ(meta-、 古希: μετὰ-) とは、以下の意味を持つ接頭辞である:

§一般的な意味
 §「あとに」という意味の古代ギリシャ語の接頭辞[1]。
 §転じて「超越した」、「高次の」という意味の接頭辞で[2]、ある学問や視点の外側にたって見る事を意味する[1]。
 §「変化」を意味する接頭辞。例えばmetamorphose(変化)、metabolism(代謝)などで用いられる[3]。

「ある学問や視点の外側にたって見る」の用例
「ある学問や視点の外側にたって見る」という意味はアリストテレスの著書『メタピュシカ』(形而上学)に由来しており[1]、哲学では他にも「メタ倫理学」、「メタ哲学」等の用例がある。

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メタ論理学

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メタ倫理学の歴史
メタ倫理学という分野は1903年G. E. ムーア が『倫理学原理』を出版したことを起点とする。その後1960年ごろまで、英米の倫理学といえばメタ倫理学であり、規範倫理学の研究はマイナーな領域におとされていた。この間に情緒主義や指令主義といった非認知主義の立場が登場し、1960年代にはメタ倫理学は非認知主義によって制された観があった。

しかしその後、1970年代に規範倫理学が復権をはたし、倫理学の本流は規範的な問題、応用倫理学的な問題へと移る。また、メタ倫理学の内部では、錯誤理論、コーネル実在論、マクダウェルの理論など認知主義系のさまざまな立場が提案され、1980年代にはメタ倫理学はまた活況を呈するようになる。

メタ倫理学における対立の構図
メタ倫理学の学説の多くは、対立し合ったいくつかの主張の組み合わせによって成り立っている。ここではその代表的な対立軸を述べる。

認知主義vs非認知主義
道徳判断が何を意味しているのかという点で、認知主義(cognitivism)と非認知主義(non-cognitivism)が対立している。認知主義とは、道徳判断はなんらかの事実についての認知であり、真偽の区別が可能である(truth-apt)とする立場である。それに対して非認知主義(non-cognitivism)は、道徳判断は事実についての認知ではなく真偽の区別が不可能である、あるいは少なくとも事実についての認知以外の要素を含んでいると考える立場である。

実在論vs反実在論
認知主義の中ではその認知対象の実在性や客観性をめぐって、実在論(realism)と反実在論(anti-realism)が対立している。実在論は、道徳判断の対象は主観的な認知状態から独立しており、客観的に真偽が決まるという立場である。それに対して反実在論は、道徳判断の対象は客観的な世界の側には実在しておらず、主観的な感情などに依存しているという立場である。

自然主義vs非自然主義
道徳判断の対象である道徳的事実について、道徳的事実は自然科学の研究対象となりうる自然的事実(例えば快楽や種の進化など)に還元できると考える自然主義(naturalism)と、道徳的事実は何か他の自然的対象を参照しなくても道徳的事実であるとする非自然主義(non-naturalism)が対立している(非自然主義は道徳的事実は自然的事実(natural facts)だけでなく、神の存在(supernatural facts)のような実在しないものにも還元できない立場をとる[1])。

外在主義vs内在主義
道徳的判断が必然的に行為の動機づけを含んでいるのかどうかで、外在主義(externalism)と内在主義(internalism)が対立する。外在主義とは、動機づけの要素は価値判断の外部にあり、心理学的な連結によって偶然的に結びついているだけだという立場である。それに対して内在主義は、動機づけの要素は価値判断の内部に存在していると考える立場である。

メタ倫理学における様々な立場
定義的自然主義
認知主義・実在論・自然主義

自然主義(define naturalism)とは、道徳的善悪をなんらかの自然的性質によって定義しようとする立場である。例えば快楽を善とみなす幸福主義や、種の進化を善とみなす進化論がこれにあたる。

直観主義
認知主義・実在論・非自然主義

直観主義(intuitionism)とはG・E・ムーアの立場で、道徳的善悪は自然的対象ではなく、直観という能力によって理解可能な還元不可能な性質であると考える立場である。

表現主義
非認知主義

表現主義(expressivism)とは、道徳判断は信念(「XはYである」という命題構造をもった心的状態)の記述ではなく、何らかの主体の状態を表現したものだと考える立場であり、典型的な非認知主義である。

情緒主義
情緒主義(emotivism、情動主義とも訳される)はA・J・エイヤーやC・L・スティーヴンソンらの立場で、道徳判断は信念ではなく一種の感情の表現であり、あるいはそうした表現を通して相手の感情に訴えかけるための道具であると考える立場である。

規範表出主義
規範表現主義(norm expressivism)はアラン・ギバードの立場で、道徳判断は主体の感情を表現しているのではなく、その主体が規範を受け入れているということを表現するものだと考える立場である。

普遍的指令主義
非認知主義

普遍的指令主義(universal prescriptivism)とはR・M・ヘアの立場で、道徳判断とは普遍化可能な指令であるとする立場である。

錯誤説
認知主義・反実在論

錯誤説(error theory)とはジョン・マッキーの立場で、「善」はそれについて知るだけで動機づけられるという奇妙な性質であるため善は実在しない(したがって善に関する判断は全て過ちである)という立場である。

投影主義
認知主義・反実在論

投影主義(projectivism)とはサイモン・ブラックバーンの立場で、善とは、われわれの態度を対象に投影することで対象の擬似的な性質となったものだと考える立場である。

形而上学的自然主義
認知主義・実在論・自然主義

形而上学的自然主義とは、形而上学的な同一性という概念を用いることで、自然主義的誤謬を回避しながら道徳判断の対象を自然的対象と同一視することが可能であると考える立場である。代表的な立場にコーネル実在論と還元主義がある。

コーネル実在論
コーネル実在論(Cornell realism)とは、コーネル大学のリチャード・ボイドやニコラス・スタージョンらが提案した立場であり、形而上学的自然主義の立場である。次の還元主義とは異なり、道徳的善悪は他の自然的性質に還元不能な独自の自然的性質であると考える。

還元主義
メタ倫理学における還元主義(reductionism)とはピーター・レイルトンの立場で、善を他の非道徳的な自然的性質に還元可能だ考える考え方である。

神命説
認知主義・反実在論

神命説(divine command theory)とは、ロバート・アダムスらの立場で、道徳判断の真偽は、それが神の命令によって是認されるか否かによって決まると考える立場である。

感受性説
認知主義・実在論・非自然主義

感受性説(sensibility theory)はデイヴィッド・ウィギンズやジョン・マクダウェルらの立場で、欲求と信念を区別するヒューム的な心理学を拒絶し、道徳的善悪は、客観的な世界の側に存在しながら、それを認知する主体の感受性に作用し、行為への動機づけを行うような性質をもった特殊な対象であると考える立場である。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

よいじゃあ、ないね

メタは「超越」と・・

やはり、こういうメタの「立」場でもやっぱり立って上へ上へと超えて越える、頭ごなし

横超ということはメタでもないらしい

水平跳び

同行二人

お大師様と一緒に歩いて遍路道

お大師様は仏さま

仏さまと一緒に歩いて同行二人

横超

仏が仏になる

なる必要すらない

仏は仏

ただそれだけ

ただそれだけのことが、メタメタむずかしいことでもないのにメッタヤタラと論理を超越してもでてこない

なんでぢゃろ?

全てを対象化しているから、外に向けても、内に向かても

内も外もない

内外

内即外

こういうのを「メタヒストリー」で

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

アイロニーという喩法に含まれるものとして、ホワイトは、たとえば「耳をつんざくような静寂」「真昼の暗黒」といった撞着語法・・・

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

して撞着語法とは

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

撞着語法(どうちゃくごほう、英語: oxymoron)とは、修辞技法のひとつ。「賢明な愚者」「明るい闇」など、通常は互いに矛盾していると考えられる複数の表現を含む表現のことを指す。形容詞や連体修飾語、句、節などが、修飾される名詞と矛盾することとしては、形容矛盾(けいようむじゅん)とも言う。論理的には、「Aであって、かつ、not A」であるということはありえない(矛盾律)のにもかかわらず、そうであるかのように語ることである。狭い見方をすればつじつまがあわず、単なる誤謬にすぎないように見えるが、複雑な内容を簡潔に表現する修辞法として用いられている場合もある。

(例いろいろ)

撞着語法の効果
Edit-find-replace.svg
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2014年3月)

撞着語法を用いて、受け手に強い違和感を与えることで、言及している内容への興味を誘引したりすることができる。 また、敢えて矛盾した語を以って対象を説明することにより、対象への皮肉としての効果をもつ場合がある。 一方で、一見「深い意味や含蓄のある」ように見えて、内容の伴わない単なる言葉遊びに終始してしまう恐れがあるため、注意が必要である。

文学では、シェイクスピアが『マクベス』のなかで「きれいは汚い、汚いはきれい・・・」という表現を用いたのが有名。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

ところで悪魔はどんな顔をしているか?
http://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=D5g%2ffAjm&id=60A2439DE513DA65563520FDC66E17B2F9BA9961&thid=OIP.D5g_fAjmCt8veohTPqCdJwHaHa&mediaurl=https%3a%2f%2fyt3.ggpht.com%2fa%2fAATXAJyGQ7cilVEGktR14WUfZnDm9dUWIUPgEcU56A%3ds900-c-k-c0xffffffff-no-rj-mo&exph=900&expw=900&q=%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%b3&simid=608036364299680051&FORM=IRPRST&ck=AADDFA9154DC47CAAE8A0CF527784398&selectedIndex=0&ajaxhist=0&ajaxserp=0

救世主はどんな顔をしているか?
http://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=D5g%2ffAjm&id=60A2439DE513DA65563520FDC66E17B2F9BA9961&thid=OIP.D5g_fAjmCt8veohTPqCdJwHaHa&mediaurl=https%3a%2f%2fyt3.ggpht.com%2fa%2fAATXAJyGQ7cilVEGktR14WUfZnDm9dUWIUPgEcU56A%3ds900-c-k-c0xffffffff-no-rj-mo&exph=900&expw=900&q=%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%b3&simid=608036364299680051&FORM=IRPRST&ck=AADDFA9154DC47CAAE8A0CF527784398&selectedIndex=0&ajaxhist=0&ajaxserp=0

材料買い揃えました。料理は?

あんた、1兆円もうけて、、どうすんの?

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54875] モンゴロイド、コーカソイド、ネグロイド、オーストラロイド、みんな根っこは一緒なんだね 山川草木悉皆成仏 これはロゴスの形式論理学、同一律、矛盾律、排中律ではわからんでしょうなあ 汎神論でおしまい 生きていない、死んだ命 仏は「神」ではない 日本の神も「神」ではない そこがわかんのぢゃっけん すべての奴隷化、囚人化、人類の悲惨は「神」から始まったRe:[54874] 祖のラッパに踊られされているやつはどこのドイツだ? 都都逸でも唸ったほうがましかもしれぬ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/28(Mon) 11:50  








自らの由を訪ねて花祭 

> ひしうるもANNEX−Ω   訪問者数:11779133(今日:528/昨日:1788)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/28(Mon) 09:36 先負(庚辰) 旧暦 2/26 月齢 25.4

むっかし、むかし

自らの由を訪ねた

父母二人

祖母祖父四人

曾祖母曾祖父八人

一世代ごとに2の累乗だから100世代1000世代もいけば

とんでもない数の血のつながったご祖先をもっていて、ご先祖の数は当時の地球上の人口を上回ってしまう

ツァラトストラも老子も釈迦もキリストもみんな先祖

空海最澄道元法然親鸞、いやさ紫式部清少納言みんなご先祖



こんどは反対に一人の人類の誕生から数えて現今の地球人口100億人

これを累乗の逆をやれば、いまの一人の一人の祖先が一人であったときは何年前か算数敵に分かろうというもんだ

もっとも、一人では子は生まれぬ

でもね、両性具有ということもある

釈迦やキリストの誕生のように



あたまの体操か、現実か、はたまた妄想か

むっかし、むっかし

一個の人間は氷山の頭だ

水面下にいは巨大なみえない氷山の根っこがある

いくら巨大でもみえぬものは、みえぬ

しからばみえる先端の頭だけをみて、頭だけで考える

その頭が考えて、みえぬ巨大な水面下に想いを至す

さういうモデルをもちあるいて

大発見、大発見

エンジニアリング会社で、世界的プロジェクトマネジャーといわれいた鎌ゴジラへ行って

ノートの巨大な三角形をいくつもいくつもずらし書いたものを示し、こうやって根っこを無限に大きくしていく

だから、頭では、氷山の一角の先端はバラバラでも、根っこは一個でしょ?

あんたの頭ん中はわからん

とやられた

そうなんだよね、世界的頭脳のプロマネでもこの真似はできない

マネーは稼げても、真似はできない

有無、マネーは真似



むっかし、むっかし

フロイト、ユングで無意識

共感もしたが違和感も

無意識、原型

無意識を意識する

無を意識する

とっちにしても、無意識も無もある

原型という型を嵌める

だうも、おかしい

無への意識にしてもおかしい

意識には、そもそもの指向性がある

対象がある

他化がある

他化する自我がある

ヒステリーやコンプレックスという概念の構築には役立つ

まさに限定的

そこにセックスという原型を認めた、納得する

でも、まだ、限定的

掘り下げが足らない

というより、フーコーの知の考古学にも似て、いやさ、フーコーがフロイトやユングに似ていたのかもしれないが

考古学的に発掘や掘り下げてみるもんぢゃない

他化してみるもんぢゃない

発掘せんでも掘り下げんでも、

あるものはある

ないもんはない

ただ、それだけのこと

だけんど、そういってしまってはおしまい

言説で、ロゴスで命を稼ぐ、繋ぎ止めるむきには繋ぎ止めようもなく、稼ぎようもない

だから、まあ、しようが暗迷


ホッテントット

モンゴロイド、コーカソイド、ネグロイド、オーストラロイド、みんな根っこは一緒なんだね

山川草木悉皆成仏

これはロゴスの形式論理学、同一律、矛盾律、排中律ではわからんでしょうなあ

汎神論でおしまい

生きていない、死んだ命

仏は、あちらさまの「神」ではない

日本の神も、あちらさまの「神」ではない

そこがわかんのぢゃっけん

すべての奴隷化、囚人化、人類の悲惨はあちらさまの「神」から始まった



> むかし、むかし
>
> エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」を読んで共感もありはしたが、猛烈なる違和感もあった
>
> それをこのAnnex開設の初期のころより、自由の解釈がおかしいんぢゃないか?
>
> 自由
>
> この漢字でみるかぎり、
>
> 自らの由
>
> ところが、あちらのフロムの「自由」は、なにかしがらみからの逃走
>
> Freedom= free from....
>
> 而して
>
> そのしがらみがなくなった「自由」からまた「逃走」せざるをえない
>
> 無限逃走
>
> 自らの由を自由としてFreedomの訳語の「自由」
>
> ずいぶんと齟齬が激しい
>
> 而して
>
> そのFreedomを自らの由の自由を当てた訳者の見識は高い
>
> あちらさんの「自由」は自由ぢゃない
>
> 常になにかのしがらみにしばられている
>
> しばられていて苦しいからそれから逃走して「自由」になる
>
> その「自由」においては人間は生き得ないから
>
> また「自由」から逃走する
>
> なんかいっていることはわからんでもない、一応の共感はあるが、漫画
>
> 一旦、自由、即、自らの由の自由ならばそこからどうして逃走する必要があるんだろうか
>
> むしろ、永遠の安心の自由であって、自らの由以外の自由はありえぬ
>
>
>
> 同じことが、むっかし、むかし マンハイムの「存在被拘束性」
>
> 人間のしがらみ、
>
> マルクス的にいえば唯物論的土台の衣食住による拘束
>
> はたまた
>
> ロゴス的な論理や言葉による拘束
>
> はたまた
>
> 宗教、政治的な拘束
>
> マンハムがロゴス、宗教、政治までの拘束をいっておったかどうかは覚えていないが
>
> とにかく人間には「存在被拘束性」がある
>
> その拘束を、平常時には拘束ともおもわぬ日常をぬくぬくと生きている
>
> まさに、叱り
>
> すっかす、この拘束もまた、さきの「しがらみ」
>
> しがらみ、柵と書くんだ、柵は「さく」、さくのなかの囚人、奴隷、それが拘束にして
>
> 柵拘束から逃走してもやってられないから、そのせっかく解放された「自由」からも逃走して、また元の木阿弥の柵拘束へもどって「存在被拘束性」
>
> なるほどね
>
> とはおもうもんのそういう、しがらみ拘束ちうもんはすべて外的、他化、対象化されたもんなんだね
>
> どうも、内へのまなざしに欠ける
>
> 内へのまなざしを翔ける
>
> そういうもんが、ない
>
> だから、自らの由を訪ねても「存在被拘束」されたもんのしかでてこない
>
>
> フーコーの監獄、『監獄の誕生』(1975年)一望監視システム
>
> まあ、そういうもんを狂気の歴史的に知の考古学してみて中世や古代に遡ってみても
>
> そんなもんは、そもそもの一神教のはじめから、ある
>
> 他者のまなざしで見られている、見られているものからは見ているものが見えない
>
> これがオットーのいうところの「絶対他者」であって、それへおののくべき神のあり様
>
> だから、人間は、この一方通行の一神教の囚人であり、奴隷
>
>
> ゆえにニーチェが
>
> キリスト教は奴隷宗教
>
> だと喝破したのは、西欧人としては秀逸
>
> そこから19世紀末から20世紀の転換が始まった
>
> とはいえ
>
> せまい西欧的一神教的監獄奴隷解放のラッパにすぎない
>
> 祖のラッパに踊られされているやつはどこのドイツだ?
>
> 都都逸でも唸ったほうがましかもしれぬ

自らの由を訪ねて花祭

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54874] 祖のラッパに踊られされているやつはどこのドイツだ? 都都逸でも唸ったほうがましかもしれぬ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/28(Mon) 10:16  

ひしうるもANNEX−Ω   訪問者数:11779133(今日:528/昨日:1788)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/28(Mon) 09:36 先負(庚辰) 旧暦 2/26 月齢 25.4

むかし、むかし

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」を読んで共感もありはしたが、猛烈なる違和感もあった

それをこのAnnex開設の初期のころより、自由の解釈がおかしいんぢゃないか?

自由

この漢字でみるかぎり、

自らの由

ところが、あちらフロムも自由は、なにかしがらみからの逃走

Freedom= free from....

而して

そのしがらみがなくなった「自由」からまた「逃走」せざるをえない

無限逃走

自らの由を自由としてFreedomの訳語の「自由」

ずいぶんと齟齬が激しい

而して

そのFreedomを自らの由の自由を当てた訳者の見識は高い

あちらさんの「自由」は自由ぢゃない

常になにかのしがらみにしばられている

しばられていて苦しいからそれから逃走して「自由」になる

その「自由」においては人間は生き得ないから

また「自由」から逃走する

なんかいっていることはわからんでもない、一応の共感はあるが、漫画

一旦、自由、即、自らの由の自由ならばそこからどうして逃走する必要があるんだろうか

むしろ、永遠の安心の自由であって、自らの由以外の自由はありえぬ



同じことが、むっかし、むかし マンハイムの「存在被拘束性」

人間のしがらみ、

マルクス的にいえば唯物論的土台の衣食住による拘束

はたまた

ロゴス的な論理や言葉による拘束

はたまた

宗教、政治的な拘束

マンハムがロゴス、宗教、政治までの拘束をいっておったかどうかは覚えていないが

とにかく人間には「存在被拘束性」がある

その拘束を、平常時には拘束ともおもわぬ日常をぬくぬくと生きている

まさに、叱り

すっかす、この拘束もまた、さきの「しがらみ」

しがらみ、柵と書くんだ、柵は「さく」、さくのなかの囚人、奴隷、それが拘束にして

柵拘束から逃走してもやってられないから、そのせっかく解放された「自由」からも逃走して、また元の木阿弥の柵拘束へもどって「存在被拘束性」

なるほどね

とはおもうもんのそういう、しがらみ拘束ちうもんはすべて外的、他化、対象化されたもんなんだね

どうも、内へのまなざしに欠ける

内へのまなざしを翔ける

そういうもんが、ない

だから、自らの由を訪ねても「存在被拘束」されたもんのしかでてこない


フーコーの監獄、『監獄の誕生』(1975年)一望監視システム

まあ、そういうもんを狂気の歴史的に知の考古学してみて中世や古代に遡ってみても

そんなもんは、そもそもの一神教のはじめから、ある

他者のまなざしで見られている、見られているものからは見ているものが見えない

これがオットーのいうところの「絶対他者」であって、それへおののくべき神のあり様

だから、人間は、この一方通行の一神教の囚人であり、奴隷


ゆえにニーチェが

キリスト教は奴隷宗教だと喝破した

のは、西欧人としては秀逸

そこから19世紀末から20世紀の転換が始まった

とはいえ

せまい西欧的一神教的監獄奴隷解放のラッパにすぎない

祖のラッパに踊られされているやつはどこのドイツだ?

都都逸でも唸ったほうがましかもしれぬ






やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54873] 「死中得活」Re:[54871] 健康者が何の顧慮もなくさまよっている快適な暖かい霧の世界を、病人は軽蔑の念をもって想う。彼が以前に楽しんだ最も高貴な、最も好もしい幻想をも、軽蔑の念をもって思いかえす』 *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★ いかがでしょう?Re:[54870] 臭い排泄物さえ、排泄仏 だからといって、床の間にうんこをするやつはいない せめて「小悪魔」は卒業しましょう Re:[54869] 坐位においては、坐して、寝て、観る、止観、重心を低く、さらに低くして、場合によっては地にさえめり込む 立位においては、ゲリラ戦、原爆、終末論の黙示録、天上一神教の「絶対他者」への「おののき」も「よろこび」も、聖も俗も、「小悪魔の振子」に過ぎない 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/26(Sat) 13:17  


> > > ここあねゆANNEX−Ω   訪問者数:11775087(今日:280/昨日:1469)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/25(Fri) 07:06 赤口(丁丑) 旧暦 2/23 月齢 22.4 下弦

> > > どうも、文化的な重心は西欧においては高く、日本においては低い
> > >
> > > 坐の文化
> >
> > 西も東も些末にして無い
> >
> > ようは、食えるか食えぬか、毒や解毒剤ではなく、ちゃんと栄養になるか
> >
> > 上も下も些末にして無い
> >
> > 地獄に仏
> >
> > 一神教の絶対救いのない地獄に比して、こちらの地獄には仏もいる
> >
> > 不寛容と寛容
> >
> > そこの違いね
> >
> >
> > それにしても地獄に仏のお使いの地蔵菩薩は立ち姿
> >
> > 坐した地蔵には会わないね
> >
> > なんでだろ?

自問自答

おのずからこたえがでてくる

畢竟、地獄で救いをもとめる劫火で焼かれつつあるものへ

仏の使いの地蔵菩薩

他者へ救いをもとめる、いまだ覚にいたらぬものへの仏の使い

だから対象化された救世主なればこその立ち姿

剃刀介錯

> > > 法隆寺の仏像、立ち姿が多い、シルクロードをへてヘレニズム的影響

あのアルカイックスマイル

聖徳太子等身大の立像

救世観音の脳天に打ち込まれた鉄杭

象徴的だね

死霊鎮めか、はたまた?

ギリシャ彫刻、ほとんど立像

ローマ彫刻、一部座像、

絵画、アルカディアのような文人墨客を魅した田園絵画は総じて寝転んでいる

プラトンは上、アリストテレスは下、を指さすアカデメイアの絵画はみんな立像

さういうギリシャからヘレニズムを経てはるばる飛鳥にやってきた救世観音

救世主の脳天に鉄杭

その鉄杭に光焔の光背がつけられて杭を打ち込まれた後頭を覆う

キリストの光輪、釘を打たれた降臨してくるだらうか?

確かに手足には釘が打たれているが



> > > やや下って、広隆寺の弥勒菩薩、椅子に座っている、ロダンの考える人の原型か

これは多分新羅仏

新羅のもとは北方騎馬民族

なればこそ、馬の背に跨る

椅子座像

> > > その後の藤原、平安、鎌倉時代の仏像になれば、圧倒的に坐形が多い

なれど、木食上人の木喰仏、立像も多い

大衆、一如となれぬ大衆、なればこそ地蔵と同じ立ち姿の木喰立像なのかも

> > > なかには四天王とか仁王とか立像もあるが、それはインドのヒンズー教の神々の化身像

ヒンズーのあの神々は踊り姿

腰をくねらせて踊る

垂直の立ち姿ではないが、立ち姿よりは重心が低い

> > > 釈迦坐像、室生寺なんぞ仏像の白眉
> > >
> > > タイや東南アジアには坐像もさることながら、寝釈迦、涅槃像も多い
> > >
> > > 坐る、寝る、立つ
> > >
> > > 立つこと、人間が直立することによって宗教も文明も始まった、とはエリアーデの「世界宗教史」の初っ端の出だし、曰く
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > 人はめざめているときしか、直立の姿勢を保つことはできない。その直立姿勢のおかげで、空間はヒト以前の無縁な構造ーー「上」−「下」を貫く中心軸から水平にひろがる四方向ーーに組織された。言いかえれば、空間は人体の周囲に、前後、左右、上下にひろがるものとして組織されるのである。方向づけ(オリエンタツィオ)のさまざまな方法は、この根源的経験――無限の、未知の、脅威的なものとみえているひろがりのただなかに「投げこまれた」と感じることーーから生じた。なぜなら、人間は、方向づけを失うことによってもたらされる混乱状態に生きながらえることはできないからである。「中心」の周囲に位置づけられたこの空間体験は、領土、集落、住居の、範例的な分割と配置の重要性と、その宇宙的シンボリズムの重要性を説明する。
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > ここから議論は百裂万化する
> > >
> > > 象徴論、
> >
> > エリアーデ的象徴、西欧思想的構築を解するにいちいち納得する
> >
> > 上昇と墜落
> >
> > 山と川、水
> >
> > コスモスと混沌
> >
> > しかし、しかし、混沌は老荘の太一にして玄の又玄
> >
> > 赤肉団上一無位真人
> >
> > この臨済の提唱の最後は乾屎橛
> >
> > 糞掻棒
> >
> > これが仏だと振り回す
> >
> > して、この糞掻棒、乾屎橛をお祀りするか?
> >
> > しません
> >
> > 象徴でさえ一神教の毒とは違う
> >
> > 臭い排泄物さえ、排泄仏
> >
> > だからといって、床の間にうんこをするやつはいない
> >
> > ん?
> >
> > いるかも
> >
> > > ロゴス論、宗教論、技術論、科学論、文明論、哲学論、歴史論、現象論、構造論、政治論、国際関係論、地政学、安全保障論などなど百花繚乱
> > >
> > > それぞれがそれぞれの「立場」でそれぞれを論じ、場合はよっては衝突する
> > >
> > > 「立場」というのも「立つ」「場」
> > >
> > > 「立つ」ことは、戦闘モードに入ることだ、とは、ハイデッガーか
> > >
> > > たしかに、座して待つな、立ち上がれ!とか、日常茶飯から竹槍戦、ゲリラ戦、核大戦まで、みな戦闘モード
>
> ゾッキ本100円「現代思想の系譜学」で今村仁司曰く、丁寧にわかりやすく・・
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 人間が世界に関係する行為が、ことごとく
>
> 『立たせる』
>
> 『仕立て』
>
> 『役立ち』
>
> の相で了解され、実行される事態を、ハイデッガーは
>
> 『組み―立て』
>
> とよぶ。
>
> 挑発して、まっすぐ立たせ、そして垂直に立った諸物をまとめ上げ。集中させ、秩序化=中心化しいていく行為は、近代技術の本性である。技術の本性が近代的人間の本性を決定する。
>
> 『すべての存在者は、いまや、対象として現実的なものであるか、それとも対象化して活動するものである。』(ハイデッガー「ニーチェの言葉」)・・・・
>
> 『自分の向うへと、且つ、自分の方へと、立てること』『世界が像となり、人間が主観となる』こと、これが近代の本質である(ハイデッガー「世界像の時代」)。
>
> ・・・・・・
>
> 『立てる――立たせる』を中心に世界に関係する行為は、形而上学の本質である。
>
> ・・・・・・
>
> 対象化がもつ暴力性は古代から近代まで一貫している。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> そう、だから、その「対象化中心主義を理性と実践の両面であばき出し」脱構築とか、脱中心化を、形而上学のみならず、社会、歴史、思想、実践で推し進めていかなければならない、ということになる
>
> > > 日常茶飯の宗教でも哲学でも
> > >
> > > 現象学というのはどうもゲリラ戦を展開する
> > >
> > > そもそもが現象学を生みだす、西欧思想というものが、立位にして、坐す東洋に対して目線の高いものいいをする
> > >
> > > しかし、その立位というのはまことに重心が高く、安定しない
> > >
> > > つねに右往左往、腰が定まらない
> > >
> > > 坐す、微動だにしない
> > >
> > > 寝る、涅槃、蛇の目線さえ観え、混沌さえも「生きながらえる」
> > >
> > > 立つことから始まり「根源的経験――無限の、未知の、脅威的なものとみえているひろがりのただなかに「投げこまれた」と感じること」ことから立ち続け戦闘モードに常に突入して、恥じず、止まず、絶望し、絶叫しつづける、立位の宗教、文明、思想、に毒されたところから、坐る

立位の宗教

対象化して拝む

信仰

信じて仰ぐ

対象化することは他化すること

そこがオットーのいうところの「絶対他者」

問答無用、絶対不可解

そこに救いをもとめる

ユダヤの時代から、いやさそのまえのヘブライの時代から

対象化した他者なる神とは犠牲と贈与の取引関係

そんなんが宗教なんだね

従順でなくんば罰を、鉄槌をくらわす

そんなんが神さまなんだね

ちっとも絶対不可解でもなく、単なる取引

取引ゆえにわかりやすい

ところが、従順にしても苦境に「立た」される

ヨブ記

キリストも引っ「立て」られて、磔になる

だから対象的な神は、絶対他者にして不可解

その不可解を解こうとする

神学、哲学

最初から出発点が間違っている

とはいわんも

ロゴスから始ったんぢゃしょうも暗迷

言語道断の横超も即非もない

いやさ、ちっとはあるかもしれんが、みんな異端、火炙り

さういう文化テクストをこよなく崇め奉るのはどういうもんか

> > > 坐位においては、坐して、寝て、観る、止観、重心を低く、さらに低くして、場合によっては地にさえめり込む
> > >
> > > 立位においては、ゲリラ戦、原爆、終末論の黙示録、天上一神教の「絶対他者」への「おののき」も「よろこび」も、聖も俗も、「小悪魔の振子」に過ぎない
> >
> > せめて「小悪魔」は卒業しましょう
>
> ところで・・
>
> 氷上英廣著「ニーチェの顔」岩波文庫
>
> この本は肩が凝らない、文体も秀逸で、ニーチェの言葉を引いた、こういうのがある、
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 『孤独な者曰く。−−−友人もなく、本もなく、義務もなく、情熱もなく、孤独の状態でいれば、そうした報酬として自己と本姓への、きわめて深い沈潜のあの一五分という収穫にありつく。退屈に対して完全に防御する者は、自己に対して防御する者だ。自己の最も内奥の泉から湧き出る最も強力な賦活飲料を、彼は決して飲むことがないだろう』(漂泊者)
>
> 『病者の認識について―――長いこと恐ろしく病苦に責めさいなまれ、しかしそれにも拘わらず知性が曇らない病人の状態は、認識に役だつところがあるものだ。ーーー深い孤独、一切の義務や習慣からの突然の解放といったものは、総じてさまざまな知性の恩恵を生みだすものだ・・』(曙光)
>
> 『重い病気に悩むものは、彼の状態から、恐るべき冷酷さをもって外部の事物を見渡す。
>
> ーーー健康者の見るばあいには通常事物を蔽っているあのすべての小さな欺瞞的な妖かし(あやかし)が、病人の眼には消えてしまう。ーーーいや、病人自身がみずからの眼前にすげなく、むきだしになって横たわっている。もし彼がこれまでなんらかの危険な幻想の中で生きてきたとすれば、苦痛によるこの最高の覚醒は、彼をそこから引きずりだす方法、あるいは唯一の方法であるかもしれない。・・・苦痛に対抗しようとする知性の異常な緊張の結果、彼がいま眺める一切は、ひとつの新しい光の中に輝くことになる。・・・
>
> 健康者が何の顧慮もなくさまよっている快適な暖かい霧の世界を、病人は軽蔑の念をもって想う。彼が以前に楽しんだ最も高貴な、最も好もしい幻想をも、軽蔑の念をもって思いかえす』
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> いかがでしょう?

といったお陰か、今日もいい言葉に出会った

日々是好日にして、口実かも

曰く

「死中得活」

久松真一の書

この死中得活にはお地蔵様はいない

他者に願う活ではない

ねがわんでもよろしい

自ずから得る活

そこが要点

ニーチェの病中得活もまた

凶の又凶

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54872] 食えぬ剃刀を食って火を吐くマジシャンもいる 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/26(Sat) 09:22  

もまひくひANNEX−Ω   訪問者数:11776003(今日:231/昨日:965)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/26(Sat)08:10 先勝(戊寅) 旧暦 2/24 月齢 23

獅子舞ひのみぬち吹きぬく風一陣

剃刀ー鉈ー棒

緻密ー隙間

重心の高ー低


ある人が云った、わが青年時代に

剃刀になるな、鉈になれ

剃刀は切れ味がよいが、脆い

草は切れても、大樹は斬れぬ

大樹を斬って世界を開け

鉈になれたか?

鉈になる必要もない

今は棒、木偶の棒

去年今年貫く棒の如きもの

棒であればよろしい

剣術使い、棒使い

果し合いで武蔵が櫂を削った棒をぶらさげて舟からあがる

一分の隙もない物干し竿の長刀を構えた小次郎が駆け寄ってくる

撃ち砕く

なにか象徴的な風景だ

机龍之介と宇津木兵馬の御岳山御前試合

兵馬の切っ先に殺気が舞う

龍之介の棒が兵馬を撃ち砕く

殺気が殺気を呼ぶ

さういうこともある

殺気の勝負はせんでよろしい棒

去年今年貫く棒の如きもの

人間に対している、交わっているといろいろな人間がいる

緻密にして剃刀のような人間、その喋り方、その書き物、その本に剃刀が閃く

鉈のような人間、その大雑把で独自性の味わいの斬れ味が光る


野太いもの

風が吹きつけても、どこ吹く風

構えも、立ち居振る舞いも、隙間だらけにして、動いても微動だにしない

身内を風が吹き抜けていく


緻密に織られたテキスト

風に煽られる

煽られて破ける

千切られて飛んでゆく

隙間だらけのテキスト

泰然示寂と残る

さう云う風が、たとえば、鈴木大拙にはある

大拙の盟友の幾多郎、しなやかさがある

あれはお経だ、お経にして哲学

絶対矛盾的自己同一

なんどもなんどもくりかえしくりかえし出てきていいかげんやになる

やになるからほっぽておく

しかし、なんねんたってもみぬちにしみこんだものはしみこんだまま

即非

大拙のコトバだ

横超

スパッと云っておしまい

でも、衝撃的に残る

みぬちの底、重心の最も低いところに

泰然自若


記憶でもなんでもない

赤肉団下徹底して、生きている

剃刀

切れ味は流石

切れ味が鈍れば牛革の幅広バンドでパタパタと剃刀を研ぐ

むかしの床屋さんの風景

でも、そのうち忘れてしまう

あまりの緻密さ、その編目の一々

どっかにすっとんでいってしまう



大雑把に覚えている

世界の観方や世界史の観方の回転、転換

だけど大拙の棒や、幾多郎の撓う竹刀のようには身につかぬ

身に着いたというのも、おこがましい

自己卑下するのもおこがましい

だれにでも、身に着く

その気があれば

ところが、剃刀の連中は鼻から身に着ける気がない、らしい

というか、気づきもしない、のかもしれぬ

気がないのは、ああいう風なもん、棒めく大拙風にしろ、やや鉈めく井筒風にしろ

ああいう風なもんを剃刀で相対化してしまう

曰く、神秘主義

主義でもなんでもない

なんでも主義にするから、

主義の虜になってにっちもさっちもいかなくなって脆くも砕け散る

入って観なさい

入口でうぢうぢしている

剃刀の頭脳をもってふらついていたデリダ

生きるか、死ぬか

それが問題だ

シェイクスピア

食えるか、食えぬか

それが問題だ

100円うどん

食えぬ剃刀を食って火を吐くマジシャンもいる

春風とともに魔術師やって来る






やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54871] 健康者が何の顧慮もなくさまよっている快適な暖かい霧の世界を、病人は軽蔑の念をもって想う。彼が以前に楽しんだ最も高貴な、最も好もしい幻想をも、軽蔑の念をもって思いかえす』 *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★ いかがでしょう?Re:[54870] 臭い排泄物さえ、排泄仏 だからといって、床の間にうんこをするやつはいない せめて「小悪魔」は卒業しましょう Re:[54869] 坐位においては、坐して、寝て、観る、止観、重心を低く、さらに低くして、場合によっては地にさえめり込む 立位においては、ゲリラ戦、原爆、終末論の黙示録、天上一神教の「絶対他者」への「おののき」も「よろこび」も、聖も俗も、「小悪魔の振子」に過ぎない 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/25(Fri) 17:21  


何かが抜けて何かが過剰春の昼

> 小人大挙して右往左往や精霊会
>
> > ここあねゆANNEX−Ω   訪問者数:11775087(今日:280/昨日:1469)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/25(Fri) 07:06 赤口(丁丑) 旧暦 2/23 月齢 22.4 下弦
> >
> > ここ一ヶ月ほど書きなぐり喋くらかした気づきへ多少の視線をなげてみよう
> >
> > まず井筒俊彦への再会からことははじまった
> >
> > そこへあの鼠君がちょろちょろして、割れ目割れ目へ目を付けて、
> > なぜあのようなブロック崩し、モザイクのタイルをひっぺがし、
> > 根っこを齧って騙し画のようなふるまいをするのであらうか
> >
> > なぜデリダはあのようなふらふら彷徨するのであらうか、それも砂漠を
> >
> > それを解く鍵は「現象学派」鼠君が漏らした「現象学派」
>
> 現象学や昨今の西欧思想のキーワードは
>
> 脱構築 脱中心化、うんぬん
>
> してわが法においては古来より
>
> 解脱
>
> 畢竟、構築物を物神化して崇めて、中心化して踊りまくり戦闘化したもんが、いまごろになって脱構築 脱中心化、うんぬんのゲリラ化か

解脱は戦闘化しない

> なにかを中心に据えて構築化してきたからこそ、脱構築 脱中心化、という「運動」、戦闘モードのゲリラ戦なる
>
> してそこにおいていまだに、脱構築 脱中心化、できずに砂漠の彷徨がつづく
>
> かつてユダヤの独善的選民的一神教を排除した「救済」のキリスト一神教の思想が己を中心となし
>
> その中心となったユダヤ・キリスト一神教的思想文明が、もろもろの外部を排除してきた
>
> それが今や、ユダヤ・キリスト一神教的思想の中心化する己自身の毒素に気づいて、
>
> 必死で解毒、いわば自己免疫症に陥った風情であっちへふらふら、こっちへふらふら
>
> > だうも、管見によれば、めったやたらと盲目的西欧崇拝の気配はいまだに濃い
>
> どの毒に酔っていまだ覚めざる一神教エピゴーネンらは、その解毒思想をまた崇め奉る
>
> > もっとも、現代の政治制度や技術文明や「哲学」そのものも西欧由来であり、その反省においてものを考えれば、西欧の「知の巨人」らを追っかけて、その虜となり果て、崇拝するむきが多くなるのも、ゆえ無しとはしない
>
> かつて「大菩薩峠を読む」今村仁司、エピローグの「脱中心化」をよしとしてあげたが、あれも、やっぱり、エピゴーネンらのその解毒思想のキーワードを適用したもんだけのもんかもしれない
>
> 「大菩薩峠」には、もともと中心化がないのだから、「脱中心化」する必要もなければ、そのようにを「読む」必要もない

今村仁司著「現代思想の系譜学」筑摩書房 1986年 定価1800円のところゾッキ本で100円

> 総じて1800円以上の価値もあらうちうもんでよみすすめる2006/04/05、○もあれば△、Xも
>
> ところが連続XXXXXXとうんざりするところで躓くのは、2006/04/05も2022/03/24も同じフーコーのところ
>
> エピステモロジーの秀逸性をいうまではええが、フーコーへの崇拝的な姿勢にはうんざりする
>
> ま、惚れれば、痘痕も靨、あばたもえくぼ
>
> なんでフーコーが「知の考古学」をやらなあかんかったのんか、そこの毒、と解毒への目線がない
>
> 今村自身が毒に犯されているから、解毒行為さえ、新しい発見、領域開拓、知の革新、と見えるのであろう
>
> これが、なべての知の現状なんだから、いまさら今村を責めるつもりもないが・・
>
> いくら自分らの視野の広さをドイツフランス思想やどこそこそで誇ってみたところで、その足元が暗くて見えていないのが、大方の我が国の西欧哲学徒、経済学徒、評論家のならい
>
> > そこで、また今回の出発点の井筒にもどれって直感的に云えば
> >
> > 井筒の言説、ふるまいの重心は低い
>
> デリダやその一派を崇拝するむきも多い
>
> そういう中で、井筒のデリダ読みはおもしろい、わははは、時々わらってしまう
>
> 井筒はやっぱり「大人」だ、タイジン
>
> デリダを腐さない、場合によっては「魅せられ」とさえいう
>
> その口で、ほとんどの言説の一節の最後でちくりとやる、ちくり、チクリ
>
> 「この存在論的焦燥感。そこに一種のロマンチシズムがあることは確かだけれど。」
>
> わはは、とわらわざるえぬ。
>
> 井筒はデリダが存在論を脱構築すらできていない、その幻影、痕跡をもとめて砂漠をふらついていることを、とっくのとうに見抜いている
>
> だからといって、見下しもせんで、淡々と「魅せられ」て、大人の対応、分析、評論をなす
>
> ふらつき彷徨のデリダも大人で、井筒へ手紙で応える
>
> 畢竟、デリダも脱構築はできていないことは百も承知で、いやさ、それ目指すその途上の止むことのない「終末」のない、脱構築運動の営為こそが「生きる」ことであり「書く」ことであるから
>
> それは、中心的思想構築、その毒への不断の解毒行為
>
> しかし、その解毒行為そのものがまた毒となってもどってくる
>
> いわば無間地獄ね
>
> 砂漠の太陽に灼けて亡くなったデリダの冥福でも祈ろう
>
>
> > 鼠君やそれらに類する西欧「哲学」「現象学徒」諸君に比して、断然に重心が低い
> >
> > この重心が低いことはなべて東洋の、さらにはこの国、日本の文化にもある重心の低さではないか
> >
> > かのデリダの彷徨、砂漠にしろなんにしろ、ふらふらと立ってさ迷い歩く
> >
> > オットー的な一神教的な「おののき」や「祈り」「絶望」の絶叫は、なべて諸手を挙げて顔は天を仰ぐ
> >
> > キリストは十字架に垂直、あるは、おろされるにしても傾ぐ程度で、やっぱり立っている

わたしの家のダリのキリストは天空に横に浮かんで下を見下ろしている

サルバドール・ダリらしい

わたしの家のマルク・シャガール 挿画本『以心伝心』 アラゴン・シャガールの自筆

やはり空中に男女一体になって浮かんでいる

なぜ、浮かべるのだろう?


> > どうも、文化的な重心は西欧においては高く、日本においては低い
> >
> > 坐の文化
>
> 西も東も些末にして無い
>
> ようは、食えるか食えぬか、毒や解毒剤ではなく、ちゃんと栄養になるか
>
> 上も下も些末にして無い
>
> 地獄に仏
>
> 一神教の絶対救いのない地獄に比して、こちらの地獄には仏もいる
>
> 不寛容と寛容
>
> そこの違いね
>
>
> それにしても地獄に仏のお使いの地蔵菩薩は立ち姿
>
> 坐した地蔵には会わないね
>
> なんでだろ?
>
> > 法隆寺の仏像、立ち姿が多い、シルクロードをへてヘレニズム的影響
> >
> > やや下って、広隆寺の弥勒菩薩、椅子に座っている、ロダンの考える人の原型か
> >
> > その後の藤原、平安、鎌倉時代の仏像になれば、圧倒的に坐形が多い
> >
> > なかには四天王とか仁王とか立像もあるが、それはインドのヒンズー教の神々の化身像
> >
> > 釈迦坐像、室生寺なんぞ仏像の白眉
> >
> > タイや東南アジアには坐像もさることながら、寝釈迦、涅槃像も多い
> >
> > 坐る、寝る、立つ
> >
> > 立つこと、人間が直立することによって宗教も文明も始まった、とはエリアーデの「世界宗教史」の初っ端の出だし、曰く
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > 人はめざめているときしか、直立の姿勢を保つことはできない。その直立姿勢のおかげで、空間はヒト以前の無縁な構造ーー「上」−「下」を貫く中心軸から水平にひろがる四方向ーーに組織された。言いかえれば、空間は人体の周囲に、前後、左右、上下にひろがるものとして組織されるのである。方向づけ(オリエンタツィオ)のさまざまな方法は、この根源的経験――無限の、未知の、脅威的なものとみえているひろがりのただなかに「投げこまれた」と感じることーーから生じた。なぜなら、人間は、方向づけを失うことによってもたらされる混乱状態に生きながらえることはできないからである。「中心」の周囲に位置づけられたこの空間体験は、領土、集落、住居の、範例的な分割と配置の重要性と、その宇宙的シンボリズムの重要性を説明する。
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > ここから議論は百裂万化する
> >
> > 象徴論、
>
> エリアーデ的象徴、西欧思想的構築を解するにいちいち納得する
>
> 上昇と墜落
>
> 山と川、水
>
> コスモスと混沌
>
> しかし、しかし、混沌は老荘の太一にして玄の又玄
>
> 赤肉団上一無位真人
>
> この臨済の提唱の最後は乾屎橛
>
> 糞掻棒
>
> これが仏だと振り回す
>
> して、この糞掻棒、乾屎橛をお祀りするか?
>
> しません
>
> 象徴でさえ一神教の毒とは違う
>
> 臭い排泄物さえ、排泄仏
>
> だからといって、床の間にうんこをするやつはいない
>
> ん?
>
> いるかも
>
> > ロゴス論、宗教論、技術論、科学論、文明論、哲学論、歴史論、現象論、構造論、政治論、国際関係論、地政学、安全保障論などなど百花繚乱
> >
> > それぞれがそれぞれの「立場」でそれぞれを論じ、場合はよっては衝突する
> >
> > 「立場」というのも「立つ」「場」
> >
> > 「立つ」ことは、戦闘モードに入ることだ、とは、ハイデッガーか
> >
> > たしかに、座して待つな、立ち上がれ!とか、日常茶飯から竹槍戦、ゲリラ戦、核大戦まで、みな戦闘モード

ゾッキ本100円「現代思想の系譜学」で今村仁司曰く、丁寧にわかりやすく・・

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

人間が世界に関係する行為が、ことごとく

『立たせる』

『仕立て』

『役立ち』

の相で了解され、実行される事態を、ハイデッガーは

『組み―立て』

とよぶ。

挑発して、まっすぐ立たせ、そして垂直に立った諸物をまとめ上げ。集中させ、秩序化=中心化しいていく行為は、近代技術の本性である。技術の本性が近代的人間の本性を決定する。

『すべての存在者は、いまや、対象として現実的なものであるか、それとも対象化して活動するものである。』(ハイデッガー「ニーチェの言葉」)・・・・

『自分の向うへと、且つ、自分の方へと、立てること』『世界が像となり、人間が主観となる』こと、これが近代の本質である(ハイデッガー「世界像の時代」)。

・・・・・・

『立てる――立たせる』を中心に世界に関係する行為は、形而上学の本質である。

・・・・・・

対象化がもつ暴力性は古代から近代まで一貫している。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

そう、だから、その「対象化中心主義を理性と実践の両面であばき出し」脱構築とか、脱中心化を、形而上学のみならず、社会、歴史、思想、実践で推し進めていかなければならない、ということになる

> > 日常茶飯の宗教でも哲学でも
> >
> > 現象学というのはどうもゲリラ戦を展開する
> >
> > そもそもが現象学を生みだす、西欧思想というものが、立位にして、坐す東洋に対して目線の高いものいいをする
> >
> > しかし、その立位というのはまことに重心が高く、安定しない
> >
> > つねに右往左往、腰が定まらない
> >
> > 坐す、微動だにしない
> >
> > 寝る、涅槃、蛇の目線さえ観え、混沌さえも「生きながらえる」
> >
> > 立つことから始まり「根源的経験――無限の、未知の、脅威的なものとみえているひろがりのただなかに「投げこまれた」と感じること」ことから立ち続け戦闘モードに常に突入して、恥じず、止まず、絶望し、絶叫しつづける、立位の宗教、文明、思想、に毒されたところから、坐る
> >
> > 坐位においては、坐して、寝て、観る、止観、重心を低く、さらに低くして、場合によっては地にさえめり込む
> >
> > 立位においては、ゲリラ戦、原爆、終末論の黙示録、天上一神教の「絶対他者」への「おののき」も「よろこび」も、聖も俗も、「小悪魔の振子」に過ぎない
>
> せめて「小悪魔」は卒業しましょう

ところで・・

氷上英廣著「ニーチェの顔」岩波文庫

この本は肩が凝らない、文体も秀逸で、ニーチェの言葉を引いた、こういうのがある、

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

『孤独な者曰く。−−−友人もなく、本もなく、義務もなく、情熱もなく、孤独の状態でいれば、そうした報酬として自己と本姓への、きわめて深い沈潜のあの一五分という収穫にありつく。退屈に対して完全に防御する者は、自己に対して防御する者だ。自己の最も内奥の泉から湧き出る最も強力な賦活飲料を、彼は決して飲むことがないだろう』(漂泊者)

『病者の認識について―――長いこと恐ろしく病苦に責めさいなまれ、しかしそれにも拘わらず知性が曇らない病人の状態は、認識に役だつところがあるものだ。ーーー深い孤独、一切の義務や習慣からの突然の解放といったものは、総じてさまざまな知性の恩恵を生みだすものだ・・』(曙光)

『重い病気に悩むものは、彼の状態から、恐るべき冷酷さをもって外部の事物を見渡す。

ーーー健康者の見るばあいには通常事物を蔽っているあのすべての小さな欺瞞的な妖かし(あやかし)が、病人の眼には消えてしまう。ーーーいや、病人自身がみずからの眼前にすげなく、むきだしになって横たわっている。もし彼がこれまでなんらかの危険な幻想の中で生きてきたとすれば、苦痛によるこの最高の覚醒は、彼をそこから引きずりだす方法、あるいは唯一の方法であるかもしれない。・・・苦痛に対抗しようとする知性の異常な緊張の結果、彼がいま眺める一切は、ひとつの新しい光の中に輝くことになる。・・・

健康者が何の顧慮もなくさまよっている快適な暖かい霧の世界を、病人は軽蔑の念をもって想う。彼が以前に楽しんだ最も高貴な、最も好もしい幻想をも、軽蔑の念をもって思いかえす』

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

いかがでしょう?


やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54870] 臭い排泄物さえ、排泄仏 だからといって、床の間にうんこをするやつはいないRe:[54869] 坐位においては、坐して、寝て、観る、止観、重心を低く、さらに低くして、場合によっては地にさえめり込む 立位においては、ゲリラ戦、原爆、終末論の黙示録、天上一神教の「絶対他者」への「おののき」も「よろこび」も、聖も俗も、「小悪魔の振子」に過ぎない 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/25(Fri) 13:36  


小人大挙して右往左往や精霊会

> ここあねゆANNEX−Ω   訪問者数:11775087(今日:280/昨日:1469)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/25(Fri) 07:06 赤口(丁丑) 旧暦 2/23 月齢 22.4 下弦
>
> ここ一ヶ月ほど書きなぐり喋くらかした気づきへ多少の視線をなげてみよう
>
> まず井筒俊彦への再会からことははじまった
>
> そこへあの鼠君がちょろちょろして、割れ目割れ目へ目を付けて、
> なぜあのようなブロック崩し、モザイクのタイルをひっぺがし、
> 根っこを齧って騙し画のようなふるまいをするのであらうか
>
> なぜデリダはあのようなふらふら彷徨するのであらうか、それも砂漠を
>
> それを解く鍵は「現象学派」鼠君が漏らした「現象学派」

現象学や昨今の西欧思想のキーワードは

脱構築 脱中心化、うんぬん

してわが法においては古来より

解脱

畢竟、構築物を物神化して崇めて、中心化して踊りまくり戦闘化したもんが、いまごろになって脱構築 脱中心化、うんぬんのゲリラ化か

なにかを中心に据えて構築化してきたからこそ、脱構築 脱中心化、という「運動」、戦闘モードのゲリラ戦

してそこにおいていまだに、脱構築 脱中心化、できずに砂漠の彷徨

かつてユダヤの独善的選民的一神教を排除した「救済」のキリスト一神教の思想が己を中心となし

その中心となったユダヤ・キリスト一神教的思想文明が、もろもろの外部を排除してきた

それが今や、ユダヤ・キリスト一神教的思想の中心化する己自身の毒素に気づいて、

必死で解毒、いわば自己免疫症に陥った風情であっちへふらふら、こっちへふらふら

> だうも、管見によれば、めったやたらと盲目的西欧崇拝の気配はいまだに濃い

どの毒に酔っていまだ覚めざる一神教エピゴーネンらは、その解毒思想をまた崇め奉る

> もっとも、現代の政治制度や技術文明や「哲学」そのものも西欧由来であり、その反省においてものを考えれば、西欧の「知の巨人」らを追っかけて、その虜となり果て、崇拝するむきが多くなるのも、ゆえ無しとはしない

かつて「大菩薩峠を読む」今村仁司、エピローグの「脱中心化」をよしとしてあげたが、あれも、やっぱり、エピゴーネンらのその解毒思想のキーワードを適用したもんだけのもんかもしれない

「大菩薩峠」には、もともと中心化がないのだから、「脱中心化」する必要もなければ、そのようにを「読む」必要もない

総じて1800円以上の価値もあらうちうもんでよみすすめる2006/04/05、○もあれば△、Xも

ところが連続XXXXXXとうんざりするところで躓くのは、2006/04/05も2022/03/24も同じフーコーのところ

エピステモロジーの秀逸性をいうまではええが、フーコーへの崇拝的な姿勢にはうんざりする

ま、惚れれば、痘痕も靨、あばたもえくぼ

なんでフーコーが「知の考古学」をやらなあかんかったのんか、そこの毒、と解毒への目線がない

今村自身が毒に犯されているから、解毒行為さえ、新しい発見、領域開拓、知の革新、と見えるのであろう

これが、なべての知の現状なんだから、いまさら今村を責めるつもりもないが・・

いくら自分らの視野の広さをドイツフランスやどこそこそで誇ってみたところで、その足元が暗くて見えていないのが、大方の我が国の西欧哲学徒、経済学徒、評論家のならい

> そこで、また今回の出発点の井筒にもどれって直感的に云えば
>
> 井筒の言説、ふるまいの重心は低い

デリダやその一派を崇拝するむきも多い

そういう中で、井筒のデリダ読みはおもしろい、わははは、時々わらってしまう

井筒はやっぱり「大人」だ、タイジン

デリダを腐さない、場合によっては「魅せられ」とさえいう

その口で、ほとんどの言説の一節の最後でちくりとやる、ちくり、チクリ

「この存在論的焦燥感。そこに一種のロマンチシズムがあることは確かだけれど。」

わはは、とわらわざるえぬ。

井筒はデリダが存在論を脱構築すらできていない、その幻影、痕跡をもとめて砂漠をふらついていることを、とっくのとうに見抜いている

だからといって、見下しもせんで、淡々と「魅せられ」て、大人の対応、分析、評論をなす

ふらつき彷徨のデリダも大人で、井筒へ手紙で応える

畢竟、デリダも脱構築はできていないことは百も承知で、いやさ、それ目指すその途上の止むことのない「終末」のない、脱構築運動の営為こそが「生きる」ことであり「書く」ことであるから

それは、中心的思想構築、その毒への不断の解毒行為

しかし、その解毒行為そのものがまた毒となってもどってくる

いわば無間地獄ね

砂漠の太陽に灼けて亡くったデリダの冥福でも祈ろう


> 鼠君やそれらに類する西欧「哲学」「現象学徒」諸君に比して、断然に重心が低い
>
> この重心が低いことはなべて東洋の、さらにはこの国、日本の文化にもある重心の低さではないか
>
> かのデリダの彷徨、砂漠にしろなんにしろ、ふらふらと立ってさ迷い歩く
>
> オットー的な一神教的な「おののき」や「祈り」「絶望」の絶叫は、なべて諸手を挙げて顔は天を仰ぐ
>
> キリストは十字架に垂直、あるは、おろされるにしても傾ぐ程度で、やっぱり立っている
>
> どうも、文化的な重心は西欧においては高く、日本においては低い
>
> 坐の文化

西も東も些末にして無い

ようは、食えるか食えぬか、毒や解毒剤ではなく、ちゃんと栄養になるか

上も下も些末にして無い

地獄に仏

一神教の絶対救いのない地獄に比して、こちらの地獄には仏もいる

不寛容と寛容

そこの違いね


それにしても地獄に仏のお使いの地蔵菩薩は立ち姿

坐した地蔵には会わないね

なんでだろ?

> 法隆寺の仏像、立ち姿が多い、シルクロードをへてヘレニズム的影響
>
> やや下って、広隆寺の弥勒菩薩、椅子に座っている、ロダンの考える人の原型か
>
> その後の藤原、平安、鎌倉時代の仏像になれば、圧倒的に坐形が多い
>
> なかには四天王とか仁王とか立像もあるが、それはインドのヒンズー教の神々の化身像
>
> 釈迦坐像、室生寺なんぞ仏像の白眉
>
> タイや東南アジアには坐像もさることながら、寝釈迦、涅槃像も多い
>
> 坐る、寝る、立つ
>
> 立つこと、人間が直立することによって宗教も文明も始まった、とはエリアーデの「世界宗教史」の初っ端の出だし、曰く
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 人はめざめているときしか、直立の姿勢を保つことはできない。その直立姿勢のおかげで、空間はヒト以前の無縁な構造ーー「上」−「下」を貫く中心軸から水平にひろがる四方向ーーに組織された。言いかえれば、空間は人体の周囲に、前後、左右、上下にひろがるものとして組織されるのである。方向づけ(オリエンタツィオ)のさまざまな方法は、この根源的経験――無限の、未知の、脅威的なものとみえているひろがりのただなかに「投げこまれた」と感じることーーから生じた。なぜなら、人間は、方向づけを失うことによってもたらされる混乱状態に生きながらえることはできないからである。「中心」の周囲に位置づけられたこの空間体験は、領土、集落、住居の、範例的な分割と配置の重要性と、その宇宙的シンボリズムの重要性を説明する。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> ここから議論は百裂万化する
>
> 象徴論、

エリアーデ的象徴、西欧思想的構築を解するにいちいち納得する

上昇と墜落

山と川、水

コスモスと混沌

しかし、しかし、混沌は老荘の太一にして玄の又玄

赤肉団上一無位真人

この臨済の提唱の最後は乾屎橛

糞掻棒

これが仏だと振り回す

して、この糞掻棒、乾屎橛をお祀りするか?

しません

象徴でさえ一神教の毒とは違う

臭い排泄物さえ、排泄仏

だからといって、床の間にうんこをするやつはいない

ん?

いるかも

> ロゴス論、宗教論、技術論、科学論、文明論、哲学論、歴史論、現象論、構造論、政治論、国際関係論、地政学、安全保障論などなど百花繚乱
>
> それぞれがそれぞれの「立場」でそれぞれを論じ、場合はよっては衝突する
>
> 「立場」というのも「立つ」「場」
>
> 「立つ」ことは、戦闘モードに入ることだ、とは、ハイデッガーか
>
> たしかに、座して待つな、立ち上がれ!とか、日常茶飯から竹槍戦、ゲリラ戦、核大戦まで、みな戦闘モード
>
> 日常茶飯の宗教でも哲学でも
>
> 現象学というのはどうもゲリラ戦を展開する
>
> そもそもが現象学を生みだす、西欧思想というものが、立位にして、坐す東洋に対して目線の高いものいいをする
>
> しかし、その立位というのはまことに重心が高く、安定しない
>
> つねに右往左往、腰が定まらない
>
> 坐す、微動だにしない
>
> 寝る、涅槃、蛇の目線さえ観え、混沌さえも「生きながらえる」
>
> 立つことから始まり「根源的経験――無限の、未知の、脅威的なものとみえているひろがりのただなかに「投げこまれた」と感じること」ことから立ち続け戦闘モードに常に突入して、恥じず、止まず、絶望し、絶叫しつづける、立位の宗教、文明、思想、に毒されたところから、坐る
>
> 坐位においては、坐して、寝て、観る、止観、重心を低く、さらに低くして、場合によっては地にさえめり込む
>
> 立位においては、ゲリラ戦、原爆、終末論の黙示録、天上一神教の「絶対他者」への「おののき」も「よろこび」も、聖も俗も、「小悪魔の振子」に過ぎない

せめて「小悪魔」は卒業しましょう

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54869] 坐位においては、坐して、寝て、観る、止観、重心を低く、さらに低くして、場合によっては地にさえめり込む 立位においては、ゲリラ戦、原爆、終末論の黙示録、天上一神教の「絶対他者」への「おののき」も「よろこび」も、聖も俗も、「小悪魔の振子」に過ぎない 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/25(Fri) 08:47  

ここあねゆANNEX−Ω   訪問者数:11775087(今日:280/昨日:1469)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/25(Fri) 07:06 赤口(丁丑) 旧暦 2/23 月齢 22.4 下弦

ここ一ヶ月ほど書きなぐり喋くらかした気づきへ多少の視線をなげてみよう

まず井筒俊彦への再会からことははじまった

そこへあの鼠君がちょろちょろして、割れ目割れ目へ目を付けて、
なぜあのようなブロック崩し、モザイクのタイルをひっぺがし、
根っこを齧って騙し画のようなふるまいをするのであらうか

なぜデリダはあのようなふらふら彷徨するのであらうか、それも砂漠を

それを解く鍵は「現象学派」鼠君が漏らした「現象学派」


だうも、管見によれば、めったやたらと盲目的西欧崇拝の気配はいまだに濃い

もっとも、現代の政治制度や技術文明や「哲学」そのものも西欧由来であり、その反省においてものを考えれば、西欧の「知の巨人」らを追っかけて、その虜となり果て、崇拝するむきが多くなるのも、ゆえ無しとはしない

そこで、また今回の出発点の井筒にもどれって直感的に云えば

井筒の言説、ふるまいの重心は低い

鼠君やそれらに類する西欧「哲学」「現象学徒」諸君に比して、断然に重心が低い

この重心が低いことはなべて東洋の、さらにはこの国、日本の文化にもある重心の低さではないか

かのデリダの彷徨、砂漠にしろなんにしろ、ふらふらと立ってさ迷い歩く

オットー的な一神教的な「おののき」や「祈り」「絶望」の絶叫は、なべて諸手を挙げて顔は天を仰ぐ

キリストは十字架に垂直、あるは、おろされるにしても傾ぐ程度で、やっぱり立っている

どうも、文化的な重心は西欧においては高く、日本においては低い

坐の文化

法隆寺の仏像、立ち姿が多い、シルクロードをへてヘレニズム的影響

やや下って、広隆寺の弥勒菩薩、椅子に座っている、ロダンの考える人の原型か

その後の藤原、平安、鎌倉時代の仏像になれば、圧倒的に坐形が多い

なかには四天王とか仁王とか立像もあるが、それはインドのヒンズー教の神々の化身像

釈迦坐像、室生寺なんぞ仏像の白眉

タイや東南アジアには坐像もさることながら、寝釈迦、涅槃像も多い

坐る、寝る、立つ

立つこと、人間が直立することによって宗教も文明も始まった、とはエリアーデの「世界宗教史」の初っ端の出だし、曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

人はめざめているときしか、直立の姿勢を保つことはできない。その直立姿勢のおかげで、空間はヒト以前の無縁な構造ーー「上」−「下」を貫く中心軸から水平にひろがる四方向ーーに組織された。言いかえれば、空間は人体の周囲に、前後、左右、上下にひろがるものとして組織されるのである。方向づけ(オリエンタツィオ)のさまざまな方法は、この根源的経験――無限の、未知の、脅威的なものとみえているひろがりのただなかに「投げこまれた」と感じることーーから生じた。なぜなら、人間は、方向づけを失うことによってもたらされる混乱状態に生きながらえることはできないからである。「中心」の周囲に位置づけられたこの空間体験は、領土、集落、住居の、範例的な分割と配置の重要性と、その宇宙的シンボリズムの重要性を説明する。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

ここから議論は百裂万化する

象徴論、ロゴス論、宗教論、技術論、科学論、文明論、哲学論、歴史論、現象論、構造論、政治論、国際関係論、地政学、安全保障論などなど百花繚乱

それぞれがそれぞれの「立場」でそれぞれを論じ、場合はよっては衝突する

「立場」というのも「立つ」「場」

「立つ」ことは、戦闘モードに入ることだ、とは、ハイデッガーか

たしかに、座して待つな、立ち上がれ!とか、日常茶飯から竹槍戦、ゲリラ戦、核大戦まで、みな戦闘モード

日常茶飯の宗教でも哲学

現象学というのはどうもゲリラ戦を展開する

そもそもが現象学を生みだす、西欧思想というものが、立位にして、坐す東洋に対して目線の高いものいいをする

しかし、その立位というのはまことに重心が高く、安定しない

つねに右往左往、腰が定まらない

坐す、微動だにしない

寝る、涅槃、蛇の目線さえ観え、混沌さえも「生きながらえる」

立つことから始まり「根源的経験――無限の、未知の、脅威的なものとみえているひろがりのただなかに「投げこまれた」と感じること」ことから立ち続け戦闘モードに常に突入して、恥じず、止まず、絶望し、絶叫しつづける、立位の宗教、文明、思想、に毒されたところから、坐る

坐位においては、坐して、寝て、観る、止観、重心を低く、さらに低くして、場合によっては地にさえめり込む

立位においては、ゲリラ戦、原爆、終末論の黙示録、天上一神教の「絶対他者」への「おののき」も「よろこび」も、聖も俗も、「小悪魔の振子」に過ぎない












やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54868] つねに他者のまなざしを意識していうから己自身が徹底しない オットーにしてもデリダにして、他者まるだしで、多謝 あの定言命令絶叫の秘密がまるだしだ、尻尾が観得て多謝、他者 これはどういうことかね? ああいう彷徨が咆哮になって言葉が権力に化す そういう実態において「政治」や「共同体」へ身を挺す ご冗談でしょ? 鼠君もこのエピゴーネンかもしれない Re:[54867] 棒でぶん殴って目を覚ませてあげたいが、時空の彼方だから、そうもいかぬ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/23(Wed) 16:07  

草刈りの草もろともに這える蛇

> うれもるしANNEX−Ω   訪問者数:11771782(今日:435/昨日:1532)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/20(Tue) 07:55 先負(甲戌) 旧暦 2/20 月齢 19.4
>
> 粉飾の身もてあれたり七面鳥 2002/12/26(木)大沢 上1
>
> 12/25(水)北上市Book Bargain \400.-購入とある
>
> 早速、花巻大沢温泉の上1、これは一番のお気に入りの部屋

「お気に入り」芳しい言葉ぢゃない、最近のネット言葉に毒されて

一番気に入っていた部屋

> 宮沢賢治も愛した老舗の休館、露天風呂を見下ろす二階の角部屋

角部屋だから一方で露天風呂の、ああ、混浴の、男女も見渡せれば、他方の窓の眼下はせせらぎで川鴉が川面を飛ぶ

> ここがとれなければ、とれるまで待って長逗留したもの

そこにひっくり返って積んできた、あるは途中で手に入れきたもんを片っ端から読みまくる

> 長いときは一ヶ月

基本は自炊なるも、やはぎなる食堂もあり、メモにやはぎB定食ひれかつひっつみ、とはあるものの値段がわからない

くだらんとおもったことでも、メモしておく価値はあらうちうもんだね

> そこから銀河鉄道に沿って遠野物語の早池峰や河童淵

千葉周作が育った千葉家、壮大な石垣のうえの文化財旧家

千葉県と岩手県、意外なつながりがあっておもしろい

だいたいが黒潮に乗って南方渡来人が点々と岬々へ棲みつく

沖縄、鹿児島、紀伊、伊豆、千葉、そして東北の岬にも

だんだん、海岸から陸の中へ進出してくる

そこで、北方渡来人とも出会う

いわば象徴的に云えば、憑依した巫文化と、瞑想の禅文化の出会い、霊的には

その他にも肉的にいえば、料理もあれば、衣的にもいろいろあらうがね

馬と一緒に寝る曲り家、おもろいね

曲り家が無人で痛んでしょうがない、ただでいいから住んでくれ、畑付き

と、その後、遠野市長に招待されていったときに言われて

どうだ、住んでみるか?

いやだあ、ああいう古民家というのは、住むのも大変、維持するのはもっと大変なのよ、悠長に本なんかよんでられないわ

ごもっとも

でも、住まないとどんどん、なくなちゃう、スマン、スマナイ

> 雪深い賢治の句碑を廻って長靴の中が凍傷
>
> 山猫軒のストーブ
>
> 紫色の足の親指を摩っていると、いろいろ浮かんでくる

ふるちんで、検事の墓に詣でたことも

ランプの灯る教場も、黒板に「畑にいます」と白墨で

> 自分のことを棚に上げて申しますと・・
>
> こういう言い方は、やだねえ

なぜ、いやなのか?

なぜ、自分のことは棚にあげるのか?

これから云うことと自分のありようが矛盾している、齟齬がある

そこには目を瞑ってくださいね

と最初から予防線を張っている

この予防線は、そここに顔を出す

なぜ、予防線を張るのか?

度胸がない、読経もない

臆病だから

まるごと一貫の赤肉団上でモノ申していないから

おっかなびっくり、もしくは池シャー者―と古池にしょんべんするような言説が予感されるから

全人的とっくみあいではなく、あくまでのてめえの衣にしがみついて、肉の舌だけがぺろぺろと喋りまくる

それも、己の言説ではなしに、ほとんどの場合が「自分を棚に上げた」他人の言説

だから、たいていの場合に本人は講演料や稿料で身になるかも知らんが、聴衆読者に身にもならんし実にもならん

身につかないことにお金をつかっちゃダメ

母のコトバ

身に着くもんの最たるもんは衣類、食物

で、本は?

身に着けばいいが、身につかぬ本はダメ

少年ケニアとか少年探偵団とかはダメ

小学一年生とかはOK

まあ、さういうことね



> それはとてもむすかしいことなんですが・・・
>
> こういう言い方も、やだねえ
>
> 私の立場からもうしあげますと・・・
>
> ますます、いやだねえ
>
> なになにではない。そうではなくて・・・・
>
> 反吐がでそうなる
>
> まことにこういうものいいは、思想家とか哲学者とか評論家と称する輩に多く、果ては宗門の宗教家、あるいはその物まね言説、翻訳家にも多い
>
> 読む気がしなくなる
>
> そもそもが、思想、哲学、評論、宗教なんぞは、自分を棚に上げたりして、云えるもんぢゃない
>
> いえるとしたら、そりゃ、似て非なるものであり、二流未満のものであろう
>
> 立場にしても同様
>
> 立場、立場で思想、哲学、評論、宗教なのかね
>
> もっと広げりゃ、政治でも同じ
>
> 野党の立場から申す政治なんぞ、政治でもなんでもない
>
> そこがわからん輩が政治や思想や哲学や宗教や評論をやってもろくなもんぢゃないね
>
> 開口一番、これはむずかしいことなんですが・・という輩の典型は昔やったが、あれから2,30年経っても、やはり同じ感想をもたざるをえぬ
>
> そういうやつに限って
>
> しろうとのわたしがいうのもなんですが・・・

べつにくろうとのわかりきったはなしではのうて

しろうとのフレッシュな視点からの意見がいいこともある

にもかかわらず、むやみやたらにへりくだる

なんでぢゃろ?

最初から防御なのね

だから、もう、最初にこういうことをいうやつというのんは、最後まで聞いてあげても、たいしたことは言わんし書けもしない

一挙手一等足に命懸けがない

おそるおそる

いったいなにを恐れているんだろ?

>
> とか、さらに許しがたい文言もつらねる
>
> 謙遜を装った傲慢

> むずかしいことを云うおれはえらいんだぞう

傲慢にして防御

むずかしいことをいうんだからまちがっても責めないでね

口封じ

非難へのまえもっとの回避

卑怯

怯懦


> というような心根が見え隠れする
>
> そういうやつに限って、いや限らんが
>
> みなさん、なになにではありません。そうではなくて・・云々と

これは、さきにもあげた知的商売人に多い

> まことにこういうものいいは、思想家とか哲学者とか評論家と称する輩に多く、果ては宗門の宗教家、あるいはその物まね言説、翻訳家にも多い
>
> 読む気がしなくなる

とはいえ、そういう商売人にもんも買ってしまったからに読まなきゃ損、ソン

目をつぶって読む

売れっ子に多い、その売れっ子をまねした二流役者にも多い

まあ、どこもかしこもこういうものいい景色

いやがっていてはなんも読めない

読んでいるうちにある傾向が観えてきた

まず翻訳ものに多い

翻訳というのは欧米の著者の翻訳

次にそういう欧米の思想、哲学、宗教なんぞを題材にした日本の学者や評論家に多い

日本の学者や評論家に多いのは、欧米の思想家、哲学者、宗教者を金科玉条にしてエピゴーネン化した結果、口真似までするようになったのかもしれない

して、欧米ではなんでこういうものいいをするのか

その秘密を垣間見た気にさせてくれるのが、オットーやデリダ

隠し画を井筒→エリアーデ→オットーをさかのぼっていくと

オットーでは「絶対他者」とか、まさに一神教の迷妄そのものめいた言葉がでてくる

てめえらでつくりあげた絶対他者への絶対信仰

これらの心根、信仰、態度、が、まさに絶叫的な

なになにではなく。そうではなくて

・・・ねばならない

とかのもろもろの絶叫と命令をうみだすのね

そんなに息張るなよ

といっても、デリダは砂漠の彷徨をして

もう言説もぐじゃぐじゃ、愚者、愚者とはいわんも、ぐぢゃぐぢゃ

じぐざぐ、ジグザグ、あっちへふらふら、こっちへふらふら

云うそばから否定して、それをまた否定して、脱構築だか、解体構築

その行為そのものが、デリダで、おれは「現象学徒」なんだと鼠君のようにはいわんも

だうも、くえませぬ

まず、美しくない、身にもならねば、実にもならん

かたっぱしから脱構築して、ぢゃあ、一神教のあの猛進にして妄信を脱構築でけているか?

ぜんぜん、できていません

あいかわらず、あっちへふらふら、こっちへふらふら

ジグザグジグザグ、爺臭く爺臭い

他者を意識しすぎている、

つねに他者のまなざしを意識していうから己自身が徹底しない

オットーにしてもデリダにして、他者まるだしで、多謝

あの定言命令絶叫の秘密がまるだしだ、尻尾が観得て多謝、他者

これはどういうことかね?

ああいう彷徨が咆哮になって言葉が権力に化す

そういう実態において「政治」や「共同体」へ身を挺す

ご冗談でしょ?

鼠君もこのエピゴーネンかもしれない

> これまたオーバーな強調をやりだす
>
> 文体上の叫喚
>
> あのゲバ棒を振いアジ演説の演台に登ったへなちょろ
>
> 全然共感できません
>
> なんで、こうやって叫びまくるんだろう
>
> なんで、最初から自分の主張を・・・である、と平穏にいえないのだろう
>
> 「なになに」ではなく・・の「なになに」は、きっと読者、聴衆は「なになに」と思っている、と、まことに、読者聴衆を小馬鹿にした著者話者の傲慢にして独断が言底こもっている
>
> いえね、それは、だたのレトリックです。強調のレトリックなんです
>
> といおうが
>
> そういうレトリックそのものを採用するその心根に著者や話者の傲慢にして独断の馬鹿さ加減があらわである
>
> はなしのテーマや内容を「むずかしい」というのも、おのが尻尾を噛む蛇どもの高下駄ゴッコ
>
> 卑屈
>
> 謙虚めかした傲慢
>
> どこまで読者や聴衆を馬鹿にしたら気が済むんだろ
>
> まことにこういう言説に接すると躓く
>
> 鉛筆で真っ黒になった旧蔵本への書き込みをみても、最近の鼠君らのもんを見て聞いても
>
> 去年今年どころじゃねえ、世の東西古今を問わず、さういう阿呆な棒が貫いている
>
> 棒でぶん殴って目を覚ませてあげたいが、時空の彼方だから、そうもいかぬ
>
>

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54867] 棒でぶん殴って目を覚ませてあげたいが、時空の彼方だから、そうもいかぬ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/22(Tue) 08:49  

うれもるしANNEX−Ω   訪問者数:11771782(今日:435/昨日:1532)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/20(Tue) 07:55 先負(甲戌) 旧暦 2/20 月齢 19.4

粉飾の身もてあれたり七面鳥 2002/12/26(木)大沢 上1

12/25(水)北上市Book Bargain \400.-購入とある

早速、花巻大沢温泉の上1、これは一番のお気に入りの部屋

宮沢賢治も愛した老舗の休館、露天風呂を見下ろす二階の角部屋

ここがとれなければ、とれるまで待って長逗留したもの

長いときは一ヶ月

そこから銀河鉄道に沿って遠野物語の早池峰や河童淵

雪深い賢治の句碑を廻って長靴の中が凍傷

山猫軒のストーブ

紫色の足の親指を摩っていると、いろいろ浮かんでくる

自分のことを棚に上げて申しますと・・

こういう言い方は、やだねえ

それはとてもむすかしいことなんですが・・・

こういう言い方も、やだねえ

私の立場からもうしあげますと・・・

ますます、いやだねえ

なになにではない。そうではなくて・・・・

反吐がでそうなる

まことにこういうものいいは、思想家とか哲学者とか評論家と称する輩に多く、果ては宗門の宗教家、あるいはその物まね言説、翻訳家にも多い

読む気がしなくなる

そもそもが、思想、哲学、評論、宗教なんぞは、自分を棚に上げたりして、云えるもんぢゃない

いえるとしたら、そりゃ、似て非なるものであり、二流未満のものであろう

立場にしても同様

立場、立場で思想、哲学、評論、宗教なのかね

もっと広げりゃ、政治でも同じ

野党の立場から申す政治なんぞ、政治でもなんでもない

そこがわからん輩が政治や思想や哲学や宗教や評論をやってもろくなもんぢゃないね

開口一番、これはむずかしいことなんですが・・という輩の典型は昔やったが、あれから2,30年経っても、やはり同じ感想をもたざるをえぬ

そういうやつに限って

しろうとのわたしがいうのもなんですが・・・

とか、さらに許しがたい文言もつらねる

謙遜を装った傲慢

むずかしいを云うおれはえらいんだぞう

というような心根が見え隠れする

そういうやつに限って、いや限らんが

みなさん、なになにではありません。そうではなくて・・云々と

これまたオーバーな強調をやりだす

文体上の叫喚

あのゲバ棒を振いアジ演説の演台に登ったへなちょろ

全然共感できません

なんで、こうやって叫びまくるんだろう

なんで、最初から自分の主張を・・・である、と平穏にいえないのだろう

「なになに」ではなく・・の「なになに」は、きっと読者、聴衆は「なになに」と思っている、と、まことに、読者聴衆を小馬鹿にした著者話者の傲慢にして独断が言底こもっている

いえね、それは、だたのレトリックです。強調のレトリックなんです

といおうが

そういうレトリックそのものを採用するその心根に著者や話者の傲慢にして独断の馬鹿さ加減があらわである

はなしのテーマや内容を「むずかしい」というのも、尻尾を噛む蛇どもの高下駄ゴッコ

卑屈

謙虚めかした傲慢

どこまで読者や聴衆を馬鹿にしたら気が済むんだろ

まことにこういう言説に接すると躓く

鉛筆で真っ黒になった旧蔵本への書き込みをみても、最近の鼠君らのもんを見て聞いても

去年今年どころじゃねえ、世の東西古今を問わず、さういう阿呆な棒が貫いている

棒でぶん殴って目を覚ませてあげたいが、時空の彼方だから、そうもいかぬ

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54866] 丸紅警戒警報発令中!Re:[54865] いい加減と云えばいい加減 Re:[54864] 約束の反故 我の反故 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/20(Sun) 16:09  

> > よもほほえANNEX−Ω   訪問者数:11769253(今日:184/昨日:852) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/20(Sun) 09:04 先勝(壬申) 旧暦 2/18 月齢 17.4

皐芽吹いてまたもやわれの受難節

春昼や翼もがれて人となる

もぐもぐと入歯外れし餅を喰う

誤嚥してご縁なければ大丈夫

丈夫なる六尺男児草を摘む


説明が多いね

一発で云えぬものか

> 井上陽水 ♪五月の別れ
> http://www.youtube.com/watch?v=oHzbYFaetdY
>
> 裸木のあれやこれやをかの彷徨
>
>
> > 幼子やもがれし羽へ這える蝉
> >
> > 約束、約束をすると縛られる
> >
> > 約束の義務を果たさねばならん
>
> 父の三回忌
>
> 来年は母の13回忌
>
> さすれば義妹の13回忌は今年か
>
> 都会から山の端の墓苑へ向かうクルマの渋滞
>
> 渋滞車の中に霊柩車も混る

火葬場へ春渋滞の霊柩車


> 火葬場も料理屋も人数制限、5人まで4人まで
>
> 渋滞でいらいらの果ての般若心経を終えて
>
> 墓場で屯する一団
>
> 毎月誰かが死に
>
> 毎年誰かの回忌
>
> 年賀状を断ち切って
>
> 句会から逃避しても
>
> 誰かが死に
>
> 誰かが回忌
>
> 呪いと祝い
>
> 呪と祝
>
> 呪即祝
>
> 祝即呪
>
> 呪の般若
>
> 祝の般若
>
> 般若心経を唱え読む
>
> かの折れる巻物経本も天金の聖書も
>
> 寝台の下
>
> ごみに埋もれ散乱した山積
>
> 叡智散乱して山積み
>
> なにか句になりそうだ

虫干しの叡智散乱して山積み

> 苦にもなる

悪臭の春の恵みや麦畑

> 混み合うて人慮神慮の果ての花
>
> となればよけれど

芽出度くも免許皆伝椿落つ

> 裸木のあれやこれやをかの彷徨
>
> といいったところが目下の景色か
>
> 墓前の花も枯れ尽くす

彼岸入り墓前の花も枯れ尽くす

> 読経本殿の花を墓前へ移してよしとしよう
>
> 春風や孫が立てたる卒塔婆
>
> 春場所のオレオレ詐欺へ婆卒倒
>
> 屋根替の金もなくんば張るテント
>
> だんだんくだらくなる
>
> 幸魂も堕すればダサイ橋渡る
>
> 春眠の三途の川に架かる橋
>
> 種を蒔く家は墓なり掘る涙
>
> 聖にして俗なるものへカーネーション
>
> 反故せむとなすもならぬや聖五月
>
> いい加減と云えばいい加減
>
> 真面目と云えば真面目
>
> > 念頭に約束があれば念底から湧き上がる想念が中断される
> >
> > 想念が成熟する、そこを中断されて、一挙現成のなにものかが途中で萎む
> >
> > だから、約束はやめよう
> >
> > 刹那刹那の縁があれば、それでよし、縁なくんば、それもよし
> >
> > 約束の束縛からのがれて念底の、そこからの飛翔をよろこびたい
> >
> > やくそくのおののきからのがれたい
> >
> > 約束の最たるものは死であらう
> >
> > 約束の最たるものは逢引であらう
> >
> > 衣の約束
> >
> > 肉の約束
> >
> > 言葉の約束
> >
> > 霊の約束
> >
> > あらゆる約束を脱皮したい

今日かぎり俺には妻子を養う義務はない

俺は俺のための人生を生きる

そんな、そんな、と口を開く

まだ、高校なのよ、父の職業欄を無職と変更するの?

悠々自適とすればよろしい

健康保険証も、国民健康保険になるのよ

悠々自適ぢゃ破産ですわ

なんでそんな関白宣言でもない自適宣言をなしたか

まわりがあまりにも妻子を養う義務云々の狂乱

今日首を切ったもんが、明日は首を切られる

3000人を2000人へ首切

首切は違法

さすれば自主退社

辞職退社願いへサイン捺印を強制される

首切旋風襲来中

あの当時一番質の悪かったのは丸紅、

社員が精神異常をきたすような牢獄に押し込める

TVニュースにも取り上げれてその非人道的なやりかたが槍玉にあげられた

丸紅はもともとさういう体質があり、浅沼雅樹が殺されたときもそうだ

一橋をでて、なぜ丸紅へ?

ややおどけて、丸紅飯店、だから

裏金が動いてロッキード

あれで丸紅が挙げられたことも故無しとしない

三菱商事の同級生が水産出身の商社4人会をやるからとオブザーバー

ものが足りない

横流ししてぽんぽん裏金を受け取る

物産・商事はやらない

伊藤忠はちょっとやる

丸紅は堂々散々やる、当たり前、やらないのはバカだ、罪の意識さえ希薄な気迫

浅沼も韓国は浦項製鉄所の増設工事入札で裏金が舞ったその担当

商事と争い、丸紅が受注

マテハン、鉄鉱石のコンベアだからさしたる額のプロジェクトでもない、せいぜいが数十億円か、1985年

受注記念パーティの最中に行方不明になった

商事の担当者は牢獄にいた

行方不明から数日、慶州の土饅頭で腹二突胸三突で絶命死体

腕時計が盗まれていない

というようなとってつけた理由により物取りではなく

丸紅によって自殺とされた

緘口令

四大紙は一面あるいは社会面でべた記事にとどめた

自殺を疑惑となし丸紅プロジェクトの闇を追求した夕刊ゲンダイの記者は行方不明になった

浅沼の弟が舞台俳優、亡くなった兄の名をついでまさきひろと

そのひろとが韓国の現場にゆきたいと

丸紅の韓国事務所はソウルを除きことごとく閉鎖されていた

本社の在籍部署も雲消霧散して組織替えが行われていた

にも拘わらず

浅沼の葬儀は丸紅の名前を出さぬ社葬

なんたることだ

金をもらわねばならんほどのこともなく、四谷の丘の邸宅街に立派な屋敷も構え、老舗の跡継ぎ娘を嫁にしていた

老舗の老会長は通夜の座卓を足で蹴ってひっくり返した

帰ってきた浅沼の棺桶、

絶対に司法解剖しないという約束のもとに帰された遺体、

棺桶の中で鎖につながれていたのだろうか

額は蝋にようにしっとりと冷たく

仏は若くて大柄だから

焼けるのに大変お時間がかかります

雪がちらちら

ちらちら雪を足をすべらさぬよう

四谷霊廟から鮫ヶ橋の霊柩車へ棺桶を担いで下りた

通夜の晩はホテルニューオータニ

朝まで眠れず、弔辞も書けなかった

マッサージ

お客さん、ものすごく凝っています

この凝り方は異常です、なにか精神的ご苦痛でも

ダブルラウンド

白々開けてきて雪がちらつく窓際で突然筆が進んだ

自殺の弔辞か、他殺の弔辞か

世間をおもんばかって

自殺の弔辞にした

さぞかし、悔しかろう

逆縁を嘆く父母

婿の突然死に怒る義父

地獄の沙汰

社葬ゆえかいなか告別式には多数の丸紅社員が参列し涙するものも多かった

だれもかれもが今日昨日まで浅沼の死を丸紅からは知らされていなかった

どういうこっちゃ?

はちゃめちゃ

ホテルオークラへチェックイン

部屋には丸紅からのフルーツバスケットがおかれていた

大きなバスケットで、一人で食ったら一週間はもつ

当時はビジネス上VIPを迎えるホテルにフルーツバスケットを頼んで届けるような風習があった

MODEC時代にはMcDermottの来日にはオークラにバスケットを頼んだ

今回のバスケットは、丸紅も受注を狙っているパイプライン鋼材の買い付けもからんでいた

丸紅の見積もりは当初から高かった

大倉商事が当初から正直な安値を入札してきていた

最終ネゴ

大倉商事と頻繁に連絡をとりあい、

丸紅にはゆかず、東京駅前鉄鋼ビルの大倉商事へ行った

サウジアラビアに帰り着くとパイプライン部門の社長がきた

丸紅から君と大倉商事が出来ていると云ってきた、と

べつに出来てはいもせんが、かくかくしかじか、当初から正直値で応札してきた大倉商事を優先したまでの話

あのフルーツバスケットが今から考えると臭かった

盗聴器

なんでもありの丸紅ならやりかねない

フルーツバスケットを一週間も部屋においておいた

失敗

この事件の時間順は

フルーツバスケット事件、アラブ時代1984年

浅沼の怪死、帰国直後1985年

商社水産四人会、1986年

今から30数年前をふりかえり、今もって丸紅社風で約束を守らない、

平気でヒトの邪魔をする、

ダメと云っても意に介さず、

テメエの都合で突っ込んでくる、

さういう風はいまでも健在、ばかばかしい

どっし利と構えた財閥系、三井、三菱、

寄り集まり系の伊藤忠、丸紅

やはりその隔絶差は大きい、いかに売り上げや利益が肥大しようとも

丸紅警戒警報発令中!

常時、情事


> > 脱皮に脱皮して約束のない世界に飛翔する
> > 、
> > 約束の世界で衣も肉も言葉も霊も、肥え太り、かつ、干乾びる
> >
> > 約束のない世界では衣も肉も言葉も霊も、無に帰する
> >
> > 無に帰した世界で一体、我というものはあるのだろうか
> >
> > 約束の反故
> >
> > 我の反故
> >

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54865] いい加減と云えばいい加減 Re:[54864] 約束の反故 我の反故 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/20(Sun) 13:42  

> よもほほえANNEX−Ω   訪問者数:11769253(今日:184/昨日:852) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/20(Sun) 09:04 先勝(壬申) 旧暦 2/18 月齢 17.4

井上陽水 ♪五月の別れ
http://www.youtube.com/watch?v=oHzbYFaetdY

裸木のあれやこれやをかの彷徨


> 幼子やもがれし羽へ這える蝉
>
> 約束、約束をすると縛られる
>
> 約束の義務を果たさねばならん

父の三回忌

来年は母の13回忌

さすれば義妹の13回忌は今年か

都会から山の端の墓苑へ向かうクルマの渋滞

渋滞車の中に霊柩車も混る

火葬場も料理屋も人数制限、5人まで4人まで

渋滞でいらいらの果ての般若心経を終えて

墓場で屯する一団

毎月誰かが死に

毎年誰かの回忌

年賀状を断ち切って

句会から逃避しても

誰かが死に

誰かが回忌

呪いと祝い

呪と祝

呪即祝

祝即呪

呪の般若

祝の般若

般若心経を唱え読む

かの折れる巻物経本も天金の聖書も

寝台の下

ごみに埋もれ散乱した山積

叡智散乱して山積み

なにか句になりそうだ

苦にもなる

混み合うて人慮神慮の果ての花

となればよけれど

裸木のあれやこれやをかの彷徨

といいったところが目下の景色か

墓前の花も枯れ尽くす

読経本殿の花を墓前へ移してよしとしよう

春風や孫が立てたる卒塔婆

春場所のオレオレ詐欺へ婆卒倒

屋根替の金もなくんば張るテント

だんだんくだらくなる

幸魂も堕すればダサイ橋渡る

春眠の三途の川に架かる橋

種を蒔く家は墓なり掘る涙

聖にして俗なるものへカーネーション

反故せむとなすもならぬや聖五月

いい加減と云えばいい加減

真面目と云えば真面目

> 念頭に約束があれば念底から湧き上がる想念が中断される
>
> 想念が成熟する、そこを中断されて、一挙現成のなにものかが途中で萎む
>
> だから、約束はやめよう
>
> 刹那刹那の縁があれば、それでよし、縁なくんば、それもよし
>
> 約束の束縛からのがれて念底の、そこからの飛翔をよろこびたい
>
> やくそくのおののきからのがれたい
>
> 約束の最たるものは死であらう
>
> 約束の最たるものは逢引であらう
>
> 衣の約束
>
> 肉の約束
>
> 言葉の約束
>
> 霊の約束
>
> あらゆる約束を脱皮したい
>
> 脱皮に脱皮して約束のない世界に飛翔する
> 、
> 約束の世界で衣も肉も言葉も霊も、肥え太り、かつ、干乾びる
>
> 約束のない世界では衣も肉も言葉も霊も、無に帰する
>
> 無に帰した世界で一体、我というものはあるのだろうか
>
> 約束の反故
>
> 我の反故
>

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54864] 約束の反故 我の反故 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/20(Sun) 09:58  

よもほほえANNEX−Ω   訪問者数:11769253(今日:184/昨日:852) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/20(Sun) 09:04 先勝(壬申) 旧暦 2/18 月齢 17.4

幼子やもがれし羽へ這える蝉

約束、約束をすると縛られる

約束の義務を果たさねばならん

念頭に約束があれば念底から湧き上がる想念が中断される

想念が成熟する、そこを中断されて、一挙現成のなにものかが途中で萎む

だから、約束はやめよう

刹那刹那の縁があれば、それでよし、縁なくんば、それもよし

約束の束縛からのがれて念底の、そこからの飛翔をよろこびたい

やくそくのおののきからのがれたい

約束の最たるものは死であらう

約束の最たるものは逢引であらう

衣の約束

肉の約束

言葉の約束

霊の約束

あらゆる約束を脱皮したい

脱皮に脱皮して約束のない世界に飛翔する

約束の世界で衣も肉も言葉も霊も、肥え太り、かつ、干乾びる

約束のない世界では衣も肉も言葉も霊も、無に帰する

無に帰した世界で一体、我というものはあるのだろうか

約束の反故

我の反故

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54863] じぶんでじぶんの世界をちいさくしている Re:[54862] この皮相さ、衣さ、その浅薄さゆえに皮相、衣、浅薄のうえではあそこまで祀りあげられたんだろうね つづきをやるか?Re:[54861] 得よう得ようとして得られるもんでもないRe:[54860] 素朴なる疑問、人間は衣と肉ばかりで生きているのであらうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/19(Sat) 18:03  

春雨のずぶ濡れの中走り抜く

眼下にウィンドブレーカーの黄色い背中を丸めて走ってゆくロードバイクを眺めながらなんとなく浮かんできた、つまらん句

ネオプリマート26km/20.9km/h

雲行きが怪しくなってなんとか降られる前に帰宅

牛乳を飲んで一服二服して、しばらくして降り出してきた

> れのへいゆANNEX−Ω   訪問者数:11768656(今日:439/昨日:1609) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/19(Sat) 08:42 赤口(辛未) 旧暦 2/17 月齢 16.4
>
> 昨日は 18日 大安(庚午)
>
> 旧暦 2/16
> 彼岸入(春)
> 月齢 15.4
> 満月(16時)
>
> だったんだ。一日中悶々として寝ていて濛々といろんな夢をみて何度もションベンに起こされてまた寝て・・
>
> 大安より仏滅が好き・・・・
>
> 赤口で赤肉の口を開けて、舌を振わせ悪口をつくか、霊を揮わせて霊揮=霊気が霊起=励起
>
> そうもせんば治まらんもん、悶々を抑えて、静かに静かに・・

土手道でまた鶯合唱団でも聞こうか

こころを鎮め鎮めとゆっくり走りゆけば

田中さんともう一人、かのアートベンチに居た

人間だれでも、今気になっていることを言おうとして、ひとに言わせない風景はどこにでも自分にも多々ある

えらいなあ、とおもうのは、そういう時でも、たにんのことばに耳を傾ける、そういう余裕ね

新たな制作、長野の公園のオブジェにして、映画の大道具小物にも着手予定と

鶯は今日は聞こえない

聞こえても微かに一声

一羽のチョウゲンボウが空を舞った

オオバフクロウとかが空を舞う写真もみせてくれた

近くの廃校の松の木に6羽いる、

夜行性だから驚かせて飛び立ったところを撮ったらしい

鴛鴦を狙って藪から狸がでてくる写真

鴛鴦の一羽が今にも狸の餌食になりそうなところで水面へ逃げる、それをもう一羽の鴛鴦が水面から見上げている、危機一髪

話題が音沙汰のない画家、阿保ちゃんのことになった

神金の金色のパスハンター、しばらく出会わない

胃癌を患い、体重が70sから46sに落ちた、そうだ

土手を歩く姿もまばらになった

阿保ー田中二人展でも、といってあげたら、奥さんが泣いた、と田中

自転車にのれなくなったからいい景色もみつからない

だから、絵も描けない、という

いやさ、いい景色、も、阿保ちゃんの景色はいい景色でもない、

ぽっかり開いたトンネルの口とか

あ、そうそう、青梅のね

うむ、いま家に帰ってきて葉書を見れば、吹上トンネル、青梅名栗線ね

一般に云うところのいい景色ではない、

でもどれをとってみても、独特の風情がある、彼自身の風貌も

国立個展でもらった絵葉書数枚に電話番号があった

生きていてよかったと思った

三人でごはんでも、といっても、胃は全摘なんだから無理

どっかで繋がっているね、ありがたく・・と延々18分も喋った


> 朝もや、靄、視界がもやって、大屋根から湯気が立ち上る、雨上がりの春の朝
>
> 日が昇るにに連れて、視界が清澄に透き通り富士山までも眺めやられる
>
> 今、あれから20数年が経った、沈潜とデモーニッシュな「狂乱」も収まり
>
> 抵抗のあった井筒の「意識と本質」も難なく潜り抜け、
>
> また隠し画の中の隠し画へも潜り込み、水面上に浮き出でて息を吹き返し
>
> 20数年ぶりに俳句もあじわってみる
>
> 鷓鴣は逝き家の中まで石河原  三橋敏雄
>
> 20数年まえに魅かれても、つかめぬ不思議な魔力
>
> その不思議さをもとめて津軽の賽の河原の河原地蔵を訪ねた
>
> 津軽線川倉駅下車、賽の河原地蔵尊、と今の地図にはある
>
> この地蔵尊の河原をみたときに三橋の石河原の風景がすこしつかめたような気がした
>
> イタコを訪ねる旅でもあった
>
> 下北のイタコのルーツはこの津軽との説もあったルーツのルーツ
>
> 根っこの根っこ
>
>
> 川倉賽の河原地蔵尊
> http://www.jalan.net/kankou/spt_02382ag2130009011/
>
>
>
> 霊気満ち溢れる境内に人形堂があった
>
> 人形へ娶わす人形石河原  梵
>
> であったろうか、正確には思い出せない
>
> 帰京してして三橋八王子句会にだしたら三橋選にやはり入った
>
> 三橋句会では名宣、号はなんであったか、思い出せない
>
> 流(りゅう)、梟帥(たける)、天牛(かみきり)
>
> とか、いろいろ名宣っていた
>
> 今朝、ネットを漁っていたらこんな風景がでてきた
>
> 戦後俳句を読む(16−1) ―テーマ:「鳥」― 三橋敏雄の句 / 北川美美
> http://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/mitsuhashi/2011-12-09-11225.html
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
>
> 投稿日:2011年12月09日 カテゴリー:戦後俳句を読む – 三橋敏雄の句(北川美美)
> 鷓鴣は逝き家の中まで石河原
> シュールレアリストによる自働記述のような句である。四次元空間に入り込む気分になる。「逝」という字意に文学的匂いのする鶏・「鷓鴣」への愛着があったことを伺わせ、鷓鴣への追悼、そしてその悲しみの彼岸の風景が家の中まで入りこんでいるように読める。これを第一の読みとしてみる。
>
> さて、掲句は句集『鷓鴣』のタイトルになっているだけでなく、中扉に三鬼、白泉、敏雄の鷓鴣の句を錚々と鎮座させている。戦国三武将の風格である。
>
> 鷓鴣を締むおそるる眼かたく閉づ 西東三鬼
>
> 新興俳句の旗手として名高い三鬼。ルナアルの『にんじん』の中で岸田國士によりヤマウズラ族の雛が「鷓鴣」と訳されている。三鬼補遺にある「『にんじん』を詠む」と前書き風タイトルがついた昭和9年の作品の一句である。二羽の鶏が殺される場面に恐ろしさのあまり眼を閉じるのは三鬼である。その後の三鬼が、新興俳句弾圧に従うままでいるしかなかったようにも読める。
>
> 塵の室暮れて再び鷓鴣を想ふ 渡邊白泉
>
> 白泉からは、漢詩の叙情が伺え、「想ふ」に孤独感が漂う。白居易『山鷓鴣』の心情に近い。これも発表後の事になるが、新興俳句弾圧後、俳壇から距離を置いていた白泉のボヘミアン的身の上を重ねあわせると、群れから外れたその身が毎朝毎晩啼きつづけていた鷓鴣をたびたび思い出しているように読める。「塵の室」が、穢れた世ながら貧しく高貴に映る。痛々しい淋しさを伴う句である。
>
> そして三句目に敏雄の鷓鴣の句。先師とともに掲げた句が意味することが第二の読みである。
>
> 「鷓鴣」を「俳句」と置き換えてみる。敏雄が想う、三鬼、白泉、敏雄のそれぞれの立ち位置が見えてくるようだ。ひとつひとつの石は敏雄が目覚めた新興俳句という新しさを求めた俳句への鎮魂。外から内に繋がり境の区別が無くなっている賽(さい)の河原の風景である。その石々を家の中で積み上げている敏雄の背中を想うのである。弔いと創造を繰り返す俳句への思いと読めてくる。そして、どこか途方に暮れている印象がある句である。
>
> 『眞神』から『鷓鴣』の刊行まで約五年のインターバルがあるが、制作年に於いてこの二句集は同時期である。両作品とも敏雄俳句史に於ける新興俳句からの起死回生といえるだろう。『鷓鴣』での彼岸の捉え方が微妙に『眞神』と異なることに注目しながら更に読み進めて行きたい。
>
> タグ: 三橋敏雄, 北川美美
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> ほ、ほお、と思って、こんの北川美美なるもんも調べみた
>
> 北川美美さんが令和3年1月14日、亡くなられました。享年57。 平成21年「豈」に入会。平成26年「俳句新空間」(発行所 北川・筑紫)を創刊。「皐月句会」発足にも尽力されま・・
>
> とあり、亡くなってしまっていた
>
> 生者の幾許か、現俳協の重鎮が三橋のこの句
>
> 鷓鴣は逝き家の中まで石河原  三橋敏雄
>
> を解釈しているのに出会ったが箸にも棒にもかからなかった
>
>
> > > えふのつえANNEX−Ω   訪問者数:11765092(今日:177/昨日:934)梵@天地獄 投稿日:2022/03/17(Thu) 07:21 仏滅(己巳) 旧暦 2/15 月齢 14.4
> > >
> > > さて今日はなにがでてくるか
> >
> > やはり出てきた
> >
> > わたしのちっちゃな世界の世界解釈
>
> わたしのちっちゃな世界がどこまでちっちゃくなるか、どこまででっかくなるか
>
> はたまた
>
> どこまで深くなるか、どこまで浅くなるか
>
> はたまた
>
> どこまで没落するか、どこまで飛翔し上昇するか
>
>
> > > 書けば何かがでてくる、妄想であろうが・・
>
>
> これは、かつてここにいた谷内君の名言、数々の迷言のうちの名言
>
> だれかが、句も歌も詩もでてこないというボヤキに、なんでもいい、「あ」の字でも書けばそこからでてくる、といったような名言で・・
>
> 「あ」の字は、密教の阿字観にも通じる
>
> それが真言の空海が観た源初だから
>
> 空海って、いいね、その名前
>
> 空と海と
>
> 空軍と海軍と
>
> 空へ飛翔し海へ潜る
>
> 天空に坐す、海底の坐す
>
> あまてらすとすさのお
>
> ゼウスとポセイドン
>
> いいだせばきりがない
>
> 悶々とねて約12時間ぶりに一服すれば手足が痺れる
>
> 6本/日のころは午前4時まで脳が暴れまわって寝られない
>
> 40本/日になれば脳の暴乱も鎮もり、さあーち開けた眠りではなく、なんだか凝り固まった塊のようにしてかつ浅い眠りが延々とつづく
>
> たばこの向精神作用は大きいね
>
> やめないと、すなくして、また、おおくして、振幅を広げないとわからない
>
> まったくすわなければ、なおさらわからない
>
> だから、喫え、喫う、というわけでもない
>
> 健康を傷つけても、喫う
>
> 嗜好にして思考
>
> 而して
>
>
> > この衣肉霊に、「おののき」と「よろこび」を掛けてみよう、掛け算
>
> この「掛け算」
>
> あたかも、かつての高校時代、数学ができて物理ができぬときに数学と物理が突然うちなる融合、無礙になり祖となる世界が次元を変えた、軌道をかえた励起にして霊起を体験したあの時にも匹敵して
>
> 言葉の掛け算
>
> してみれば
>
> 言葉の割り算
>
> もあらう
>
> 言葉の微分
>
> 言葉の積分
>
> もあらう
>
> こういう概念、コンセプト、あるいは、妄念でものをみる、見て観る
>
> さすれば見えないもんも観えてくる
>
> 言葉にはコトダマがあると古来いわれている言霊(ことだま)
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 声に出した言葉が、現実の事象に何がしか影響すると信じられ、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。
>
> 日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 幼きものへの説明
>
>
> いわれているからあるんぢゃない
>
> 幻想にして妄想かもしれない
>
> 観えるか、観えぬかの違い
>
> 言葉の遣い手、と、読み手の問題
>
> これは意識していることもあれば無意識にしていることもある
>
> 鍛錬もあれば弛緩もある
>
> 衝撃もあればなんでもない浮遊のこともある
>
> さういうもんをもって観てみればいろんな風景が一挙に現成してしてきて
>
> 悪口もあれば賞賛もある
>
> あるいは
>
> 無関心もあれば、かの「インテレサント」もある
>
> > > 人間とは
> > >
> > > 衣
> > >
> > > 肉
> > >
> > > 霊
> > >
> > > 多重構造をとりあえず3層にしてみる
> > >
> > > 世界は、衣、肉、霊、すべてを包括している
> >
> > 衣における、「おののき」と「よろこび」
> >
> > 肉における、「おののき」と「よろこび」
> >
> > 霊における、「おののき」と「よろこび」
> >
> > > 衣、衣装、には人間の共同体、社会まで
> > >
> > > 生活において圧倒的な比重は通常はこの衣
> > >
> > > 立場、立場、
> > >
> > > 己が立場を考えよ、他人の立場にもなってみよ
> > >
> > > 衣や肉としての人間は衣としてあるいは肉としての立場は理解できる、しかし霊は理解できない
> > >
> > > 理解できるのは、病気になったり、スポーツをしたりするとき
> > >
> > > スポーツだって、プロやオリンピックなどの衣の比重が増してくると
> > >
> > > 肉の偽造も起きる、ドーピング
> > >
> > > 肉の偽造は、肉に衣をかける美容、整形
> > >
> > > 肉が病んだり、精神が病めば、手術をしたり、くすりを処方したり、肉に変形をかけ、「健康」のために
> > >
> > > 「健康」は衣と肉の概念にして、衣的な共同体の論理に合致しなければ「不健康」、「障害」として排除される
> > >
> > > 排除されても、その「不健康」を「健康」へ変換すべく、
> > >
> > > 衣、肉、霊の各位においていろいろな外的処置あるいは自発的転換が図られる
> > >
> > > さて、霊になるとどういうことになるか
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > 霊性があるかないか
> > >
> > > しらん
> > >
> > > 理性があるかないか
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > 理性があるなら霊性もあるといってよかろう
> > >
> > > 理は霊の中にある
> > >
> > > あるいは
> > >
> > > 霊は理のなかになる
> > >
> > > 衣、肉、霊を理解するのは理
> > >
> > > あるいは
> > >
> > > 衣、肉、霊を理解するのは霊
> > >
> > > 衣は肉も霊も理解しない
> > >
> > > 肉は衣を理解するが、霊を理解しない
> > >
> > > 理あるいは霊は衣も肉も霊も理解する
> > >
> > > それぞれ多少の出入りはあるが、なべていえばそういうことであろう
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > そのころから、自分の特技に気づきだした
> > >
> > > わたしはたにんになれる
> > >
> > > 我おもう、ゆえに、我あり
> > >
> > > さすれば
> > >
> > > 彼おもう、ゆえに、彼あり
> > >
> > > でもあらう
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > 特定の個人の特技でもなんでもない、誰にでもある特技
> > >
> > > ただし、この特技はレベルがある
> > >
> > > 衣におけると特技(衣のわたしは衣のたにんになれる)
> > >
> > > 肉におけると特技(衣と肉のわたしは衣と肉のたにんになれる)
> > >
> > > 霊におけると特技(衣と肉と霊のわたしは衣と肉と霊のたにんになれる)
> > >
> > > ここなのね
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> > >
> > > お店をもつって、わかる?
> > >
> > > お店をもつにはスポンサーも要るの
>
> 箸にも棒にもかからないもんへの赤口にして悪口
>
> いやさ、箸にも棒にもかかる
>
> かかるがまずい
>
> 棒といえば
>
> 去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子
>
> これも衝撃的な句で過去に言及した
>
> 棒は男根として・・
>
> 男根は男根として古来の象徴でもある
>
> そして男根が解脱して一なるものへ
>
> 最近、どこかで、
>
> 知以一
>
> 知の前後にもう一字あった禅語かもしれぬ
>
> 虚子はそれを踏まえていたのかもしれぬ
>
> なにも禅語や他人のものを踏まえんでも自ずから自らのうちに湧き上がってくる
>
> 一を一と云ってしまっては、ものに即した客観写生にもなりがたい
>
> 棒にすればいろいろな読みがでてくる
>
> 【去年今年貫く棒の如きもの】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!
> http://haiku-textbook.com/kozokotoshi/
>
>
> 便利な時代になったものだ
>
> 便利になってますます
>
> > 衣、衣装、には人間の共同体、社会まで
> >
> > 生活において圧倒的な比重は通常はこの衣
>
> この衣、皮相の詠みにして読みが増してくる
>
> さんざん兜太や大岡信らへの悪口赤口
>
> > 衣、衣装、には人間の共同体、社会まで
> >
> > 生活において圧倒的な比重は通常はこの衣
>
> この皮相さ、衣さ、その浅薄さゆえに皮相、衣、浅薄のうえではあそこまで祀りあげられたんだろうね
>
> つづきをやるか?

北京家庭菜

味噌汁を突き返した

中華料理に味噌汁はあわない

なんどいったらわかるんだ

ましてや、中華スープ用の楕円の皿に中華風の匙

料理の美学がない

折角の美味しい本格中華がいい加減な日本人に迎合した味噌汁でだいなしなる

いったところで日本語が通じない

通じないふりをする

日本語わかりませ〜ん

お金いりませ〜ん

ここ10年以上の愛顧(こういう使い方はダメなんだそうだ、正しくは贔屓)もこれでおしまいか

じぶんでじぶんの世界をちいさくしている

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54862] この皮相さ、衣さ、その浅薄さゆえに皮相、衣、浅薄のうえではあそこまで祀りあげられたんだろうね つづきをやるか?Re:[54861] 得よう得ようとして得られるもんでもないRe:[54860] 素朴なる疑問、人間は衣と肉ばかりで生きているのであらうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/19(Sat) 12:15  

れのへいゆANNEX−Ω   訪問者数:11768656(今日:439/昨日:1609) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/19(Sat) 08:42 赤口(辛未) 旧暦 2/17 月齢 16.4

昨日は 18日 大安(庚午)

旧暦 2/16
彼岸入(春)
月齢 15.4
満月(16時)

だったんだ。一日中悶々として寝ていて濛々といろんな夢をみて何度もションベンに起こされてまた寝て・・

大安より仏滅が好き・・・・

赤口で赤肉の口を開けて、舌を振わせ悪口をつくか、霊を揮わせて霊揮=霊気が霊起=励起

そうもせんば治まらんもん、悶々を抑えて、静かに静かに・・

朝もや、靄、視界がもやって、大屋根から湯気が立ち上る、雨上がりの春の朝

日が昇るにに連れて、視界が清澄に透き通り富士山までも眺めやられる

今、あれから20数年が経った、沈潜とデモーニッシュな「狂乱」も収まり

抵抗のあった井筒の「意識と本質」も難なく潜り抜け、

また隠し画の中の隠し画へも潜り込み、水面上に浮き出でて息を吹き返し

20数年ぶりに俳句もあじわってみる

鷓鴣は逝き家の中まで石河原  三橋敏雄

20数年まえに魅かれても、つかめぬ不思議な魔力

その不思議さをもとめて津軽の賽の河原の河原地蔵を訪ねた

津軽線川倉駅下車、賽の河原地蔵尊、と今の地図にはある

この地蔵尊の河原をみたときに三橋の石河原の風景がすこしつかめたような気がした

イタコを訪ねる旅でもあった

下北のイタコのルーツはこの津軽との説もあったルーツのルーツ

根っこの根っこ


川倉賽の河原地蔵尊
http://www.jalan.net/kankou/spt_02382ag2130009011/



霊気満ち溢れる境内に人形堂があった

人形へ娶わす人形石河原  梵

であったろうか、正確には思い出せない

帰京してして三橋八王子句会にだしたら三橋選にやはり入った

三橋句会では名宣、号はなんであったか、思い出せない

流(りゅう)、梟帥(たける)、天牛(かみきり)

とか、いろいろ名宣っていた

今朝、ネットを漁っていたらこんな風景がでてきた

戦後俳句を読む(16−1) ―テーマ:「鳥」― 三橋敏雄の句 / 北川美美
http://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/mitsuhashi/2011-12-09-11225.html

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★


投稿日:2011年12月09日 カテゴリー:戦後俳句を読む – 三橋敏雄の句(北川美美)
鷓鴣は逝き家の中まで石河原
シュールレアリストによる自働記述のような句である。四次元空間に入り込む気分になる。「逝」という字意に文学的匂いのする鶏・「鷓鴣」への愛着があったことを伺わせ、鷓鴣への追悼、そしてその悲しみの彼岸の風景が家の中まで入りこんでいるように読める。これを第一の読みとしてみる。

さて、掲句は句集『鷓鴣』のタイトルになっているだけでなく、中扉に三鬼、白泉、敏雄の鷓鴣の句を錚々と鎮座させている。戦国三武将の風格である。

鷓鴣を締むおそるる眼かたく閉づ 西東三鬼

新興俳句の旗手として名高い三鬼。ルナアルの『にんじん』の中で岸田國士によりヤマウズラ族の雛が「鷓鴣」と訳されている。三鬼補遺にある「『にんじん』を詠む」と前書き風タイトルがついた昭和9年の作品の一句である。二羽の鶏が殺される場面に恐ろしさのあまり眼を閉じるのは三鬼である。その後の三鬼が、新興俳句弾圧に従うままでいるしかなかったようにも読める。

塵の室暮れて再び鷓鴣を想ふ 渡邊白泉

白泉からは、漢詩の叙情が伺え、「想ふ」に孤独感が漂う。白居易『山鷓鴣』の心情に近い。これも発表後の事になるが、新興俳句弾圧後、俳壇から距離を置いていた白泉のボヘミアン的身の上を重ねあわせると、群れから外れたその身が毎朝毎晩啼きつづけていた鷓鴣をたびたび思い出しているように読める。「塵の室」が、穢れた世ながら貧しく高貴に映る。痛々しい淋しさを伴う句である。

そして三句目に敏雄の鷓鴣の句。先師とともに掲げた句が意味することが第二の読みである。

「鷓鴣」を「俳句」と置き換えてみる。敏雄が想う、三鬼、白泉、敏雄のそれぞれの立ち位置が見えてくるようだ。ひとつひとつの石は敏雄が目覚めた新興俳句という新しさを求めた俳句への鎮魂。外から内に繋がり境の区別が無くなっている賽(さい)の河原の風景である。その石々を家の中で積み上げている敏雄の背中を想うのである。弔いと創造を繰り返す俳句への思いと読めてくる。そして、どこか途方に暮れている印象がある句である。

『眞神』から『鷓鴣』の刊行まで約五年のインターバルがあるが、制作年に於いてこの二句集は同時期である。両作品とも敏雄俳句史に於ける新興俳句からの起死回生といえるだろう。『鷓鴣』での彼岸の捉え方が微妙に『眞神』と異なることに注目しながら更に読み進めて行きたい。

タグ: 三橋敏雄, 北川美美

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

ほ、ほお、と思って、こんの北川美美なるもんも調べみた

北川美美さんが令和3年1月14日、亡くなられました。享年57。 平成21年「豈」に入会。平成26年「俳句新空間」(発行所 北川・筑紫)を創刊。「皐月句会」発足にも尽力されま・・

とあり、亡くなってしまっていた

生者の幾許か、現俳協の重鎮が三橋のこの句

鷓鴣は逝き家の中まで石河原  三橋敏雄

を解釈しているのに出会ったが箸にも棒にもかからなかった


> > えふのつえANNEX−Ω   訪問者数:11765092(今日:177/昨日:934)梵@天地獄 投稿日:2022/03/17(Thu) 07:21 仏滅(己巳) 旧暦 2/15 月齢 14.4
> >
> > さて今日はなにがでてくるか
>
> やはり出てきた
>
> わたしのちっちゃな世界の世界解釈

わたしのちっちゃな世界がどこまでちっちゃくなるか、どこまででっかくなるか

はたまた

どこまで深くなるか、どこまで浅くなるか

はたまた

どこまで没落するか、どこまで飛翔し上昇するか


> > 書けば何かがでてくる、妄想であろうが・・


これは、かつてここにいた谷内君の名言、数々の迷言のうちの名言

だれかが、句も歌も詩もでてこないというボヤキに、なんでもいい、「あ」の字でも書けばそこからでてくる、といったような名言で・・

「あ」の字は、密教の阿字観にも通じる

それが真言の空海が観た源初だから

空海って、いいね、その名前

空と海と

空軍と海軍と

空へ飛翔し海へ潜る

天空に坐す、海底の坐す

あまてらすとすさのお

ゼウスとポセイドン

いいだせばきりがない

悶々とねて約12時間ぶりに一服すれば手足が痺れる

6本/日のころは午前4時まで脳が暴れまわって寝られない

40本/日になれば脳の暴乱も鎮もり、さあーち開けた眠りではなく、なんだか凝り固まった塊のようにしてかつ浅い眠りが延々とつづく

たばこの向精神作用は大きいね

やめないと、すなくして、また、おおくして、振幅を広げないとわからない

まったくすわなければ、なおさらわからない

だから、喫え、喫う、というわけでもない

健康を傷つけても、喫う

嗜好にして思考

而して


> この衣肉霊に、「おののき」と「よろこび」を掛けてみよう、掛け算

この「掛け算」

あたかも、かつての高校時代、数学ができて物理ができぬときに数学と物理が突然うちなる融合、無礙になり祖となる世界が次元を変えた、軌道をかえた励起にして霊起を体験したあの時にも匹敵して

言葉の掛け算

してみれば

言葉の割り算

もあらう

言葉の微分

言葉の積分

もあらう

こういう概念、コンセプト、あるいは、妄念でものをみる、見て観る

さすれば見えないもんも観えてくる

言葉にはコトダマがあると古来いわれている言霊(ことだま)

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

声に出した言葉が、現実の事象に何がしか影響すると信じられ、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。

日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

幼きものへの説明


いわれているからあるんぢゃない

幻想にして妄想かもしれない

観えるか、観えぬかの違い

言葉の遣い手、と、読み手の問題

これは意識していることもあれば無意識にしていることもある

鍛錬もあれば弛緩もある

衝撃もあればなんでもない浮遊のこともある

さういうもんをもって観てみればいろんな風景が一挙に現成してしてきて

悪口もあれば賞賛もある

あるいは

無関心もあれば、かの「インテレサント」もある

> > 人間とは
> >
> > 衣
> >
> > 肉
> >
> > 霊
> >
> > 多重構造をとりあえず3層にしてみる
> >
> > 世界は、衣、肉、霊、すべてを包括している
>
> 衣における、「おののき」と「よろこび」
>
> 肉における、「おののき」と「よろこび」
>
> 霊における、「おののき」と「よろこび」
>
> > 衣、衣装、には人間の共同体、社会まで
> >
> > 生活において圧倒的な比重は通常はこの衣
> >
> > 立場、立場、
> >
> > 己が立場を考えよ、他人の立場にもなってみよ
> >
> > 衣や肉としての人間は衣としてあるいは肉としての立場は理解できる、しかし霊は理解できない
> >
> > 理解できるのは、病気になったり、スポーツをしたりするとき
> >
> > スポーツだって、プロやオリンピックなどの衣の比重が増してくると
> >
> > 肉の偽造も起きる、ドーピング
> >
> > 肉の偽造は、肉に衣をかける美容、整形
> >
> > 肉が病んだり、精神が病めば、手術をしたり、くすりを処方したり、肉に変形をかけ、「健康」のために
> >
> > 「健康」は衣と肉の概念にして、衣的な共同体の論理に合致しなければ「不健康」、「障害」として排除される
> >
> > 排除されても、その「不健康」を「健康」へ変換すべく、
> >
> > 衣、肉、霊の各位においていろいろな外的処置あるいは自発的転換が図られる
> >
> > さて、霊になるとどういうことになるか
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > 霊性があるかないか
> >
> > しらん
> >
> > 理性があるかないか
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > 理性があるなら霊性もあるといってよかろう
> >
> > 理は霊の中にある
> >
> > あるいは
> >
> > 霊は理のなかになる
> >
> > 衣、肉、霊を理解するのは理
> >
> > あるいは
> >
> > 衣、肉、霊を理解するのは霊
> >
> > 衣は肉も霊も理解しない
> >
> > 肉は衣を理解するが、霊を理解しない
> >
> > 理あるいは霊は衣も肉も霊も理解する
> >
> > それぞれ多少の出入りはあるが、なべていえばそういうことであろう
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > そのころから、自分の特技に気づきだした
> >
> > わたしはたにんになれる
> >
> > 我おもう、ゆえに、我あり
> >
> > さすれば
> >
> > 彼おもう、ゆえに、彼あり
> >
> > でもあらう
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > 特定の個人の特技でもなんでもない、誰にでもある特技
> >
> > ただし、この特技はレベルがある
> >
> > 衣におけると特技(衣のわたしは衣のたにんになれる)
> >
> > 肉におけると特技(衣と肉のわたしは衣と肉のたにんになれる)
> >
> > 霊におけると特技(衣と肉と霊のわたしは衣と肉と霊のたにんになれる)
> >
> > ここなのね
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > お店をもつって、わかる?
> >
> > お店をもつにはスポンサーも要るの

箸にも棒にもかからないもんへの赤口にして悪口

いやさ、箸にも棒にもかかる

かかるがまずい

棒といえば

去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子

これも衝撃的な句で過去に言及した

棒は男根として・・

男根は男根として古来の象徴でもある

そして男根が解脱して一なるものへ

最近、どこかで、

知以一

知の前後にもう一字あった禅語かもしれぬ

虚子はそれを踏まえていたのかもしれぬ

なにも禅語や他人のものを踏まえんでも自ずから自らのうちに湧き上がってくる

一を一と云ってしまっては、ものに即した客観写生にもなりがたい

棒にすればいろいろな読みがでてくる

【去年今年貫く棒の如きもの】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!
http://haiku-textbook.com/kozokotoshi/


便利な時代になったものだ

便利になってますます

> 衣、衣装、には人間の共同体、社会まで
>
> 生活において圧倒的な比重は通常はこの衣

この衣、皮相の詠みにして読みが増してくる

さんざん兜太や大岡信らへの悪口赤口

> 衣、衣装、には人間の共同体、社会まで
>
> 生活において圧倒的な比重は通常はこの衣

この皮相さ、衣さ、その浅薄さゆえに皮相、衣、浅薄のうえではあそこまで祀りあげられたんだろうね

つづきをやるか?



やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54861] 得よう得ようとして得られるもんでもないRe:[54860] 素朴なる疑問、人間は衣と肉ばかりで生きているのであらうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/17(Thu) 10:50  

> えふのつえANNEX−Ω   訪問者数:11765092(今日:177/昨日:934)梵@天地獄 投稿日:2022/03/17(Thu) 07:21 仏滅(己巳) 旧暦 2/15 月齢 14.4
>
> さて今日はなにがでてくるか

やはり出てきた

わたしのちっちゃな世界の世界解釈

>
> 書けば何かがでてくる、妄想であろうが・・

この衣肉霊に、「おののき」と「よろこび」を掛けてみよう、掛け算

>
> 人間とは
>
> 衣
>
> 肉
>
> 霊
>
> 多重構造をとりあえず3層にしてみる
>
> 世界は、衣、肉、霊、すべてを包括している

衣における、「おののき」と「よろこび」

肉における、「おののき」と「よろこび」

霊における、「おののき」と「よろこび」

> 衣、衣装、には人間の共同体、社会まで
>
> 生活において圧倒的な比重は通常はこの衣
>
> 立場、立場、
>
> 己が立場を考えよ、他人の立場にもなってみよ
>
> 衣や肉としての人間は衣としてあるいは肉としての立場は理解できる、しかし霊は理解できない
>
> 理解できるのは、病気になったり、スポーツをしたりするとき
>
> スポーツだって、プロやオリンピックなどの衣の比重が増してくると
>
> 肉の偽造も起きる、ドーピング
>
> 肉の偽造は、肉に衣をかける美容、整形
>
> 肉が病んだり、精神が病めば、手術をしたり、くすりを処方したり、肉に変形をかけ、「健康」のために
>
> 「健康」は衣と肉の概念にして、衣的な共同体の論理に合致しなければ「不健康」、「障害」として排除される
>
> 排除されても、その「不健康」を「健康」へ変換すべく、
>
> 衣、肉、霊の各位においていろいろな外的処置あるいは自発的転換が図られる
>
> さて、霊になるとどういうことになるか
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 霊性があるかないか
>
> しらん
>
> 理性があるかないか
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 理性があるなら霊性もあるといってよかろう
>
> 理は霊の中にある
>
> あるいは
>
> 霊は理のなかになる
>
> 衣、肉、霊を理解するのは理
>
> あるいは
>
> 衣、肉、霊を理解するのは霊
>
> 衣は肉も霊も理解しない
>
> 肉は衣を理解するが、霊を理解しない
>
> 理あるいは霊は衣も肉も霊も理解する
>
> それぞれ多少の出入りはあるが、なべていえばそういうことであろう
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> そのころから、自分の特技に気づきだした
>
> わたしはたにんになれる
>
> 我おもう、ゆえに、我あり
>
> さすれば
>
> 彼おもう、ゆえに、彼あり
>
> でもあらう
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 特定の個人の特技でもなんでもない、誰にでもある特技
>
> ただし、この特技はレベルがある
>
> 衣におけると特技(衣のわたしは衣のたにんになれる)
>
> 肉におけると特技(衣と肉のわたしは衣と肉のたにんになれる)
>
> 霊におけると特技(衣と肉と霊のわたしは衣と肉と霊のたにんになれる)
>
> ここなのね
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> お店をもつって、わかる?
>
> お店をもつにはスポンサーも要るの
>
> もう決まったスポンサーがいるんだから、追っかけても無駄
>
> さうなんだね
>
> お店を持つ
>
> これが芸子さんらの目標らしい
>
> 会社をもつ、社長になる
>
> これがサラリーマンの目標らしい
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 「ユー・アー・ラブ You Are Love 〜復活の日テーマ〜」ジャニス・イアンJanis Ian
> http://www.youtube.com/watch?v=S2RtJ583JS0
>
> 素朴なるこれは愚者にて妙好人
>
> 「大菩薩峠」にも「十牛図」十の入鄽垂手、巷に多い
>
> 根を齧る賢者めかせるドブ鼠
>
> まことに「大菩薩峠」にも、巷の宗門者、哲学者と称するやからにやたらに多い
>
> 「尋牛」の牛においてさえ見ているのは「利」
>
> 牛は屠殺され解体され鼠の胃の腑とポケットに入るのみ
>
> 尋牛さえ果たし得ず、見跡でさえ利において跡を見る
>
> 似て非なる「入鄽垂手」を装うて巷のドブをさ迷う
>
> 利を求めて
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 似て非なる「入鄽垂手」を装うて、とはまさに衣
>
> 巷のドブをさ迷うとは、霊のドブ
>
> 巷の宗門者、哲学者と称するやからにやたらに多いのは
>
> 宗門者の共同体、つまり宗門の衣ばかりが眼中の衣のやから
>
> 哲学者の共同体、つまり哲学の衣ばかりが眼中の衣のやから
>
> そもそも霊や理における「真人」をみねばならぬもんが衣や肉ばかりをみておれば
>
> 霊におけるドブに堕ちる
>
> 素朴なる疑問、人間は衣と肉ばかりで生きているのであらうか?

任意でもないがいいかげんに過去ログの一部を上に挟んだが

もっと適切な例も多々あるであろう

而して

★衣における、「おののき」と「よろこび」

衣における「おののき」とはなんであろうか

衣において上位のものが、それも隔絶した上位のものがあらわれる

そういうもの「おののき」を感じるのかもしれない、衣のレベルで生きておれば

総理大臣がはいってくれば閣僚各位が起立してむかえる

プーチン、習近平でもおなじことだ

而してみんながみんなそういう風でもない

野党とか、似たよう衣やからが、衣への反発で行うような所作ではなく

「おののき」をまったく感じないもんもおる、霊的人間

霊的人間は衣においても「よろこび」を感じない

ところが衣的人間は衣こそが「よろこび」にして価値なのだ

だから、政治家になったら総理大臣を目指すのはあたりまえ

サラリーマンな社長を目指すのがあたりまえ

出家すれば雲水から師家、管長、はたまた小さくとも一国一城の主たる住持を目指すのはあたりまえ

学者になれば副手、助手、講師、助教授、教授と階段をあがって学部長、学長、あるいは、政府の審議会の要職、会長をめざすのも当たり前

でもね、そういうことを目指さない、「おののき」も「よろこび」も感じない政治家もサラリーマンも雲水も学者もいる

彼らは一体なにを目指しているのか

ビルディング、自己形成、いいかたによれば「自己実現」

一体なににおいて自己が実現されるのか?

衣か

肉か

霊か

★肉における、「おののき」と「よろこび」

三島由紀夫があのへなちょこの身体をきたえあげて筋肉隆々

自己実現したか?

ある程度はね

でも、斬首されることにおいて彼の自己実現は成った

それは、衣や肉して、まさに霊的な仕業としかいいようがない

肉における、「おののき」と「よろこび」

女においては売春志向があり

男においてはドン・ジュアン的志向がある

これも肉をまとった霊的志向ではないか

霊的志向がなければ単なる売春婦、単なる千人斬でおわりだ

★霊における、「おののき」と「よろこび」

霊における、「おののき」と「よろこび」を知るものは

衣における、「おののき」と「よろこび」に動じない

肉における、「おののき」と「よろこび」に感応はするがやはりさして動じない

霊における、「おののき」と「よろこび」をまさに「おののき」と「よろこび」として受け取る

さすれば、その「おののき」と「よろこび」の対象、対象といって対象化するのも問題だが、時空の遠近にかかわらず、共時的に共感、共鳴、共振をおこす、霊的に

さういうもは実になる、

身に着く、

いきる糧になり、

場合によっては衣にさえもなる


実にもならぬ、身にもつかぬ、生きる糧にならぬ、衣ばっかの天婦裸では喰うに値しない

ものを読む、聞く、書く、考える、あれこれ象限を、軌道を、次元を、変えてみる

さすればそこに自ずから現成するもんがでてくる

それが複眼といえば複眼、一即多といえば多即一

いかにして霊位を得られるか、売られて得られるもんでもない

得よう得ようとして得られるもんでもない

西洋では回心

回心しようとおもっても願っても回心できない場合が多い

東洋では野狐禅、かの無学や、斎藤慶典の場合のようなもんも多い

話はズレて真面目(しんめんもく)なんだが、遼太郎は多分剣道、剣術のケの字にも参入していまい、だから宮本武蔵が書けない

介山、英二はそこが参入できておるから書けた

切実に愛をもてもとめたからといって愛がやってくるものでもない

回心も自己放棄のときにやってくる

畢竟、心身脱落、霊さえも脱落、そういう境位におて自ずから霊位も現れてくる







やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54860] 素朴なる疑問、人間は衣と肉ばかりで生きているのであらうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/17(Thu) 09:16  

えふのつえANNEX−Ω   訪問者数:11765092(今日:177/昨日:934)梵@天地獄 投稿日:2022/03/17(Thu) 07:21 仏滅(己巳) 旧暦 2/15 月齢 14.4

さて今日はなにがでてくるか

書けば何かがでてくる、妄想であろうが・・

人間とは







多重構造をとりあえず3層にしてみる

世界は、衣、肉、霊、すべてを包括している

衣、衣装、には人間の共同体、社会まで

生活において圧倒的な比重は通常はこの衣

立場、立場、

己が立場を考えよ、他人の立場にもなってみよ

衣や肉としての人間は衣としてあるいは肉としての立場は理解できる、しかし霊は理解できない

理解できるのは、病気になったり、スポーツをしたりするとき

スポーツだって、プロやオリンピックなどの衣の比重が増してくると

肉の偽造も起きる、ドーピング

肉の偽造は、肉に衣をかける美容、整形

肉が病んだり、精神が病めば、手術をしたり、くすりを処方したり、肉に変形をかけ、「健康」のために

「健康」は衣と肉の概念にして、衣的な共同体の論理に合致しなければ「不健康」、「障害」として排除される

排除されても、その「不健康」を「健康」へ変換すべく、

衣、肉、霊の各位においていろいろな外的処置あるいは自発的転換が図られる

さて、霊になるとどういうことになるか

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

霊性があるかないか

しらん

理性があるかないか

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

理性があるなら霊性もあるといってよかろう

理は霊の中にある

あるいは

霊は理のなかになる

衣、肉、霊を理解するのは理

あるいは

衣、肉、霊を理解するのは霊

衣は肉も霊も理解しない

肉は衣を理解するが、霊を理解しない

理あるいは霊は衣も肉も霊も理解する

それぞれ多少の出入りはあるが、なべていえばそういうことであろう

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

そのころから、自分の特技に気づきだした

わたしはたにんになれる

我おもう、ゆえに、我あり

さすれば

彼おもう、ゆえに、彼あり

でもあらう

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

特定の個人の特技でもなんでもない、誰にでもある特技

ただし、この特技はレベルがある

衣におけると特技(衣のわたしは衣のたにんになれる)

肉におけると特技(衣と肉のわたしは衣と肉のたにんになれる)

霊におけると特技(衣と肉と霊のわたしは衣と肉と霊のたにんになれる)

ここなのね

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

お店をもつって、わかる?

お店をもつにはスポンサーも要るの

もう決まったスポンサーがいるんだから、追っかけても無駄

さうなんだね

お店を持つ

これが芸子さんらの目標らしい

会社をもつ、社長になる

これがサラリーマンの目標らしい

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

「ユー・アー・ラブ You Are Love 〜復活の日テーマ〜」ジャニス・イアンJanis Ian
http://www.youtube.com/watch?v=S2RtJ583JS0

素朴なるこれは愚者にて妙好人

「大菩薩峠」にも「十牛図」十の入鄽垂手、巷に多い

根を齧る賢者めかせるドブ鼠

まことに「大菩薩峠」にも、巷の宗門者、哲学者と称するやからにやたらに多い

「尋牛」の牛においてさえ見ているのは「利」

牛は屠殺され解体され鼠の胃の腑とポケットに入るのみ

尋牛さえ果たし得ず、見跡でさえ利において跡を見る

似て非なる「入鄽垂手」を装うて巷のドブをさ迷う

利を求めて

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

似て非なる「入鄽垂手」を装うて、とはまさに衣

巷のドブをさ迷うとは、霊のドブ

巷の宗門者、哲学者と称するやからにやたらに多いのは

宗門者の共同体、つまり宗門の衣ばかりが眼中の衣のやから

哲学者の共同体、つまり哲学の衣ばかりが眼中の衣のやから

そもそも霊や理における「真人」をみねばならぬもんが衣や肉ばかりをみておれば

霊におけるドブに堕ちる

素朴なる疑問、人間は衣と肉ばかりで生きているのであらうか?

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54859] 周りの世界がまた一変して、なんだか、とても、うれしくなったRe:[54858] 人間の条件にして宿命なんであらうあろうか?Re:[54857] 通時的、共時的情景はいつも反復、永劫回帰 大は世界から小は個人まで 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/16(Wed) 14:55  

> > なひあおゆANNEX−Ω   訪問者数:11764496(今日:515/昨日:1788)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/16(Wed) 09:22 先負(戊辰) 旧暦 2/14 社日(春) 月齢 13.4
> >
> > 社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する[1]。
> >
> > サライ
> > http://www.youtube.com/watch?v=lMkso1T6BM0
> >
> > サライ(バトゥ・サライ、旧サライ、 Sarai Batu、 Old Sarai、 Sarai-al-Maqrus、 Saraj、 Saray)は、13世紀から15世紀にかけてキプチャク草原を支配したモンゴル遊牧政権、ジョチ・ウルスの首都だった場所。中世には世界最大級の都市で、その人口は最盛期には60万人に達したと見積もられているが、現在は廃墟と化している。
> >
> > 司馬遼太郎著 「ロシアについてー北方の原形」文春文庫
>
> 下北半島十三湊の辺境の料理屋
>
> 隣の男が怒鳴りだした
>
> 遼太郎?ふん、馬鹿馬鹿しい、大嫌いだ
>
> おい、表に出ろ、ぶんなぐってやる
>
> 雪のあがった天空、青い月が煌々
>
> 出稼ぎの都会から田舎に年滅年始でもどってきていて
>
> 遼太郎的あのインテリ臭さが我慢ならんらしい
>
> ても、あの遼太郎のサラリーマン風の宮本武蔵より街道を行くのほうがよほどまともで
>
> なんというても肩の力が抜けている
>
> 宮本武蔵や空海を書くときには、それらに迫ろうという気負いがあって、かえって筆も作品もだめにする
>
> 長編の龍馬が行くは、伝ちゃんおすすめ
>
> 君も読みたまえ、養老の文体もいい
>
> その養老も売れてくれば、もうかつての文体はない
>
> 口述筆記を書き起こさせてベストセラーを乱発
>
> 馬鹿の壁にこちらが馬鹿にされているようにさえもおもえる
>
> 読んでおらんが・・
>
> 学士会館分館
>
> 隣からわいわいがやがや
>
> 襖をスーッと開けると
>
> やあ、やあ、あなた方だったのか、と双方
>
> 向こう側に養老もいれば養老の解剖学教室教授、迫力があったが名前はわすれた、当時の医学部長もいて
>
> それでは、合同宴会にしますか
>
> どんどん、ずれていく
>
>
> そう問題は心身脱落
>
>
> 心身脱落してものを言っているか、書いているか
>
> ここに大きなそれこそ、同じ人間が云おうが書こう行おうが、大きな雲泥の差ができる
>
>
> かの斎藤慶典著「『東洋』哲学の根本問題あるいは井筒俊彦 講談社選書メチエ
>
> > 慶應義塾哲学科教授の斎藤慶典は「空間」を素朴に信じておって(いま・ここで=現に)でに執着しておるが、だうも視野狭窄、マッハも視野にはいっていないようだ
>
> はさてはおいても、この斎藤君も慶應義塾哲学科教授という俗の利をもって胃一著を著わしていることが顕著なんだね
>
> 同じことが、初期において遼太郎がまんだ参詣新聞にいたころ、その初期において、もちろんなんとか賞への気負いもあらうが、そんでも作家として食ってはいない、そういうところで書いたもんには、のちの臭みも少なくて好ましい
>
> 人間だんだん「大成」しくると「堕落」する
>
> 時々刻々心身脱落でけているか?
>
> それが問題だ
>
> いやさ、そんなことを言おうと、書こうとしているんぢゃない
>
>
> > サライがでてきた。サライの歌もこれを踏まえているのか。
> >
> > ウクライナ情勢
> >
> > 識者のひとりがウクライナ―ロシア会談のロシア側代表
> >
> > 文部大臣でぜんぜん実権もなく、プーチンがらの距離も遠い、だから会談そのものが茶番
> >
> > ちう意見からだんだん最近かわってきて
> >
> > この文部大臣の考え方に言及
> >
> > 事実ではなく、事実の解釈が重要
>
> これはね、現象学であらうが、深層心理学であらうが、言語学、意味論であろうが、科学であらうが、医学であらうが、人間の営みのすべて、世界の展開のすべてにおいても、みんな同じことなんだね
>
> > ああ、そうなんですね、いままで、識者という識者がここに言及しなかったほうが不思議
>
> この文部大臣はプーチンの思想的支柱をなしていると・・
>
> >
> > あの黙示録、ハルマゲドン、ロシアンルーレット
>
> なにもそんな支柱がなくても、プーチンに頭のなかでも、売電、うむ、バイデンの頭のなかでも同じようなもんぢゃ
>
> > プーチンの頭の中のみならず、ロシア民族、ロシア語圏、大露西亜、そういうものの聖戦

第二次世界大戦終結何十周年記念だかで世界中の首脳が一堂に会して戦争終結の原爆の巨大な雲が大きなスクリーンに昇り拡がった

欧米の首脳、ほとんど首脳が拍手をする

独りプーチンだけが胸に十字架を切る

拍手は喝采ではなく、まばら、顎が上がった姿勢でスクリーンを眺めてとまどった表情の首脳も多かった

その中でやや俯きながら厳しい目でスクリーンを睨みながら十字架を切るプーチン

解説者が云った

あのころからアメリカに対する敵対意識があったんですね

そうかどうかしらん

しらんが、眼前で一瞬にして大勢のいのちがすっ飛ぶ

その大勢のいのちの一々は画面にでてこない、きのこ雲の根元で隠されている

さういうもんへの十字架でもあらう


あの16歳の日の野田又男「デカルト」

世の中、世界を見る目がかわって登校する


黒板に悪ガキが男根を白墨で書き、二重丸に縦棒一本をまた書いてヒヒヒと卑猥な笑い

やになってその場を離れた

物理学教室

府立二中の旧校舎で階段教室

コツというあだ名の物理教師、もう老年で白内障か、目が良く利かない

そのコツを迎えるのあたって、別の悪ガキが、黒板の前の白墨を隠して、白墨で黒板の下を白く塗って白墨めかした

コツ先生が入ってきて、白墨を取ろうとする

取れない、ただ書いただけの白墨

教室中が笑った

笑いかけたが、憎んだ

だうしてこういう悪さを思いついて、実行して、笑えるのだろうか

先の悪ガキも、後の悪ガキも、期せずしてその後、小学校や高校の教師になった

そのころから、自分の特技に気づきだした

わたしはたにんになれる

我おもう、ゆえに、我あり

さすれば

彼おもう、ゆえに、彼あり

でもあらう

立高は中央線と南武線と青梅線と五日市線が交わっていた

・・だんべ、・・だんべ、の田舎言葉も中学ではあたりまえのもんが

突然、上品な都会言葉の中央線沿線の子女に混じった

その中央線のお嬢さんを見初めた

ところが、友人もそれを見初めた

わたしは友人になった

友人になってわたしをみる

どうにもいけない

わたしも友人もどうにもいけない

夏休みが来た

夏のお勉強と称してちょっと教室で自習して、河原に泳ぎにいったりして遊んで仲良くなった男がいた

二学期

その男が云った

お嬢さんに声をかけてきたぞ

おれとつきあってくれ、と

このやろう!

ともおもわんで、以来ますます仲良くなった

さきの友人とはまた別の友人ができた

その別の友人になってみた

ふんぎりのよいことよ

おもったことはうぢうぢせんと、さっさとやろう

確かにその後の交友でもそのいさぎよさが随所にあらわれていた

若くして35歳で逝った浅沼雅樹、丸紅に殺された

> > 戦争が聖なるものに化す
> >
> > これはヨーロッパでもさんざんやり散らかし
> >
> > そのヨーロッパの植民地にして辺境の勃興のアメリカでも同じ論理が通っていた
> >
> > 俗の極みの殺し合いが、聖なるものになる
> >
> > 救世主、ロシア民族の解放
> >
> > プロレタリア革命、労働者の解放
> >
> > みんな聖なるもに酔って、いのちを賭ける
> >
> > 酔いがさめればけろっとして民の膏血吸血中にして虫と化すものもあれば
> >
> > 酔いが酔いではなくて信念、盲信にして猛進して破滅するもんもある
> >
> > 通時的、共時的情景はいつも反復、永劫回帰
> >
> > 大は世界から小は個人まで
>
> さて言いたいことは遼太郎でも養老でも斎藤でもプーチンでもないが、みんなある種の共通性がある。
>
> 事実、事実といったところで、意味、意味といったところで、そのどこがみえてどこを意味ととしてとらえているんか?
>
> ジャーナリストちうもんは事実を報じるといいながら、いったいどこにどういう事実を見出しているんではあらうか?
>
> ジャーナリストちうもんは所詮は世の追っかけにすぎず
>
> 斎藤のような「哲学者」も哲学の世界でのおっかけにすぎない
>
> なんでそういうもんになり果てるんであらうか
>
> ある時期からジャーナリストの著作は読まぬようになった、くだらんもん
>
> あの池上あきら、か、あれがでてくればTVもチャンネルを変える、みない。つまらんもん

民放にNHKアナウンサーや記者が天下ってくる

天下りではありません、フりーになったからスカウトされたのです

スカウト?

民放の毎日も朝日も読売もまことにだらしがない

あんな、柳沢、大越、その他、その他、むかしは高橋圭三か、

どんだけ、NHKがジャーナリズム的使命を果たしておるんか?

まるで権力のスピーカー

いってもれば、いまのプーチンた習近平の政治的洗脳のデマゴーグの日本版のNHKの記者やアナウンサーを民放がとって、それで民放の使命がが果たせるのか

それほど、朝日、毎日、読売には人材がいないのか!

と怒鳴り上げても、返事はない

> たけしも、ところも、つるべも、つまらん
>
> くだらん
>
> そんでもあの松本なんちゃらの醜悪ゆえに売れるようなもんに比すれましか

バカバカしいもんバッカがはびこって、ひっこめばひきこもり

> 要はジャック・デリダもその「代表作」とされる「死を与える」ちくま学芸文庫で
>
> 延々とパトチュカの文に沿って云々をつづけていく
>
> だうしてそうなるなんであらうあ
>
> 哲学言説、宗教言説、科学言説どれをとってもまあ大方はそんなもんが多い
>
> いいたいことがあれば、スッパっといえばいい
>
> スパっといえないから、他人におんぶとだっこを繰り返すのか
>
> 斎藤的エピゴーネンのようにおんぶにだっこするもんをもちゃげて、なおかつ、けなしておのが手柄めかせることになんでせんばならんのであらうか?
>
> 人間の条件にして宿命なんであろうか?
>

軌道があって、そこから励起され、軌道がぶっ飛んで別の軌道へ

この励起を霊起といってもいいのかもしらん

霊がるかないか

しらん

理性があるかないか

それもしらん

すっかす、中学、高校、大学、社会、転職、退職と軌道はすっ飛ぶ、励起もされる

そういう外的軌道もあれば内的軌道もある

われ思うゆえにわれあり

感情移入

それを超えて他者になりきる

本来の面目になりきる

赤肉団上一無位真人になりきる

自他無礙にして一になりきる

なりきれるもんぢゃない


小学校低学年時代

砂利穴に足を引っ張られて川の流れの渦に沈みこんでゆく

もうから父の腹が両手を櫂て水面を滑ってくる

その父の手で引っ張りあげられて

大丈夫?

うん、一滴も水を吞まなかったし

小学校の夏休みは川で泳ぐのは注意してくださいと、毎夏水死者がでていた、砂利穴溺れ

その後、川にも監視員がつくようになった

その監視員になったのは浅沼雅樹で、一夏の監視員アルバイト代で高校生にして、ホテルニューオータニのガーデンバーベキューで散財使い果たす

なんとなれば、そのアルバイトを紹介してくれたのがわたしで、わたしをご馳走すると

そのわたしへのご馳走が浅沼へのごちそうでもあったのだ高校時代

小学校高学年時代

堰の下の大石をぴょんぴょん飛び越えて向こう岸にわたらう

ガ〜ン

苔の生した石に滑って頭をしたたかに撃った

日曜日、河原ちかくの医者はどこも休業

父のダットサン目玉のクランクシャフト起動車のベニヤ貼りの座席にすわって隣の産婦人科

幾針も縫っていまでも頭の禿げがある

頭蓋骨の中身は大丈夫か?

産婦人科だからそこまではわかりません



傷が大きい、その分だけ、頭皮肉に衝撃が吸収されているから多分大丈夫でしょう

新学期が始まった

成績が飛躍した

中下位低迷が一躍上位

足も速くなったペケが一番

小学校高学年

防火用水プール学校

よういドンで飛び込む

今度は宙返りで飛び込む

その爪先の指が防火用水の縁に引っ掛かって

ズッボン!

水底で目から火が出て、脳から天使

ふらふら水からあがるとまた脳天に一撃

貫井という担任の女教師、このおばさんはすぐ脳天一撃

遅刻したと脳天一撃

一撃するのは固い板でできた出席簿

プールでは一体なにで一撃されたのか?

ともかく、以来、足もますます速くなったが、野球をやればホームラン

上位学業も一躍、ほとんどトップ、試験ごとに点数が発表になるからね

また軌道が励起された

高校

国語、文系科目はまったくダメ、英数はできた、

にもかかわらず、物理がだめ

あるとき突然の啓示

数学の世界と物理の世界がつながった

一体化した

融合化した

無礙なるかな

それまでは、数学の論理は論理としてわかっているが、それが物理に及ばなかった

物理に及べばこの空間、時間、におよぶ

周りの世界がまた一変して、なんだか、とても、うれしくなった

さて、大学時代

ユークリッド空間がリーマン空間へ一変して世界が変わった

ということはなかった

云い忘れた、一即多、多即一、これに出会ったのはいつだろう

随分若いころだったが、いづれ思い出すだろう

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54858] 人間の条件にして宿命なんであらうあろうか?Re:[54857] 通時的、共時的情景はいつも反復、永劫回帰 大は世界から小は個人まで 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/16(Wed) 10:54  

> なひあおゆANNEX−Ω   訪問者数:11764496(今日:515/昨日:1788)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/16(Wed) 09:22 先負(戊辰) 旧暦 2/14 社日(春) 月齢 13.4
>
> 社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する[1]。
>
> サライ
> http://www.youtube.com/watch?v=lMkso1T6BM0
>
> サライ(バトゥ・サライ、旧サライ、 Sarai Batu、 Old Sarai、 Sarai-al-Maqrus、 Saraj、 Saray)は、13世紀から15世紀にかけてキプチャク草原を支配したモンゴル遊牧政権、ジョチ・ウルスの首都だった場所。中世には世界最大級の都市で、その人口は最盛期には60万人に達したと見積もられているが、現在は廃墟と化している。
>
> 司馬遼太郎著 「ロシアについてー北方の原形」文春文庫

下北半島十三湊の辺境の料理屋

隣の男が怒鳴りだした

遼太郎?ふん、馬鹿馬鹿しい、大嫌いだ

おい、表に出ろ、ぶんなぐってやる

雪のあがった天空、青い月が煌々

出稼ぎの都会から田舎に年滅年始でもどってきていて

遼太郎的あのインテリ臭さが我慢ならんらしい

ても、あの遼太郎のサラリーマン風の宮本武蔵より街道を行くのほうがよほどまともで

なんというても肩の力が抜けている

宮本武蔵や空海を書くときには、それらに迫ろうという気負いがあって、かえって筆も作品もだめにする

長編の龍馬が行くは、伝ちゃんおすすめ

君も読みたまえ、養老の文体もいい

その養老も売れてくれば、もうかつての文体はない

口述筆記を書き起こさせてベストセラーを乱発

馬鹿の壁にこちらが馬鹿にされているようにさえもおもえる

読んでおらんが・・

学士会館分館

隣からわいわいがやがや

襖をスーッと開けると

やあ、やあ、あなた方だったのか、と双方

向こう側に養老もいれば養老の解剖学教室教授、迫力があったが名前はわすれた、当時の医学部長もいて

それでは、合同宴会にしますか

どんどん、ずれていく


そう問題は心身脱落


心身脱落してものを言っているか、書いているか

ここに大きなそれこそ、同じ人間が云おうが書こう行おうが、大きな雲泥の差ができる


かの斎藤慶典著「『東洋』哲学の根本問題あるいは井筒俊彦 講談社選書メチエ

> 慶應義塾哲学科教授の斎藤慶典は「空間」を素朴に信じておって(いま・ここで=現に)でに執着しておるが、だうも視野狭窄、マッハも視野にはいっていないようだ

はさてはおいても、この斎藤君も慶應義塾哲学科教授という俗の利をもって胃一著を著わしていることが顕著なんだね

同じことが、初期において遼太郎がまんだ参詣新聞にいたころ、その初期において、もちろんなんとか賞への気負いもあらうが、そんでも作家として食ってはいない、そういうところで書いたもんには、のちの臭みも少なくて好ましい

人間だんだん「大成」しくると「堕落」する

時々刻々心身脱落でけているか?

それが問題だ

いやさ、そんなことを言おうと、書こうとしているんぢゃない


> サライがでてきた。サライの歌もこれを踏まえているのか。
>
> ウクライナ情勢
>
> 識者のひとりがウクライナ―ロシア会談のロシア側代表
>
> 文部大臣でぜんぜん実権もなく、プーチンがらの距離も遠い、だから会談そのものが茶番
>
> ちう意見からだんだん最近かわってきて
>
> この文部大臣の考え方に言及
>
> 事実ではなく、事実の解釈が重要

これはね、現象学であらうが、深層心理学であらうが、言語学、意味論であろうが、科学であらうが、医学であらうが、人間の営みのすべて、世界の展開のすべてにおいても、みんな同じことなんだね

> ああ、そうなんですね、いままで、識者という識者がここに言及しなかったほうが不思議

この文部大臣はプーチンの思想的支柱をなしていると・・

>
> あの黙示録、ハルマゲドン、ロシアンルーレット

なにもそんな支柱がなくても、プーチンに頭のなかでも、売電、うむ、バイデンの頭のなかでも同じようなもんぢゃ

> プーチンの頭の中のみならず、ロシア民族、ロシア語圏、大露西亜、そういうものの聖戦
>
> 戦争が聖なるものに化す
>
> これはヨーロッパでもさんざんやり散らかし
>
> そのヨーロッパの植民地にして辺境の勃興のアメリカでも同じ論理が通っていた
>
> 俗の極みの殺し合いが、聖なるものになる
>
> 救世主、ロシア民族の解放
>
> プロレタリア革命、労働者の解放
>
> みんな聖なるもに酔って、いのちを賭ける
>
> 酔いがさめればけろっとして民の膏血吸血中にして虫と化すものもあれば
>
> 酔いが酔いではなくて信念、盲信にして猛進して破滅するもんもある
>
> 通時的、共時的情景はいつも反復、永劫回帰
>
> 大は世界から小は個人まで

さて言いたいことは遼太郎でも養老でも斎藤でもプーチンでもないが、みんなある種の共通性がある。

事実、事実といったところで、意味、意味といったところで、そのどこがみえてどこを意味ととしてとらえているんか?

ジャーナリストちうもんは事実を報じるといいながら、いったいどこにどういう事実を見出しているんではあらうか?

ジャーナリストちうもんは所詮は世の追っかけにすぎず

斎藤のような「哲学者」も哲学の世界でのおっかけにすぎない

なんでそういうもんになり果てるんであらうか

ある時期からジャーナリストの著作は読まぬようになった、くだらんもん

あの池上あきら、か、あれがでてくればTVもチャンネルを変える、みない。つまらんもん

たけしも、ところも、つるべも、つまらん

くだらん

そんでもあの松本なんちゃらの醜悪ゆえに売れるようなもんに比すれましか

要はジャック・デリダもその「代表作」とされる「死を与える」ちくま学芸文庫で

延々とパトチュカの文に沿って云々をつづけていく

だうしてそうなるなんであらうあ

哲学言説、宗教言説、科学言説どれをとってもまあ大方はそんなもんが多い

いいたいことがあれば、スッパっといえばいい

スパっといえないから、他人におんぶとだっこを繰り返すのか

斎藤的エピゴーネンのようにおんぶにだっこするもんをもちゃげて、なおかつ、けなしておのが手柄めかせることになんでせんばならんのであらうか?

人間の条件にして宿命なんであろうか?

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54857] 通時的、共時的情景はいつも反復、永劫回帰 大は世界から小は個人まで 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/16(Wed) 09:42  

なひあおゆANNEX−Ω   訪問者数:11764496(今日:515/昨日:1788)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/16(Wed) 09:22 先負(戊辰) 旧暦 2/14 社日(春) 月齢 13.4

社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する[1]。

サライ
http://www.youtube.com/watch?v=lMkso1T6BM0

サライ(バトゥ・サライ、旧サライ、 Sarai Batu、 Old Sarai、 Sarai-al-Maqrus、 Saraj、 Saray)は、13世紀から15世紀にかけてキプチャク草原を支配したモンゴル遊牧政権、ジョチ・ウルスの首都だった場所。中世には世界最大級の都市で、その人口は最盛期には60万人に達したと見積もられているが、現在は廃墟と化している。

司馬遼太郎著 「ロシアについてー北方の原形」文春文庫

サライがでてきた。サライの歌もこれを踏まえているのか。

ウクライナ情勢

識者のひとりがウクライナ―ロシア会談のロシア側代表

文部大臣でぜんぜん実権もなく、プーチンがらの距離も遠い、だから会談そのものが茶番

ちう意見からだんだん最近かわってきて

この文部大臣の考え方に言及

事実ではなく、事実の解釈が重要

ああ、そうなんですね、いままで、識者という識者がここに言及しなかったほうが不思議

あの黙示録、ハルマゲドン、ロシアンルーレット

プーチンの頭の中のみならず、ロシア民族、ロシア語圏、大露西亜、そういうものの聖戦

戦争が聖なるものに化す

これはヨーロッパでもさんざんやり散らかし

そのヨーロッパの植民地にして辺境の勃興のアメリカでも同じ論理が通っていた

俗の極みの殺し合いが、聖なるものになる

救世主、ロシア民族の解放

プロレタリア革命、労働者の解放

みんな聖なるもに酔って、いのちを賭ける

酔いがさめればけろっとして民の膏血吸血中に化すものもあれば

酔いが酔いではなくて信念、盲信にして猛進して破滅するもんもある

通時的、共時的情景はいつも反復、永劫回帰

大は世界から小は個人まで


やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54856] 信じ方によってはとんでもない方向にいくこともママある。Re:[54855] 「ただ今」 と母の元へ帰ったあのころが懐かしいRe:[54854] なんだ、市販の寿司のパッケージ二つばかりかRe:[54853] 燦燦と降り注ぐ太陽の光の中で光源が渦を巻く 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/14(Mon) 18:06  

> > > あふちもゆANNEX−Ω   訪問者数:11761378(今日:437/昨日:908)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/14(Mon) 09:07 先勝(丙寅) 旧暦 2/12 月齢 11.4
>
> どうも云おうとしていることは、初っ端に浮かんできたことと、どんどん離れてどうもええことに展開していく

せっかくの坊主がらみだから、あと二三の「坊主」の風景坊主にからむ「舞子」の風景も

いやさあ、みんなつながっているね、年々再々経ても経ても・・


> あたかも一個の記事も一個の人生めいて所詮もおなじか
>
> > 危ち、あちち燃湯。萌ゆ。どっちなんだろね
> >
> > いもづる、いもづる、芋も出づる、胃も攣る
> >
> > 高千穂の町で唯一か、とあるスナック、薄暗い燈火の下で賑やかにみんなが飲み食い喋っている
> >
> > 突然飛び掛かられた
> >
> > 無学
> >
> > てめえなんぞ、簀巻きにしてこの川底に投げ込んでやる
> >
> > 女衆が一斉に退いた
> >
> > やがて警察が来た
> >
> > 無学に尋問が及んだ
> >
> > 簀巻きにもされんで、川底に投げ込まれなかったゆえか
> >
> > 一件落着
> >
> > 無学ちうのんは建長寺で得度した禅僧なんだそうだ
>
> 禅を修行しようが得度しようが、哲学や思想で人間を鍛錬し教授にならうが、景色はみんな一緒だね
>
> > 高千穂林間大学設立記念パーティ
> >
> > あの過疎地帯に廃屋と化す、ありは寸前の空き家、といっても百年、数百年の歳月風雪に耐えてきた立派な建物が林間に沢山ある
> >
> > それをつかって、過疎地帯の活性化とともに地球環境考える講座を開設して高千穂林間大学
> >
> > 多士済々
> >
> > 飛行機が大分空港についた
> >
> > 発起人のホテルオークラ前の高級外人用テラスで禿茶瓶の毛生えコンサルタントで名をあげマスコミにも登場し、禿コンサルのルーツの漢方薬局を一番町の谷底にかまえ、それというのもアルプスから滑落し、そのショックで頭髪が全部抜け、そのショックが契機となり、禿を治すクスリから心霊法までを習得しいまや押しも押されぬ禿治療の第一人者の彼女は彼女なりの美貌もあり、多くの財界官界政界の著名人を顧客に抱えていた

この彼女に招かれてやってきたのだ

> > その発起人のよこに薄汚い坊主が一人、続々と到着する多士済々をバスに案内する
> >
> > そのバスが到着したのが、この薄暗い燈火のスナック
> >
> > 多士済々それぞれに自己紹介をはじめた
> >
> > それが終わったところで、無学が飛び掛かってきた
> >
> > 目つきが悪い
> >
> > なんだあれは空港では挨拶もせんで、みんな挨拶をしたんにおめえ一人だ、にらみつけやがって
> >
> > なんだあれは、俺がしゃっべているときせせら笑うような目つきで見て、云々
> >
> > 俺はこの女の亭主なんだぞ、俺たちの結婚披露なんだぞ、とはいわんも、著名禿コンサルが結婚すると云う発表会でもあった
>
> あんないい女がなんでこんな小坊主と結婚する、したのか今でも謎で不思議だ
>
> 薄汚い小坊主
>
> 薄汚いのは無学の場合は着ているものも薄汚いがその着物を剝いでみたところでも薄汚いし目つきも薄汚い

京都は先斗町のとあるスナック

山口洋平の紹介で、天龍寺の定宿からときどき出かけて行った

カウンターの横に黒い手拭頬被りが来て、黙々と酒を飲んでいる

きけば

建仁寺の雲水、雲水ちうても単頭、雲水の筆頭

ママとしょもない話をして、そのまま夜の闇にきえてゆく

毎晩おこしになるのよ、夜が更けてから

ふ〜ん、と翌日、建仁寺に詣でて、その単頭を訪ねた

昨晩とはうってかわった風情でこざっぱりしたナリでこざっぱりした案内をしてくれた

人間ああいう風に夜と昼で変われるもんなんだ

ただそれだけ

大徳寺の単頭

坐禅会の羽村善福寺の同年和尚の弟、妻帯もせず、兄の目から見ても自慢の弟らしい

腰に荒縄を結い結んで大柄な男が現れ、なんと横柄なと思う間もなく、柄にもなく腰を低くして師家だか管長だかの提唱、利休の墓へも案内してくれた

のちに利休ゆかりの堺の名刹の住職へ転進してその晋山式では大きな華麗なる傘のしたで堂々たる衣装に包まれていて同じ男かと思った

ただそれだけ

京都先斗町の櫛簪かんざし

高野山へ出家、隠遁していたはずの稲盛京セラがいた

連れは舞子あがり芸子あがりもう女もあがった風情の上品なご婦人

こちらの連れは大宮章子、赤坂のドルチェママ

みないの、みないの、しらんぷりしているの!

とはかの大蔵省のマナーのならい

みなくても真向いのカウンターにいるんだから見えてしまう、話もきこえてしまう

祇園、先斗町の舞子はんらの憧れの小料理屋で味に定評

この葛は吉野に入ってとってきたもの

この野菜は雲畑に入って採って来たもの

この水は今はご法度、代々受け継いだ自家井戸から汲み上げたもの

とか、亭主の説明

説明のさきには子供がおって、その両脇にご両親

ご両親曰く

子供のときから味をおぼさせないとね

良いものをたべれば一生その味を覚えて育つから

不味いものをたべて育てば不味い人生しか送れないもんね

そういう教育方針もあるんだね

高野山から抜け出して、まあ、出家隠居の身で先斗町

建仁寺のあの黒頭巾の単頭を思い出した

六本木ジーラジーラ

ここのママは祇園舞子の出身でかなりのファンもいるらしく

キープボトルは大村智、それをちょいと拝借

今日はね、いい娘を紹介するわ

雪乃ちゃん、こっちこっち

まあ、祇園の女将の風情があるママね

雪乃でございます

絶世の美女

雪乃ちゃんはね、ほんの短い時間しかいられないよ、あたたは幸運よ

なんで?

お茶懐石の修行に励んでいるんです

朝から夜まで

お茶会も禅道の典座のようなもんだからそりゃあ修行も烈しかんべ

そうなんです

だから、もうお暇しなければ・・

ギューン、キー、キキキ

前を突っ走るボルボを後ろのメルセデスが追跡する

たすか、梅が丘とか言っていたな

先回りしてやろ

待ち伏せているとボルボがやって来た

キューッ、危機気、キキキ

だうも大分怖がっているようだ

ここらでゲーム終了

昨日雪乃ちゃんを追いかけたでしょ!

あのこはね、いつかじぶんでお店をもつこなのよ

お店をもつって、わかる?

お店をもつにはスポンサーも要るの

もう決まったスポンサーがいるんだから、追っかけても無駄

さうなんだね

お店を持つ

これが芸子さんらの目標らしい

会社をもつ、社長になる

これがサラリーマンの目標らしい

田園都市線江田駅からほど遠い嵐が丘のママ

うちの主人は三菱化成でございますの

あなたも卒業されたら三菱化成にぜひともきてくださいね

もう、まるでものに憑かれたように三菱化成の連呼で

三菱化成ならズンバ人にアラズ

人にアラズんば、嫁にもダセズ

べつに嫁さんが欲しいわけぢゃない、まんだ教養の19歳

中央線荻久保イエスの御霊教会

村井牧師

ここで脱いでこれを着てそこに入って下さい

洗礼の儀礼らしい

ここに飯沼幸子につれてこられた

西高出身で文学部中国語学科

竹内好の講義があるから一緒に行こう

毛沢東語録と聖書を肌身離さず

皮表紙にして天金の立派な聖書ももらった

交換日記もはじまり

彼女の長ったらしい文体が身についてしまった

どうもこの母子は狂信の気があるらしい

母親は三菱化成と叫びまくるし娘は村井牧師、イエスイエスと信仰を叫びまくる

嵐が丘の急坂を三菱ギャランのクラッチもガンガンと音をたてる猛スピードで下ってうちの工場前

こんなに遅くなってしまって大丈夫?なかに入れる?

大丈夫です、こうやって柵を越えて、と

工場に今どきのシャッターがあるわけでもなく、木の柵をいくつか並べて鎖でつないであるだけ

工場といっても当時の60年くらい前だから工場棟も頑丈な丸太で組んだようなもので

柵の一郭をずらして中に消えてゆく青年を見届けて

うむ、あんな薄汚い工場の息子なんかにはうちの娘をやるわけにはいかない

キーキーッとUターンする音が聞こえて三菱化成ママは消え去った

翌日、化成ママの娘も消え去った

約束の場所にいつまでまっても来ない

なにがなんだかわからない

飯沼が講師をしていてつれていかれた神保町の日中学院でも消えていた

悶々の日々の果て

まさか、イエスの御霊教会へいってきけばあきらかになるであらうが、そこまでは行く気もしない

かの女神三姉妹、怒りの三姉妹、岩手の早池峰にも祀らているあれに因んだお名前がでてこないあ、ああ、沖ノ島

ああ、宗像さん、何年か先輩で、飯沼さんともども探検部で女は二人だけ

宗像女史曰く、うす笑いを浮かべて

消えてしまったものを追っかけてもはじまらない

忘れなさい、忘れなさい、どっかの養命酒おじさんみたいで・・

あとからつらつら考えるに

本人のお目目には適っても、

妄信する村井牧師の目にも、嵐が丘の化成狂信ママの目に適わなかったんだろね

それでよかったのだと

でもあれは強烈なる狂信への初めての出会い

理解ではありません、信ずるのです

信じ方によってはとんでもない方向にいくこともママある。

> これはのちほどのテーマか、石川淳の小説も薄汚い
>
> その薄汚い小説の中でも古書肆店頭の晒し本籠の100円本にして「千年王国」
>
> ごみ溜めを掘り起こして命をつなぐ薄汚いもんが最後にはキリストにみえてくる
>
> 分厚いその本の読後感のゲシュタルト
>
> そこまでいかんでも
>
> 日揮大手町本社会長室
>
> 当時の会長はもう名前もでてこぬボケ脳みそだが、志賀直哉の娘婿、東洋高圧だか三井化学だかにおったんが、日揮創立者の女系閨閥のご縁もあってか日揮に来て役員の階段を登って社長も女系閨閥の渡辺、渡辺銀行の異名もあった旧三和を大蔵官僚にして乗っ取った渡辺の息子に社長をゆずった
>
> その会長と社長にあわせてあげよう
>
> 若竹馨
>
> 横浜市役所の理事にしてみなとみらいMM21の推進者
>
> 第三セクターみなとみらいの社長はかの高木文雄
>
> 高木文雄から見れば番頭
>
> 若竹馨からみれば高木はお飾りにして客寄せパンダ、いざというときは官憲にも顔の利く番犬
>
> その若竹がのこのこと会長室に入ってきた薄汚れたよれよれの着物と靴
>
> 会長も社長も頭の天辺から靴の先までみるのは、かの霞が関高官秘書と同じ
>
> 人間ケミストリーという相性がある
>
> 薄汚れていてもその中身はぴかぴかということもある、面白さはソコだ
>
> だが、そのソコがみえなければケミストリー的に化合はなしない、お互い反発で終わる
>
> なんであんな男を連れてきたんだ
>
> おめえんとこの会長も社長もろくなもんぢゃない
>
> さういうことでは、本社移転をもくろむみなとみらいの底地も買えぬ
>
> 借地でもいい、自分で設計して自分の自社ビルを建てる
>
> さういうこともかなわず、他人が建てた貸しビルの幾許かを買い取る羽目になった
>
> いまの日揮のロゴが天辺にあるクイーンズタワー
>
> そんなもんなんだね
>
> 社長特命を命じる
>
> 発令はせんでちょうだい
>
> 人間も金もつける
>
> 人間はいらない、金だけ頂戴
>
> いくらつかってもいい、ぜひ特命を成し遂げてください
>
> これも、25年以上まえの日揮
>
> 凍星やこれよりロシアンルーレット
>
> のちょっと前か
>
> 最近、やっと現実になった
>
> ソニーとホンダの提携
>
> そもそもがソニーがリチウムイオン電池で躓く
>
> 関係のリソース、人材、設備、ノウハウ、特許まとめて買い取ってしまおう
>
> 買ってもソニーの二の舞ではまた躓く
>
> そこで躓くまえに、携帯なんぞの小物白物ぢゃなくて電気自動車、当時はハシリで試作車がえらく高額
>
> さうさう、EV四輪駆動でも世界最高加速を達成した電気自動車狂い、のちに慶応の教授におさまったか、名前がでてこぬ、あれもそばにいた
>
> ホンダはハイブリッドでトヨタに水をあけられ四苦八苦
>
> でもね、本業が順調ならば、そういう新規分野に身も入れんば金も入れんのは世の習い
>
> 日揮もホンダも
>
> 日揮ぢゃ、本業ハイドロカーボン、石油ガスプラント部門のあれやこれな箸にも棒にもかからんもんが足を引っ張る
>
> ホンダだって、従来の改良型ガソリン車や二輪車で快走
>
> もたもた足を引っ張られるなかで、もたもたした部下なんぞもっては身動きがでけん
>
> そういう前に、てめえに手中に他人の人生や運命が入ってくるのが耐え難い重荷
>
> その重荷がこよなく快感ちうむきもおる、かの福田淑造のように・・
>
> 上司も部下もかるがるとおのが出世のための使い捨て、捨て石、屍累々
>
> 上司も部下もいらん、いれば重荷、だれも殴らぬ、殺さぬ、でも死んでいくのか勝手、ともいえん。
>
> 話がまだ飛んでズレてきた
>
> > なんだあんな薄汚い小僧と結婚するのかね、雲泥の差だと思ってその発表を聞いていたことが間違いない
> >
> > 目は口ほどにものをいうんだね
> >
> > ずっと飛ぶ後程、遠い噂がきて彼女は身ごもったが、無学に蹴られて流産した、と
> >
> > やっぱり、ね
> >
> > 胸を掴まれようが、殴られようが、こちらから殴り返すこともないのはいつも同じだ
> >
> > かの、大学時代の助教授
> >
> > アラブ時代の川鉄物産シンガポール所長から三井海洋開発に来て、さらにAHI Arab Heavy Indutryにきたおっさんも殴り掛かってきた
> >
> > 殴りかけるように仕向けたのかもしれない
> >
> > 殴りかかられるままに薄笑いを浮かべて耐えている
> >
> > 結果論だが、みんなその後左遷された
> >
> > 別に某が左遷を仕組んでいるもんでない
> >
> > どっかで誰かがみているのね
> >
> > 堪忍袋の緒が切れて癇癪をおこしてもハルマゲドンはいけない
> >
> > 畢竟、自己を事故で亡くすようなもんだ
> >
> > 嗚呼、昼飯がきたぞ
> >
> > 高千穂に龍村仁がいた、ガイア交響曲のあれ、制作監督
> >
> > まずは、昼飯、なんだ、市販の寿司のパッケージ二つばかりか
> >
> >
> >
> >
> >
> >
> >
> >
> > > 弥生、いやさかに生う、老い茂る生も横溢
> > >
> > > ほーほけきょ、キョキョキョ
> > >
> > > もう笹鳴きも過ぎて、成鳥の充実した声が、洪水で流されて絡み合うままに枯れた蔦の河原に取り残されて緑茫々の一郭から聞こえてくる
> > >
> > > 田中さんちのこのベンチは鶯を愛でるには郭公なところなんだね
> > >
> > > 土手下を覗き込めば田中さんは中年女性と差し向いで深刻な面持ち
> > >
> > > もう鶯の合唱団
> > >
> > > ついこないだまでは如月、いきさらぐ、じっと命をひそめていきのびたいのちがさらぐ、新しい芽吹きか、そして弥生、いやさかに生きる
> > >
> > > そんなことも思いながら鶯を聴いて
> > >
> > > 暖かい朝の陽差しの中でパラパラとスパスパやって
> > >
> > > あれは獄中のアランであったか、はたまた石川淳であったか、ま、誰でもいうし、だれでもよい
> > >
> > > ぱらぱらと出会ったところから読め
> > >
> > > 最初から最後まで読み通すのは愚の骨頂
> > >
> > > とはいわんもぱらぱらよみもある
>
> 今朝の太陽の中のぱらぱら
>
> W.ジェイムス著 桝田啓三郎訳「宗教的経験の諸相」(上)
>
> そこに引用されているアウグスティヌスの「告白」の一節
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 私も私自身の欲望に従うよりも、あなたの愛に身をまかせるほうが善いことは確信してはいたが、・・・欲望に従うという道のほうが私を楽しませ、私をしばりつけて放さなかったのである。私の心の中には
>
> 『眠れる者よ、起きよ』
>
> というあなたの呼び声に答えるものがなにもなく、ただ、
>
> 『ただ今すぐに、はい、ただ今すぐに。すこし待って下さい』
>
> というものうげな眠けを誘うような言葉があるばかりであった。
>
> しかしこの
>
> 『ただ今すぐに』の『ただ今』はいつまでも来なかったし、
>
> また『すこし』はどんどん伸びて長くなった
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> もうすこし、あとすこし 坂井泉水
>
> デリダの彷徨
>
> みんな似たようなもんだね
>
> 紀元386年も2020年も
>
> ちょとこれぢゃあまりに不味い市販の寿司2パッケージ
>
> 『はい、ただ今』
>
> 『すぐに!』
>
> 『すこし待って下さい』
>
> がらがらと玄関を開けて
>
> 「ただ今」
>
> と母の元へ帰ったあのころが懐かしい
>
>
>
> > > ぱらぱらよみは、うん、これを書いていて今気がついたんぢゃが、気づきも多いね、書けば、喋れば
> > >
> > > 一日中喋らないことも多くなった昨今、こういう場で喋るように書くことはこの太陽の光を浴びているように気持ちのいいものだ
> > >
> > > すぱすぱやっていると、過去の情景や人物が次から次へと浮かんでくる
> > >
> > > さすれば、そういうものをいちいちノートに書きとって、また、忘れないようにする
> > >
> > > さうでもせんば、、老いて惚けかかった脳みそではどんどん底抜けの深層に情景も人物ももぐりこんで一斉が混沌
> > >
> > > で、記憶も今現在、「経歴」も同じことか
> > >
> > > すぱすぱぱらぱら
> > >
> > > その浮かび上がったものをすぱすぱぱらぱら
> > >
> > > 光見えたるうちに撃て
> > >
> > > 撃たんとも光はおのずとすぱすぱらぱら
> > >
> > > 一個の人物、一冊の書
> > >
> > > 一冊の書を最初から最後まで読み通す、それは著者に振り回されことにもなる
> > >
> > > 著者がそれこそ素晴らしい世界樹をもっていたとしても、だうでもよい、あるいは、くだらぬ側面もある、そのどうでもええもんも永久にどうでもええもんではなくいつか世界樹になる芽吹きの契機かもしらんが、いまはだうでもええ、ぐだらんもん、そういうもんにも蔦のようにからまれて著者のペースに巻き込まれる
> > >
> > > 人の一個の叙景でも同じこと
> > >
> > > 良い面もあれば悪い面もある、それを糾える縄のごとく叙述して味わってみるのも、また一興かもしれんが、所詮、己が見えたるとこだけにして、見えぬところのほうが多い
> > >
> > > それはまた己自身、汝自身にもあらうし、聖と俗にもあらう
> > >
> > > さすれ、すぱすぱらぱらと出たとこ勝負
> > >
> > > それとさしたるかわりはない
> > >
> > > 一貫も偶然も所詮は同じ
> > >
> > > 聖は性
> > >
> > > 性は聖
> > >
> > > 性にしたって聖も俗もある、聖而して俗か、あるいは聖から俗まで多相なのか
> > >
> > > 聖にしたって聖も俗もある、聖而して俗か、あるいは聖から俗まで多相なのか
> > >
> > > 俗にしたって聖も俗もある、俗而して聖か、あるいは俗から聖まで多相なのか
> > >
> > > それはなりませぬ
> > >
> > > 聖を信じねばならませぬ
> > >
> > > 相対化して考えてはいけませぬ
> > >
> > > 絶対化こそ信仰なのです
> > >
> > > さすれば、
> > >
> > > 聖にして信仰
> > >
> > > 俗にして信仰
> > >
> > > はたまた信仰とすら思っていない
> > >
> > > 俗にとっては聖は世迷いごと
> > >
> > > 聖にとっては俗はまことに汚猥の極
> > >
> > > そういう言い方が自分の身に引き受けていない第三者の無責任さなのです
> > >
> > > この声はどこから聞こえてくるんであらうか?
> > >
> > > 燦燦と降り注ぐ太陽の光の中で光源が渦を巻く
> > >
> > >

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54855] 「ただ今」 と母の元へ帰ったあのころが懐かしいRe:[54854] なんだ、市販の寿司のパッケージ二つばかりかRe:[54853] 燦燦と降り注ぐ太陽の光の中で光源が渦を巻く 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/14(Mon) 14:15  

> > あふちもゆANNEX−Ω   訪問者数:11761378(今日:437/昨日:908)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/14(Mon) 09:07 先勝(丙寅) 旧暦 2/12 月齢 11.4

どうも云おうとしていることは、初っ端に浮かんできたことと、どんどん離れてどうもええことに展開していく

あたかも一個の記事も一個の人生めいて所詮もおなじか

> 危ち、あちち燃湯。萌ゆ。どっちなんだろね
>
> いもづる、いもづる、芋も出づる、胃も攣る
>
> 高千穂の町で唯一か、とあるスナック、薄暗い燈火の下で賑やかにみんなが飲み食い喋っている
>
> 突然飛び掛かられた
>
> 無学
>
> てめえなんぞ、簀巻きにしてこの川底に投げ込んでやる
>
> 女衆が一斉に退いた
>
> やがて警察が来た
>
> 無学に尋問が及んだ
>
> 簀巻きにもされんで、川底に投げ込まれなかったゆえか
>
> 一件落着
>
> 無学ちうのんは建長寺で得度した禅僧なんだそうだ

禅を修行しようが得度しようが、哲学や思想で人間を鍛錬し教授にならうが、景色はみんな一緒だね

> 高千穂林間大学設立記念パーティ
>
> あの過疎地帯に廃屋と化す、ありは寸前の空き家、といっても百年、数百年の歳月風雪に耐えてきた立派な建物が林間に沢山ある
>
> それをつかって、過疎地帯の活性化とともに地球環境考える講座を開設して高千穂林間大学
>
> 多士済々
>
> 飛行機が大分空港についた
>
> 発起人のホテルオークラ前の高級外人用テラスで禿茶瓶の毛生えコンサルタントで名をあげマスコミにも登場し、禿コンサルのルーツの漢方薬局を一番町の谷底にかまえ、それというのもアルプスから滑落し、そのショックで頭髪が全部抜け、そのショックが契機となり、禿を治すクスリから心霊法までを習得しいまや押しも押されぬ禿治療の第一人者の彼女は彼女なりの美貌もあり、多くの財界官界政界の著名人を顧客に抱えていた
>
> その発起人のよこに薄汚い坊主が一人、続々と到着する多士済々をバスに案内する
>
> そのバスが到着したのが、この薄暗い燈火のスナック
>
> 多士済々それぞれに自己紹介をはじめた
>
> それが終わったところで、無学が飛び掛かってきた
>
> 目つきが悪い
>
> なんだあれは空港では挨拶もせんで、みんな挨拶をしたんにおめえ一人だ、にらみつけやがって
>
> なんだあれは、俺がしゃっべているときせせら笑うような目つきで見て、云々
>
> 俺はこの女の亭主なんだぞ、俺たちの結婚披露なんだぞ、とはいわんも、著名禿コンサルが結婚すると云う発表会でもあった

あんないい女がなんでこんな小坊主と結婚する、したのか今でも謎で不思議だ

薄汚い小坊主

薄汚いのは無学の場合は着ているものも薄汚いがその着物を剝いでみたところでも薄汚いし目つきも薄汚い

これはのちほどのテーマか、石川淳の小説も薄汚い

その薄汚い小説の中でも古書肆店頭の晒し本籠の100円本にして「千年王国」

ごみ溜めを掘り起こして命をつなぐ薄汚いもんが最後にはキリストにみえてくる

分厚いその本の読後感のゲシュタルト

そこまでいかんでも

日揮大手町本社会長室

当時の会長はもう名前もでてこぬボケ脳みそだが、志賀直哉の娘婿、東洋高圧だか三井化学だかにおったんが、日揮創立者の女系閨閥のご縁もあってか日揮に来て役員の階段を登って社長も女系閨閥の渡辺、渡辺銀行の異名もあった旧三和を大蔵官僚にして乗っ取った渡辺の息子に社長をゆずった

その会長と社長にあわせてあげよう

若竹馨

横浜市役所の理事にしてみなとみらいMM21の推進者

第三セクターみなとみらいの社長はかの高木文雄

高木文雄から見れば番頭

若竹馨からみれば高木はお飾りにして客寄せパンダ、いざというときは官憲にも顔の利く番犬

その若竹がのこのこと会長室に入ってきた薄汚れたよれよれの着物と靴

会長も社長も頭の天辺から靴の先までみるのは、かの霞が関高官秘書と同じ

人間ケミストリーという相性がある

薄汚れていてもその中身はぴかぴかということもある、面白さはソコだ

だが、そのソコがみえなければケミストリー的に化合はなしない、お互い反発で終わる

なんであんな男を連れてきたんだ

おめえんとこの会長も社長もろくなもんぢゃない

さういうことでは、本社移転をもくろむみなとみらいの底地も買えぬ

借地でもいい、自分で設計して自分の自社ビルを建てる

さういうこともかなわず、他人が建てた貸しビルの幾許かを買い取る羽目になった

いまの日揮のロゴが天辺にあるクイーンズタワー

そんなもんなんだね

社長特命を命じる

発令はせんでちょうだい

人間も金もつける

人間はいらない、金だけ頂戴

いくらつかってもいい、ぜひ特命を成し遂げてください

これも、25年以上まえの日揮

凍星やこれよりロシアンルーレット

のちょっと前か

最近、やっと現実になった

ソニーとホンダの提携

そもそもがソニーがリチウムイオン電池で躓く

関係のリソース、人材、設備、ノウハウ、特許まとめて買い取ってしまおう

買ってもソニーの二の舞ではまた躓く

そこで躓くまえに、携帯なんぞの小物白物ぢゃなくて電気自動車、当時はハシリで試作車がえらく高額

さうさう、EV四輪駆動でも世界最高加速を達成した電気自動車狂い、のちに慶応の教授におさまったか、名前がでてこぬ、あれもそばにいた

ホンダはハイブリッドでトヨタに水をあけられ四苦八苦

でもね、本業が順調ならば、そういう新規分野に身も入れんば金も入れんのは世の習い

日揮もホンダも

日揮ぢゃ、本業ハイドロカーボン、石油ガスプラント部門のあれやこれな箸にも棒にもかからんもんが足を引っ張る

ホンダだって、従来の改良型ガソリン車や二輪車で快走

もたもた足を引っ張られるなかで、もたもたした部下なんぞもっては身動きがでけん

そういう前に、てめえに手中に他人の人生や運命が入ってくるのが耐え難い重荷

その重荷がこよなく快感ちうむきもおる、かの福田淑造のように・・

上司も部下もかるがるとおのが出世のための使い捨て、捨て石、屍累々

上司も部下もいらん、いれば重荷、だれも殴らぬ、殺さぬ、でも死んでいくのか勝手、ともいえん。

話がまだ飛んでズレてきた

> なんだあんな薄汚い小僧と結婚するのかね、雲泥の差だと思ってその発表を聞いていたことが間違いない
>
> 目は口ほどにものをいうんだね
>
> ずっと飛ぶ後程、遠い噂がきて彼女は身ごもったが、無学に蹴られて流産した、と
>
> やっぱり、ね
>
> 胸を掴まれようが、殴られようが、こちらから殴り返すこともないのはいつも同じだ
>
> かの、大学時代の助教授
>
> アラブ時代の川鉄物産シンガポール所長から三井海洋開発に来て、さらにAHI Arab Heavy Indutryにきたおっさんも殴り掛かってきた
>
> 殴りかけるように仕向けたのかもしれない
>
> 殴りかかられるままに薄笑いを浮かべて耐えている
>
> 結果論だが、みんなその後左遷された
>
> 別に某が左遷を仕組んでいるもんでない
>
> どっかで誰かがみているのね
>
> 堪忍袋の緒が切れて癇癪をおこしてもハルマゲドンはいけない
>
> 畢竟、自己を事故で亡くすようなもんだ
>
> 嗚呼、昼飯がきたぞ
>
> 高千穂に龍村仁がいた、ガイア交響曲のあれ、制作監督
>
> まずは、昼飯、なんだ、市販の寿司のパッケージ二つばかりか
>
>
>
>
>
>
>
>
> > 弥生、いやさかに生う、老い茂る生も横溢
> >
> > ほーほけきょ、キョキョキョ
> >
> > もう笹鳴きも過ぎて、成鳥の充実した声が、洪水で流されて絡み合うままに枯れた蔦の河原に取り残されて緑茫々の一郭から聞こえてくる
> >
> > 田中さんちのこのベンチは鶯を愛でるには郭公なところなんだね
> >
> > 土手下を覗き込めば田中さんは中年女性と差し向いで深刻な面持ち
> >
> > もう鶯の合唱団
> >
> > ついこないだまでは如月、いきさらぐ、じっと命をひそめていきのびたいのちがさらぐ、新しい芽吹きか、そして弥生、いやさかに生きる
> >
> > そんなことも思いながら鶯を聴いて
> >
> > 暖かい朝の陽差しの中でパラパラとスパスパやって
> >
> > あれは獄中のアランであったか、はたまた石川淳であったか、ま、誰でもいうし、だれでもよい
> >
> > ぱらぱらと出会ったところから読め
> >
> > 最初から最後まで読み通すのは愚の骨頂
> >
> > とはいわんもぱらぱらよみもある

今朝の太陽の中のぱらぱら

W.ジェイムス著 桝田啓三郎訳「宗教的経験の諸相」(上)

そこに引用されているアウグスティヌスの「告白」の一節

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

私も私自身の欲望に従うよりも、あなたの愛に身をまかせるほうが善いことは確信してはいたが、・・・欲望に従うという道のほうが私を楽しませ、私をしばりつけて放さなかったのである。私の心の中には

『眠れる者よ、起きよ』

というあなたの呼び声に答えるものがなにもなく、ただ、

『ただ今すぐに、はい、ただ今すぐに。すこし待って下さい』

というものうげな眠けを誘うような言葉があるばかりであった。

しかしこの

『ただ今すぐに』の『ただ今』はいつまでも来なかったし、

また『すこし』はどんどん伸びて長くなった

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

もうすこし、あとすこし 坂井泉水

デリダの彷徨

みんな似たようなもんだね

紀元386年も2020年も

ちょとこれぢゃあまりに不味い市販の寿司2パッケージ

『はい、ただ今』

『すぐに!』

『すこし待って下さい』

がらがらと玄関を開けて

「ただ今」

と母の元へ帰ったあのころが懐かしい



> > ぱらぱらよみは、うん、これを書いていて今気がついたんぢゃが、気づきも多いね、書けば、喋れば
> >
> > 一日中喋らないことも多くなった昨今、こういう場で喋るように書くことはこの太陽の光を浴びているように気持ちのいいものだ
> >
> > すぱすぱやっていると、過去の情景や人物が次から次へと浮かんでくる
> >
> > さすれば、そういうものをいちいちノートに書きとって、また、忘れないようにする
> >
> > さうでもせんば、、老いて惚けかかった脳みそではどんどん底抜けの深層に情景も人物ももぐりこんで一斉が混沌
> >
> > で、記憶も今現在、「経歴」も同じことか
> >
> > すぱすぱぱらぱら
> >
> > その浮かび上がったものをすぱすぱぱらぱら
> >
> > 光見えたるうちに撃て
> >
> > 撃たんとも光はおのずとすぱすぱらぱら
> >
> > 一個の人物、一冊の書
> >
> > 一冊の書を最初から最後まで読み通す、それは著者に振り回されことにもなる
> >
> > 著者がそれこそ素晴らしい世界樹をもっていたとしても、だうでもよい、あるいは、くだらぬ側面もある、そのどうでもええもんも永久にどうでもええもんではなくいつか世界樹になる芽吹きの契機かもしらんが、いまはだうでもええ、ぐだらんもん、そういうもんにも蔦のようにからまれて著者のペースに巻き込まれる
> >
> > 人の一個の叙景でも同じこと
> >
> > 良い面もあれば悪い面もある、それを糾える縄のごとく叙述して味わってみるのも、また一興かもしれんが、所詮、己が見えたるとこだけにして、見えぬところのほうが多い
> >
> > それはまた己自身、汝自身にもあらうし、聖と俗にもあらう
> >
> > さすれ、すぱすぱらぱらと出たとこ勝負
> >
> > それとさしたるかわりはない
> >
> > 一貫も偶然も所詮は同じ
> >
> > 聖は性
> >
> > 性は聖
> >
> > 性にしたって聖も俗もある、聖而して俗か、あるいは聖から俗まで多相なのか
> >
> > 聖にしたって聖も俗もある、聖而して俗か、あるいは聖から俗まで多相なのか
> >
> > 俗にしたって聖も俗もある、俗而して聖か、あるいは俗から聖まで多相なのか
> >
> > それはなりませぬ
> >
> > 聖を信じねばならませぬ
> >
> > 相対化して考えてはいけませぬ
> >
> > 絶対化こそ信仰なのです
> >
> > さすれば、
> >
> > 聖にして信仰
> >
> > 俗にして信仰
> >
> > はたまた信仰とすら思っていない
> >
> > 俗にとっては聖は世迷いごと
> >
> > 聖にとっては俗はまことに汚猥の極
> >
> > そういう言い方が自分の身に引き受けていない第三者の無責任さなのです
> >
> > この声はどこから聞こえてくるんであらうか?
> >
> > 燦燦と降り注ぐ太陽の光の中で光源が渦を巻く
> >
> >

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54854] なんだ、市販の寿司のパッケージ二つばかりかRe:[54853] 燦燦と降り注ぐ太陽の光の中で光源が渦を巻く 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/14(Mon) 12:14  

> あふちもゆANNEX−Ω   訪問者数:11761378(今日:437/昨日:908)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/14(Mon) 09:07 先勝(丙寅) 旧暦 2/12 月齢 11.4

危ち、あちち燃湯。萌ゆ。どっちなんだろね

いもづる、いもづる、芋も出づる、胃も攣る

高千穂の町で唯一か、とあるスナック、薄暗い燈火の下で賑やかにみんなが飲み食い喋っている

突然飛び掛かれた

無学

てめえなんぞ、簀巻きにしてこの川底に投げ込んでやる

女衆が一斉に退いた

やがて警察が来た

無学に尋問が及んだ

簀巻きにもされんで、川底に投げ込まれなかったゆえか

一件落着

無学ちうのんは建長寺で得度した禅僧なんだそうだ

高千穂林間大学設立記念パーティ

あの過疎地帯に廃屋と化す、ありは寸前の空き家、といっても百年、数百年の歳月風雪に耐えてきた立派な建物が林間に沢山ある

それをつかって、過疎地帯の活性化とともに地球環境考える講座を開設して高千穂林間大学

多士済々

飛行機が大分空港についた

発起人のホテルオークラ前の高級外人用テラスで禿茶瓶の毛生えコンサルタントで名をあげマスコミにも登場し、禿コンサルのルーツの漢方薬局を一番町の谷底にかまえ、それというのもアルプスから滑落し、そのショックで頭髪が全部抜け、そのショックが契機となり、禿を治すクスリから心霊法までを習得しいまや押しも押されぬ禿治療の第一人者の彼女は彼女なりの美貌もあり、多くの財界官界政界の著名人を顧客に抱えていた

その発起人のよこに薄汚い坊主が一人、続々と到着する多士済々をバスに案内する

そのバスが到着したのが、この薄暗い燈火のスナック

多士済々それぞれに自己紹介をはじめた

それが終わったところで、無学が飛び掛かってきた

目つきが悪い

なんだあれは空港では挨拶もせんで、みんな挨拶をしたんにおめえ一人だ、にらみつけやがって

なんだあれは、俺がしゃっべているときせせら笑うような目つきで見て、云々

俺はこの女の亭主なんだぞ、俺たちの結婚披露なんだぞ、とはいわんも、著名禿コンサルが結婚すると云う発表会でもあった

なんだあんな薄汚い小僧と結婚するのかね、雲泥の差だと思ってその発表を聞いていたことが間違いない

目は口ほどにものをいうんだね

ずっと飛ぶ後程、遠い噂がきて彼女は身ごもったが、無学に蹴られて流産した、と

やっぱり、ね

胸を掴まれようが、殴られようが、こちらから殴り返すこともないのはいつも同じだ

かの、大学時代の助教授

アラブ時代の川鉄物産シンガポール所長から三井海洋開発に来て、さらにAHI Arab Heavy Indutryにきたおっさんも殴り掛かってきた

殴りかけるように仕向けたのかもしれない

殴りかかられるままに薄笑いを浮かべて耐えている

結果論だが、みんなその後左遷された

別に某が左遷を仕組んでいるもんでない

どっかで誰かがみているのね

堪忍袋の緒が切れて癇癪をおこしてもハルマゲドンはいけない

畢竟、自己を事故で亡くすようなもんだ

嗚呼、昼飯がきたぞ

高千穂に龍村仁がいた、ガイア交響曲のあれ、制作監督

まずは、昼飯、なんだ、市販の寿司のパッケージ二つばかりか








> 弥生、いやさかに生う、老い茂る生も横溢
>
> ほーほけきょ、キョキョキョ
>
> もう笹鳴きも過ぎて、成鳥の充実した声が、洪水で流されて絡み合うままに枯れた蔦の河原に取り残されて緑茫々の一郭から聞こえてくる
>
> 田中さんちのこのベンチは鶯を愛でるには郭公なところなんだね
>
> 土手下を覗き込めば田中さんは中年女性と差し向いで深刻な面持ち
>
> もう鶯の合唱団
>
> ついこないだまでは如月、いきさらぐ、じっと命をひそめていきのびたいのちがさらぐ、新しい芽吹きか、そして弥生、いやさかに生きる
>
> そんなことも思いながら鶯を聴いて
>
> 暖かい朝の陽差しの中でパラパラとスパスパやって
>
> あれは獄中のアランであったか、はたまた石川淳であったか、ま、誰でもいうし、だれでもよい
>
> ぱらぱらと出会ったところから読め
>
> 最初から最後まで読み通すのは愚の骨頂
>
> とはいわんもぱらぱらよみもある
>
> ぱらぱらよみは、うん、これを書いていて今気がついたんぢゃが、気づきも多いね、書けば、喋れば
>
> 一日中喋らないことも多くなった昨今、こういう場で喋るように書くことはこの太陽の光を浴びているように気持ちのいいものだ
>
> すぱすぱやっていると、過去の情景や人物が次から次へと浮かんでくる
>
> さすれば、そういうものをいちいちノートに書きとって、また、忘れないようにする
>
> さうでもせんば、、老いて惚けかかった脳みそではどんどん底抜けの深層に情景も人物ももぐりこんで一斉が混沌
>
> で、記憶も今現在、「経歴」も同じことか
>
> すぱすぱぱらぱら
>
> その浮かび上がったものをすぱすぱぱらぱら
>
> 光見えたるうちに撃て
>
> 撃たんとも光はおのずとすぱすぱらぱら
>
> 一個の人物、一冊の書
>
> 一冊の書を最初から最後まで読み通す、それは著者に振り回されことにもなる
>
> 著者がそれこそ素晴らしい世界樹をもっていたとしても、だうでもよい、あるいは、くだらぬ側面もある、そのどうでもええもんも永久にどうでもええもんではなくいつか世界樹になる芽吹きの契機かもしらんが、いまはだうでもええ、ぐだらんもん、そういうもんにも蔦のようにからまれて著者のペースに巻き込まれる
>
> 人の一個の叙景でも同じこと
>
> 良い面もあれば悪い面もある、それを糾える縄のごとく叙述して味わってみるのも、また一興かもしれんが、所詮、己が見えたるとこだけにして、見えぬところのほうが多い
>
> それはまた己自身、汝自身にもあらうし、聖と俗にもあらう
>
> さすれ、すぱすぱらぱらと出たとこ勝負
>
> それとさしたるかわりはない
>
> 一貫も偶然も所詮は同じ
>
> 聖は性
>
> 性は聖
>
> 性にしたって聖も俗もある、聖而して俗か、あるいは聖から俗まで多相なのか
>
> 聖にしたって聖も俗もある、聖而して俗か、あるいは聖から俗まで多相なのか
>
> 俗にしたって聖も俗もある、俗而して聖か、あるいは俗から聖まで多相なのか
>
> それはなりませぬ
>
> 聖を信じねばならませぬ
>
> 相対化して考えてはいけませぬ
>
> 絶対化こそ信仰なのです
>
> さすれば、
>
> 聖にして信仰
>
> 俗にして信仰
>
> はたまた信仰とすら思っていない
>
> 俗にとっては聖は世迷いごと
>
> 聖にとっては俗はまことに汚猥の極
>
> そういう言い方が自分の身に引き受けていない第三者の無責任さなのです
>
> この声はどこから聞こえてくるんであらうか?
>
> 燦燦と降り注ぐ太陽の光の中で光源が渦を巻く
>
>

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54853] 燦燦と降り注ぐ太陽の光の中で光源が渦を巻く 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/14(Mon) 10:22  

あふちもゆANNEX−Ω   訪問者数:11761378(今日:437/昨日:908)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/14(Mon) 09:07 先勝(丙寅) 旧暦 2/12 月齢 11.4 危ち、あちち燃湯。萌ゆ。どっちなんだろね


弥生ももう半ばにして昨日は8日ぶりに自転車でデローザネオプリマートバティックの骨董品、レコード9s刻印入り、48kmを平均時速20km/hだから、もう一年まえに比べて短くのろい、呪いにかかったようにのろい、クロスバイクな初心者へなへなが抜き去っていくのも屁とぜず、この年ならばもう若者中年に伍して走ることもなければ、16号線で滝山を越えて、そうそうあの峠の頂上に建つ幽霊のような病人がふらふらと出てくるあの幽霊屋敷病院も、今や高齢化社会であぶく銭をしこたまつっこんでアールデコの宮殿めかしたリハビリ病院に衣替え、喜多八にいくつくと支度中、夜に宴会が入っていて仕込みで忙しいのよ、せっかくお越しいただいたのにすみません、御慶、客足もだんだんもどってきているのね、八王子駅前佐藤書房、今日は何キロ?ま、30kmくらいなもんかと、見やればネットで買った3500円のクロオデル本が110円、いったいどうなっているんぢゃと、エリアーデはないか?あるよと4冊ほど、立派ですねえ、うちの私立図書館じゃ1冊もなくて取り寄せるに1か月以上もかかった、とはいえ、好みのもんではなくやむなくまた峠を越えて多摩川土手

弥生、いやさかに生う、老い茂る生も横溢

ほーほけきょ、キョキョキョ

もう笹鳴きも過ぎて、成鳥の充実した声が、洪水で流されて絡み合うままに枯れた蔦の河原に取り残されて緑茫々の一郭から聞こえてくる

田中さんちのこのベンチは鶯を愛でるには郭公なところなんだね

土手下を覗き込めば田中さんは中年女性と差し向いで深刻な面持ち

もう鶯の合唱団

ついこないだまでは如月、いきさらぐ、じっと命をひそめていきのびたいのちがさらぐ、新しい芽吹きか、そして弥生、いやさかに生きる

そんなことも思いながら鶯を聴いて

暖かい朝の陽差しの中でパラパラとスパスパやって

あれは獄中のアランであったか、はたまた石川淳であったか、ま、誰でもいうし、だれでもよい

ぱらぱらと出会ったところから読め

最初から最後まで読み通すのは愚の骨頂

とはいわんもぱらぱらよみもある

ぱらぱらよみは、うん、これを書いていて今気がついたんぢゃが、気づきも多いね、書けば、喋れば

一日中喋らないことも多くなった昨今、こういう場で喋るように書くことはこの太陽の光を浴びているように気持ちのいいものだ

すぱすぱやっていると、過去の情景や人物が次から次へと浮かんでくる

さすれば、そういうものをいちいちノートに書きとって、また、忘れないようにする

さうでもせんば、、老いて惚けかかった脳みそではどんどん底抜けの深層に情景も人物ももぐりこんで一斉が混沌

で、記憶も今現在、「経歴」も同じことか

すぱすぱぱらぱら

その浮かび上がったものをすぱすぱぱらぱら

光見えたるうちに撃て

撃たんとも光はおのずとすぱすぱらぱら

一個の人物、一冊の書

一冊の書を最初から最後まで読み通す、それは著者に振り回されことにもなる

著者がそれこそ素晴らしい世界樹をもっていたとしても、だうでもよい、あるいは、くだらぬ側面もある、そのどうでもええもんも永久にどうでもええもんではなくいつか世界樹になる芽吹きの契機かもしらんが、いまはだうでもええ、ぐだらんもん、そういうもんにも蔦のようにからまれて著者のペースに巻き込まれる

人の一個の叙景でも同じこと

良い面もあれば悪い面もある、それを糾える縄のごとく叙述して味わってみるのも、また一興かもしれんが、所詮、己が見えたるとこだけにして、見えぬところのほうが多い

それはまた己自身、汝自身にもあらうし、聖と俗にもあらう

さすれ、すぱすぱらぱらと出たとこ勝負

それとさしたるかわりはない

一貫も偶然も所詮は同じ

聖は性

性は聖

性にしたって聖も俗もある、聖而して俗か、あるいは聖から俗まで多相なのか

聖にしたって聖も俗もある、聖而して俗か、あるいは聖から俗まで多相なのか

俗にしたって聖も俗もある、俗而して聖か、あるいは俗から聖まで多相なのか

それはなりませぬ

聖を信じねばならませぬ

相対化して考えてはいけませぬ

絶対化こそ信仰なのです

さすれば、

聖にして信仰

俗にして信仰

はたまた信仰とすら思っていない

俗にとっては聖は世迷いごと

聖にとっては俗はまことに汚猥の極

そういう言い方が自分の身に引き受けていない第三者の無責任さなのです

この声はどこから聞こえてくるんであらうか?

燦燦と降り注ぐ太陽の光の中で光源が渦を巻く

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54852] 凍星やこれよりロシアンルーレット 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/13(Sun) 11:51  

凍星やこれよりロシアンルーレット 梵

これは三橋句会の狼群、といっても殆どが雌狼であったが、そに参入したてのころの東電八王子支社にてかれこれ20年前くらいの句であろうか

ご婦人がほとんどのせいもあって、とったのは三橋唯一人

それも句評の段になってこの句が特選

貴婦人がたががやがや

ロシアンルーレットって?

凍星とロシアが付きすぎかとおもっていたが、そんなふうもなく

ロシアンルーレットというのは、回転式リボルバー拳銃がルーレット

ラスベガスのルーレットならお金を賭ける

ロシアンルーレットでは命を懸ける

決闘ぢゃないのよ、自分に自分を賭ける

空の弾倉、丁度蓮を切ったように穴が沢山ある弾倉に一発だけ、あるいは半分、あるいは全部-1発だけ弾をこめる

これを回転して自分のコメカミに当て

引金を引く

弾の入っている弾倉がたまたま銃身、筒の部分、弾が飛び出す部分にきていれば自分のコメカミを弾丸が貫く

弾丸が入ってない弾倉のところで引金を引けば空撃ち

実弾の入った弾倉が銃身に重なるか否か、これがルーレットの賭け

そういう弾倉をカラカラと回す

凍星の瞬く天を仰いでコメカミに銃身をあてる

「これより」がミソで、イニシエーション

凍星はあたかも銃弾のごとく夜空に煌めき

弾倉の回転音はあたかも凍星の降り来る光の音のごとく

運命の試し時、運命の一発、覚悟

だから、これは冬のロシアの黙示録としては

プーチンのウクライナへのハルマゲドン

プーチンのロシアンルーレット

外に向けるか

内に向けるか

そういうロシア的なものなのね

わかった?

ぐだぐだ説明せんでもわかるもんにゃあ、わかる

山口洋平

立高3年間一緒にして京大工学部出のジャズ喫茶オーナー

のちに大転回して技術士資格多数を取得し、

高野山道路など護摩壇山、竜神温泉までをつくり

金剛三昧院はじめよく一緒に高野山およびその周辺の聖地巡りをなした

栂正隆、平田精耕 石川綴の石川社長ら天龍寺系綺羅星諸氏との縁をも結んでくれた

心臓ステントがロシアンルーレットに化したか

父が倒れて救急車にのせ、そのあとを追っているときに訃報が来た

その直前であったか、虫の知らせというのか

長年の無沙汰の末にメール連絡をいれたら

すぐ奥様と並んで逆さまの画像つきのメール返事がきて

そこに丸山ワクチンの件では世話になった云々のその最後に

凍星やこれよりロシアンルーレット

とあった

泣けた。






やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54851] 高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人。Re:[54846] いくら日常言語的な経歴があろうが経歴(きょうりゃく)の貧弱なもんは美味しくもないし栄養にもならぬ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/12(Sat) 21:41  

夕方にふらつきながら図書館にいって取り戻してきた

ここに写して残しておくに足る名文であろう

井筒の「経歴」にして道元の「経歴」と「有時」


> してちやしANNEX−Ω   訪問者数:11755934(今日:367/昨日:1627) 投稿者:梵@天地獄@舌下の黙々 投稿日:2022/03/10(thu) 16:50 先負(壬戌) 旧暦 2/8 月齢 7.4 上弦
>
> 今朝はなぜか「経歴」を思い出しだ
>
> 道元の言葉で「きょうりゃく」と読む
>
> 「意識と本質」などをめくってみたが見当たらない
>
> だいたいが、レ点や線引きが多くキーワードとか己が想念を欄外に書き出す
>
> そういう落書きがあれば捜し易いのだが、20年前のレ点と線引では探すのも大変
>
> そこでの〜みそをかき回し
>
> ああ、そうだ、あの時にその興に駆られて友人にメールを送ったはずだ
>
> そのメール2022/02/09,Wed 11:39がこれ↓
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 経歴の日々好日にして如月
>
> 今朝は面白い言葉にであった
>
> 道元の「経歴」すなわち「きょうりゃく」と読む
>
> 華厳的な一即多、多即一の一個の宝珠の「けいりゃく」に映り込む過去現在東西南北自他万象が燦然と輝を放つ
>
> これは井筒の「コスモスとアンチコスモス」U創造不断の章、文庫本の200ページ目前後の記述に詳しい

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人。

山と山との間に時間的先後はない。

この山頂に辿りつくまでの日々、昨日はあの山を越えた、今日はこの山を越えている。

昨日の山は先、今日の山は後。

しかし、ひときわ高く聳え立つ山の頂から全景を鳥瞰するこの人にとっては、山々の日付けはなくなっている。

あともさきもない。

全ての山が彼から――彼の「我」から――等距離にある。

非時間的「同時開顕」の茫洋たる空間だ。

・・・・・

道元の説く「有時」にも、まさにこういう二面がある。

「飛去」的側面と不「飛去」的側面と。

互いに矛盾するこの二面を一に合わせたところに、「有時」の「経歴」を道元は見る。

根源的非時間的マンダラの、経験的存在次元における時間的展開としての、それが「有時」のあり方なのである。


根源的非時間マンダラが、そのすべてを挙げて、刻々に時間フィールドとして、現成していく。

根源的非時間マンダラの中心点は「空」だった。

これに対して

非時間マンダラの現象的展開形態としての時間フィールドの中心点は「我」。

これら二つの中心点相互のあいだには緊密な照応関係がある。

と言うより、

二つは、それぞれの機能次元を異にするだけで、本源的には一つのものである。

非時間マンダラの中心点が、そのまま時間的展開の次元において、「我」として働くのだ。


道元が、「わが有時」という表現を使っていることに、深い意味を読み取らなくてはならない。

「有時」「経歴」の中心に、「我」を置く。

ここに至って、道元の「創造不断」的時間論は、思想的独創性の深みを窮めるのである。


この「我」はどういうわれであるのか、については、古来、注釈者ののあいだに諸説がある。

大我、宇宙的われ、「本来の面目」のことだという人もあれば、経験的意識主体としての個我であると言う人もある。

だが、実は、それほど問題にする必要のないことなのではあるまいか、と私は思う。

もし「有時」が、上来説明してきたような内容をもつものであるならば、その「有時」を刻々に「経歴」せしめる中心軸としての「我」は、

生滅流転の世界に生きる経験的、現象的主体でなければならない

と同時に、また、

万象「同時炳現」の非時間的マンダラを、寂然不動の相において観察する形而上的主体でもなければならない。

「心真如門」と「心消滅門」との相矛盾する二面を一にする『大乗起信論』の一心のように。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

ふりがな文庫 “炳現”の読み方と例文
一心法界の海に森羅万象が映って一時に炳現すると観るのである。そこに一切法の縁起の無尽があり、事々の無礙がある。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

> このたび20年ぶりに井筒を読み始めて思うことは、これはまことに言語における交響曲
>
> 井筒はこの壮大なるオーケストラのしつらえ、マーラーの巨大なる管弦打楽器をはるかに凌駕したしつらえの中で
>
> 奏でるメロディー、哲学的構造化の波濤の間に間に鬼籍の巨人まで動員せしめて歌わせる独唱あるいは大合唱
>
> この大いなるオーケストラ合唱団を率いて指揮棒を振う井筒
>
> 構造化のメロディーの楽譜は井筒の脳中にあり、そこに歌われる詩や言葉は構造化の閃きに応じて縦横無尽に呼び出されるペルシャ・ユダヤ・ギリシャ・アラブ・インド・中國・日本などの巨人の群れからの、その一即多、多即一の歌声
>
> まことにこんな面白いもんはなく
>
> わが駄眩妄眩の類も「経歴」にして「きょくりゃく」か
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> この宛先の友人が井筒の存在を教えてくれた
>
> それもわが経歴(きょうりゃく)にして恵まれた
>
> 偉大なる叙事詩にして交響曲、そんな哲学書がかつてあっただろうか
>
> 20年前に齧りだしたときは、もう、その分かりにくい述語も抵抗になってまことに頭が痛い
>
> 痛さを押して読了したのは、そこに比較的なじみやすい俳句のこと、禅語のこと、わが経歴において大部を占めるアラブのことなどに轢かれて
>
> ようは、なじみがあっても知らないことは山とある
>
> 人は誰でも自分の目先、視線や脳みその想念の届く範囲しかみえない
>
> それを押し広げてくれる、見えないもんも観えたきにさせてくれる
>
> さういう気にさせてくれもんが、おのが経歴に鑑みれば、あきらかに己が体験経験にもある
>
> そうなってくると、見えぬ先の茫はっきり見えてきて、のめり込む
>
> 禅語ひとつとったって自分の視線が届いているものは量質ともに実に限定的
>
> その限定された視野狭窄を広げてくる
>
> 世の中には自分が知らない人間、通時的に共時的もまことに無限大
>
> その無限大の幾許かが、古代であれ、地の果てであれ、自分と共有できるもの
>
> 共感、共鳴、共振
>
> できるもの、さういうもんを発見するのは人生の喜び
>
> だけれどもそういう共感、共鳴、共振を起こさずして反発、反感、果ては罵倒したくなるもんにも多く出会う
>
> 総じてそういうもんは通時的、共時的な広がりのかなたにいるものではなく
>
> すぐそばにいてどくどくと血の流れる心臓をもってむしゃむしゃと食い散らかして
>
> ぼたぼたと臭い糞をしまくっている輩
>
> その糞を箆でかき集めてあれこれとねめまわし舐めまわし
>
> 糞もええ匂いで、美味
>
> とはおもわんが、なんで臭いのんか、なんで不味いのんか
>
> そう考える機縁を与えてくると糞もまた仏
>
> その糞を搔き集める言葉にしてコトバは、まさに乾屎橛
>
> 平田精耕がいつも振り回してたあれだ
>
> 経歴、いろんなところでつながる
>
> 日々の生活語ににも禅語、仏教語、はてまたゾロアスター語、キリスト教語、無意識に使っている
>
> そういうもんへ意識をむけて読み解く
>
> 不幸にしてか幸いにしてか、昨日はワクチン三回目
>
> リュックで分厚い期限本を背負って図書館に返却して
>
> 注文しておったエリアーデの世界宗教史と交換
>
> ちらちらとしか見てはおらんも、これもいける
>
> 日常の言葉のみならず、われらの所作、造作、身体、住宅、都市、国、世界構築のなかにいかに宗教的人間の表象が秘んでいることか
>
> このエリアーデも大変な経歴(きょうりゃく)なんだね
>
> いくら日常言語的な経歴があろうが経歴(きょうりゃく)の貧弱なもんは美味しくもないし栄養にもならぬ

さあ、寝よう

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54850] 秘さずとも秘を際限なく担いでよろける 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/12(Sat) 18:44  

寒垢離の背中(せな)袈裟懸けに斬り下ろす
      ↑
寒垢離の背中(せな)へ袈裟懸け傷の跡

傷の跡では迫力がまるでない

やはりここはバッサリやらねばならん机龍之介

閻魔さまバチが当たりますか?

あたらんぢゃろ 巷の句会ならいざ知らず

そうですよね、殺仏殺鼠ならぬ殺祖ですから

まあ、鼠も仏とおもって・・

そうですね、山の割れ目に目を付けるのは、なにも東洋哲学だけぢゃない、科学だって同じことなんだから

だけどみつけた割れ目をどうするかにおいて、鼠君のあのやりかたはやっぱり鼠

科学者でもいるわの、そっこらじゅうにいる、あのやり方の鼠

美味しくない

美味しくないが、不思議なもんだ

@舌下の黙々時代は、まんず、自句自解はせんかった

秘すれば花

世阿弥も丸尾長顕も同じことを言っておる

一句でも一個の人生でも能でもストリップでも、暴露すれば、しらける

まっさらな名刺に毛筆体で大書した名前だけなら、経歴もなにもかも秘

さすれば、霞が関も永田町もフリーパスであったが・・

赤肉団上にいろいろ着こんだ時々の着物あるいは潜めた時々の心根

そういうもんで縦横に編みあがったノット結び目の節をあれこれとりだす

その結び目をほぐしてみても目が凝るばかり

長すぎるのよ、もっと短く

短くしても同じことよ

畢竟、言い尽くせることはない

秘さずとも秘

閻魔さま、これでいいでしょうか?

まんだ云い尽くしておらんぢゃろ、吐け、吐け

一体どんだけ吐けばええのんか、ルオーの刷毛もすり減る

逝った人も生きてる人も出てくる

ひとさまに迷惑をかけてはいかんと慮る(おもんぱかる)こともなく、吐く、吐く

吐いて吐いて糞して糞して、句そして、腹膨るる業はいかんともしがたい

閻魔さまの前だから嘘、でっちあげは金輪際ありません

嘘つけ、閻魔もてめえん中ぢゃろが

閻魔さまだけではありません、神さまも、はては一なるもんも、無も空もてめえん中なんです

つかれるねえ、疲れて、憑かれて、足が萎えるから、歩き出す

ふらふらよろよろ半身が傾いで、そろそろお迎えが誓いのかもしれん

おっと、躓いて、手の中のオットー「聖なるもの」も取りこぼす

死ぬまでそんなことをやってんのかよ

しりません、いつ死ぬのか、でも確実にやってきます

聖なるものは性なるもの

オットーが云っているのか、知らん

しかし、すくなくともフロイト、ユング、エリアーデを持ち出すまでもなく

聖なるものは性なるもの

性なるものは聖なるもの

は間違いない

さすれば男根の句も捨てたもんでもなかろう、が

やっぱりあれも皮相の知

もっと突っ込まなければいけません

大鴉鳴いてニーチェの正午かな

いまだに掴めません

これがほぐれるように大枚、大冊担いでよろよろ

際限なく担いでよろける



やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


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